第一章

第一幕:焚き火の夜に

 ――夜は浅く、風は冷たかった。

 丘を下りてから一日。エリナは土の匂いのする街道を、陽の移ろいとともに黙々と歩き続け、夕暮れが茜から灰へと色を手放すころ、小さな野営場に辿り着いた。旅籠の代わりに焼けた鉄の匂いと焚き火の煙が漂い、荷車の軋み、馬の鼻息、鍋の泡立ちが、夜のはじまりを一つの場所に集めていた。

 井戸は野営場の端にあった。縁の欠けた石積みに桶を下ろし、縄の軋む音を聞きながら冷たい水を汲み上げる。掌が痺れるほどの冷たさに、昼の熱が緩やかに引いていくのを感じた。行商人の男が声をかけてくる。

「嬢ちゃん、パンはどうだい。今朝焼いたやつだ」

「お願いします。……あと、干し葡萄を少し」

 銅貨が掌から落ちる音。受け取った黒パンは素朴で、噛むたびに静かな甘さが口の中にほどけた。

 火の輪から少し離れた木のベンチに腰を下ろし、布包みから母のノートを取り出す。表紙に題はなく、角は擦れて柔らかい。指先でなぞると、不思議と胸が落ち着いた。焚き火の橙が革表紙の皺に小さな陰影を作る。

 その傍らで炭がほの暗く燻り、灰色の粉が舞い落ちるのを見て、ふと夢で見た白と黒の世界を思い出した。現と幻の境が、まだ胸の奥で揺れているようだった。

(これから、どこへ行こうかな――)

 頁を開かず、ただ手触りを確かめる。遠くで誰かが笑い、短い笛の音が夜気を横切った。闇が野営場の端から端へ、乾いた草を撫でるように広がっていく。


    ✦ ✦ ✦


 そのときだった。

「ひとり旅、かしら?」

 背後から落ち着いた女の声。エリナは小さく肩を跳ねさせ、振り返った。黒いフードの影から、赤い髪がほのかに覗いている。灯りの角度で朱にも血の色にも見えた。女は背が高く姿勢が良い。警戒の色は薄いのに、瞳だけが遠いものを映すように澄んでいる。

「ここ、隣に座っても?」

「あ……はい、どうぞ」

 エリナが身を詰めると、女は礼を言って腰を下ろした。衣擦れの音が夜に溶ける。喉の渇きを覚え、水筒を傾けたその瞬間――

「その瞳、綺麗ね」

 開口一番の言葉に、ごくりと飲んだ水が逆戻りする。エリナはむせ、咳が二度、三度。鼓動が喉の奥で跳ねた。

「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」

「い、いえ……!ただ、急で……」

 女は困ったように口角を和らげるが、視線は逸らさない。

「光を飲んだ夜の色。……珍しいわ。生まれつき?」

「……はい。物心ついたころから、ずっとこの色です」

「そう。痛んだり、重く感じたりはしないの?」

「痛みはありません。ただ、たまに勝手に――いえ、違う。ことはあります」

「向こう、ね。何が?」

 問いは優しく、それでいて芯を確かめるように真っ直ぐだった。エリナはノートに視線を落とし、言葉を探す。

「……が。私の願いとか、今の選択とかとは関係なく、決まった形で、ふっと目の前に」

 そこまで言って、口を閉ざした。母の戒めが喉の奥で立ち止まる。女は静かに相槌を打ち、問いを変えた。

「旅の目的は?」

「母の……ノートを読み解くこと。私の瞳のことを、もっと知りたいんです」

「自分の未来を知りたいから?」

「……未来は、怖いです。だって変えられないから」

「怖いのに、行くの?」

「はい。変えられないとしても、その中でどう歩くか……それだけは自分で選びたいんです」

 驚くほど声は揺れなかった。女は短く息を吐く。ため息とも笑いともつかぬ音だった。女は少し黙したのち、焚き火を見つめながら呟いた。

「……枝って、不思議よね。どれほど枝分かれしても、折れるものは折れる。伸びるものは伸びる。それが木の運命……人も、同じ」

「……枝……?」

 意味を測りかねて、エリナは小さく首を傾げた。女はそれ以上説明せず、微笑みにも見える影を浮かべるだけだった。

「その瞳、あなたにとっては、何?」

「……重さ。だけど、それがあるから見える景色もあります」

「誰かに、それを渡したいと思う?」

「思いません」

「奪われかけたら?」

 焚き火がぱち、と弾けた。エリナは小さく背筋を伸ばす。

「足掻くと思います。私のもので、母が置いていったものだから」

「いい子ね」

 褒め言葉にしては、少し硬い響きだった。女の目が一瞬だけ背後へ流れる。焚き火の明滅のようにさりげない動き。それでも確かに何かを見ていた。


    ✦ ✦ ✦


 それからは、他愛のない話が続いた。道の悪さ、昨夜の月の欠け方、この先の峠に出る屋台のスープが塩気を効かせすぎること。女はよく聞き、必要なことだけを話す。瞳の話題には、もう触れなかった。

 ときどき、また、女の視線がエリナの背後をかすめる。野営場の陰に、夜の色が一枚、余分に重なっているような気がした。焚き火の赤が届かないところ、藪の手前、古い旅人の石標。そこに、何かがいる気配。胸の奥で、知らない鈴が小さく鳴る。

(何だろう……この感じ……)

 問いは霧散し、かわりに湯気の立たない井戸水の味が戻ってくる。冷たい。確かだ。両手で水筒を抱えていると、怖さは少しずつ輪郭を失った。

 東の空が、深い黒の底から淡く解けていくころ、鳥が最初の短い鳴き声を置いた。女が首を巡らせる。

「そろそろ行かなきゃ」

 気づけば夜は尽き、話はいつの間にか、一晩分の長さになっていた。

 エリナはベンチから立ち、裾の埃を払う。女も立ち上がり、フードを整えた。向かう方角は、どうやら正反対らしい。分かれ道まで並んで歩く。足音が二つ、砂の上に交互に重なる。

 分岐で足を止めると、女はふと思い出したように言った。

「そういえば……瞳に興味を示している者たちがいるわ。リディアとノア――今の時代の英傑。名前くらいは聞いたことがあるでしょう?」

「……はい。治癒魔法を編み出したのが、リディアさん。それから……蒸気機関、でしたっけ。ノアさんが作ったって……聞いたことだけはあります」

「ええ。二人とも、世の中を動かすほどの力を示してきた。瞳についても探ろうとしているらしいわ。……会ってみれば、きっと得られるものがあるはず」

「どこに行けば、会えますか」

 女は少しだけ考える素ぶりを見せ、曖昧な地名をひとつ挙げた。街道を南へ、谷を越え、石橋の向こう。季節によって居場所が変わる、とも。

「人づてを当たれば、足跡は見つかる。あなたなら、なおさら」

「教えてくださって、ありがとうございます」

「いいえ」

 女は、微笑んだ——ように見えた。フードの影で表情は半分しか読めない。それでも、口元のわずかな緩みが、夜の硬さをほどく。

「旅の加護を」

「あなたにもね」

 互いに一礼し、背を向ける。数歩、離れる。十歩。二十歩。エリナは一度だけ振り返った。女の姿はもう、行き交う荷車の向こうに小さく、黒い点のようになっている。彼女もまた、一度だけ振り返った気がした。


    ✦ ✦ ✦


 英傑——歴史に名を遺す人たち。手の届かない遠さのはずの名が、今は街道の延長に置かれた目的地のように思えた。村がどれほど小さくても、名前は風に乗って届いてくる。それは憧れというより、避けられない縁のように胸に残った。

(本当に、会えるのかな)

 疑いはあった。けれど、あの女は親切だった。問いの刃筋は鋭くても、血の匂いはしなかった。信じることは、弱さじゃない。歩くための重心だ。

 エリナは母のノートを布で包み直し、帯の内側に収める。胸の前で、軽く叩く。そこにある、と確かめる。

 道は、朝の光に薄く銀色の縁取りをされて、地平へ伸びていた。霜の残る草が靴の縁を濡らす。空は青の手前で、昨日と今日の境界を溶かし、鳥の声は二つ目、三つ目と数を増やしていく。

「リディアさんと、ノアさん」

 小さく名前を呼ぶと、吐く息が白くほどけた。その白は、すぐに空の薄明に混ざって消える。けれど、声は自分の中に残る。

 背後の野営場から、誰かの囁き声が風に乗って届いた気がした。聞き取れない。振り返らない。振り返らないと決めたから振り返らない。夜の余韻はいつだって甘く、足を引き留める。

 エリナは歩き出した。ひとつ、石標を過ぎる。ふたつ、影を踏む。三つ目の足音で、意志は体重の下に定着する。世界は決まっている。けれど、決まっている世界を、どう歩くかは、まだ残っている。

 東の空に、ようやく日が昇った。薄金の光が、旅人の背と道の砂と、胸のうちの小さな星を同時に照らす。母のノートが、布越しにかすかに温い。

 目的地は決まった。谷を越え、石橋を渡り、人づてを頼って——英傑のもとへ。

 エリナは、昨日までの自分にそっと別れを告げるように、ほんの少しだけ速く歩いた。

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