2 月と星

 フロントの前で受話器を置くと、ナイロットはやるせない表情をミミアへ向けた。

「やっぱり、迷宮が解ける9時過ぎにならないと、警察は来られないそうです……」

「ったく。警察のくせに迷宮のひとつも突破できないの?」

 腕組みをしながらミミアは言った。それから、食堂の椅子に座っているシャーバの方を見た。

「あんた探偵でしょ。あんたがやりなさいよ」

「…………」

「警察に長時間滞在されたら、『あれ? あそこのホテル、殺人でもあったのかしら?』ってよくない噂が立つでしょ。あいつらが来る前に、とっとと事件を解決して。なるべく内々で済ませたいの」

「ミ、ミミアさ……」

「分かってます」

 シャーバは立ち上がった。

 それからミミアの前にゆき、鋭いまなざしを向けた。

「言われなくとも、そのつもりです」

 シャーバは身を翻し、階段の方へ向かった。

 ミミアとナイロットは、無言でそのあとに続いた。

 階段を上っていくと、一階と二階の間の踊り場に、リーティーが立っていた。

「あの、すみません……。下で話してるの、聞いちゃって……」

 リーティーは首にカメラをさげていた。

「警察は、すぐには来られないんですよね。私、何かお役に立てればと思って……」

「弟の死体を撮って、新聞社に売りつけるつもり?」

「そんなんじゃありません」

 真剣な表情で、リーティーは言った。「証拠写真として、純粋に、捜査に役立ててほしいだけです」

「…………分かった」

 シャーバとミミア、ナイロットはぞろぞろと階段を上った。

 リーティーもそのあとに続いた。



 303号室のドアの前には、ひっくり返ったトレイと、朝食の残骸と、食器の破片が散らばっていた。

 現場に誰も立ち入らないよう、先程から、ドアには鍵をかけていた。ミミアが、マスターキーでそれを解錠した。

 一同の目の前に、先程と同じ陰惨な光景が飛び込んだ。

 シャーバは顔色を変えずに、ユスチルの死体を見下ろしていた。

 それから、リーティーとともに部屋の中に入った。

 死体は部屋の中央に仰向けに倒れていた。胸部を、何箇所も滅多刺しにされている。

 凶器と思われるナイフは、死体のすぐそばに落ちていた。

 リーティーが、何度もカメラのシャッターを切った。

「このナイフに見覚えは?」

 振り向いて、シャーバはたずねた。

「キッチンにあった、ナイフだと思います……」

 部屋の外から、おそるおそるナイロットが言った。「さっき確認したら一本足りなかったので、間違いないと思います」

 部屋の隅にはくしゃくしゃになった半透明の物体があった。

 シャーバが手に取って広げると、それはレインコートとゴム手袋だった。どちらにも、血痕が付着している。

「これを着て返り血を防いだんですね」

 リーティーは言った。

「それ、うちのレインコートじゃない?」

 ミミアも、部屋の外から顔を覗かせて言った。

「一昨日、納戸にあったやつですか?」

 シャーバは言った。

「はい。一昨日の夕方に僕が使って、そのあとはずっと、玄関脇のコート掛けにかけてありました」

 ナイロットが言った。「ゴム手袋も、キッチンやら納戸やら……ホテルのどこかしらに置いてあります」

「ナイフもレインコートもゴム手袋も、誰でも簡単に持ち出せる場所にあったってことですね」

 リーティーは言った。

 シャーバは机の方に向かった。

 その上には、金属でできた四角いコンパクトのようなものがあった。ケースの外側には、キラキラとした金色の小さな花がびっしりとまとわりついている。シャーバが中を開くと、内側にも、同じく金色の小花が敷き詰められていた。

「なんなんでしょうか、これ」

 不思議そうにリーティーは言った。「鏡も白粉おしろいも付いてませんし……」

 シャーバは首を振った。それから、コンパクトのそばに置かれていたピンク色の軸をしたペンを手に取った。こちらにも、金色の小さな花がついている。

「お部屋によって、備え付けのペンのデザインがちがうんですね」

 リーティーは言った。「私の部屋にあったのは、フロントのと同じ、ピンクの軸に金色の金具で、花飾りがついてないやつでした」

「それ、うちのじゃないわ」

 ミミアが言った。「うちで使っているペンは、フロントも、部屋に備え付けのものも全部同じ。高級文具メーカー『デューデック』のピンクで統一してあるの。花飾りなんてついてない。そのペンは多分、弟さんの私物でしょ」

「そうなんですか?」

 リーティーが聞いた。

「いや……」

 シャーバは険しい表情で言った。「見た覚えは……」

 机の上には他に、大量の燃えカスが入った灰皿と、ヴァクシーホテルの名前が入ったピンクのマッチ箱、使用済みのマッチが数本落ちていた。

「犯人が、何かを燃やしたんでしょうか……?」

 リーティーは言った。

 シャーバははっとして、すばやく机の引き出しを開けた。それから、ベッドの足元に置かれていた手提げ鞄を、乱暴にひっくり返した。

「ない……」

「え?」

「調査記録の書類。昨日の午後と深夜も、ユスチルは張り込みに行っていた。その時に、調査対象者の行動を記録したメモやノートが残ってるはずなんだ」

 シャーバは鞄の中からカメラを取り出し、裏蓋を開けた。そして呆然とした。

「フィルムも無くなってる……」

「じゃあ、この燃えカスって……」

 シャーバはクラッチバッグを開いた。現金と通帳、薬屋のポイントカードが入ったままになっている。

「やっぱり、金銭目的の犯行ではなさそうですね」

 リーティーは言った。

 シャーバはトランクを開いた。

 僅かな着替えと、紺色の薄い本、透明な石がついたペンデュラムが無造作に入っている。

 本の表紙とペンデュラムの石には、まったく同じ、月と星の紋章が刻まれていた。

 細い三日月の、右下の位置に来るように星が描かれており、三日月の右側には横一本の光の筋が、星のやや右下には、十字に輝く光が描かれている。

「これは?」

 リーティーは言った。

「魔導書だ。あいつは、修復魔法をやっていたから」

 シャーバはベッド脇の窓の方へ向かった。

 窓ガラスの下部が、小さく割られている。真下の床には、ガラスの破片はほとんど落ちていない。

 窓辺を離れ、ドアに近い位置にある備え付けの棚の上を見ると、車の鍵と、303号室の鍵、妖精のマークが描かれたガラスの小瓶が五本並んでいた。

 その内の二本には開封された跡があり、中身は空になっている。

「栄養ドリンクだよ」

 リーティーにたずねられる前に、シャーバが言った。「あいつは仕事へ行く前に、よく飲んでいた」

 シャーバたちはバスルームの方へ向かった。洗面具や歯ブラシなどが乱雑に置かれているだけで、特に変わったようすはない。

 バスルームを出ると、リーティーはもう一度部屋の中を見回した。

「ユスチルさんの荷物はこれだけですか?」

「ああ。燃やされた書類以外は……」

 そう言って、シャーバはドアの外で待つナイロットの方を見た。

「死体を発見したとき、この部屋へは、マスターキーで?」

「い、いいえ。部屋の鍵は開いていたんです」

 ナイロットは言った。「何度も声をかけたんですがお返事がなかったので、ノブに手をかけたら……」

「ナイロットさん、今朝は何時に?」

「朝4時に起きて、お約束通り、玄関の鍵を開けておきました」

「そのあと、ユスチルが帰ってくるのを見ましたか?」

「はい。4時半頃に。大体昨日と同じ時刻です」

「じゃあ、ユスチルさんが殺されたのは、4時半よりもあとってことですね」

 リーティーは言った。

「その時の、ユスチルのようすは?」

 シャーバは聞いた。

「とてもお疲れのようでした」

「そりゃあ、徹夜で張り込みしてたんだからねえ」

 ミミアは言った。

「それは、そうかもしれないんですけど……」

 歯切れ悪く、ナイロットは言った。

「けど?」

 ミミアは聞いた。

「いえ、なんだかすごく、具合が悪そうというか……。不気味なくらい、顔色が悪いように見えました」

 シャーバはあごに手を当て、思案した。

「どうかしたんですか?」

 リーティーは言った。

「いや、昨日の夜、張り込みに出かける前も、そうだったんだ」

「ユスチルさんのようすがですか?」

「うん……」

 シャーバはもう一度ナイロットの方を見た。

「他に変わったことは?」

「変わったことぉ……ですかぁ……」

 ナイロットは考えていた。

「…………バーナー……?」

「バーナー?」

「ええ。今朝の5時過ぎに、キッチンでマシュマロを焼こうとしたら、バーナーが見当たらなかったんです……。あ、でも、朝食の支度をしようとしたときには見つかったんですけど。単に、僕が寝ぼけていただけかもしれないです……」



「4時半っていやぁ、俺はここで寝てたぜ」

 自室のベッドにどっしりと腰かけながら、タンガスは言った。「もうぐっすりと」

「何か、不審な物音を聞きませんでしたか?」

 シャーバはたずねた。

「いいや。基本的に、俺は一度寝たらちょっとやそっとのことじゃ起きねえんだ」

 リーティーは部屋の中を見回していた。ベッドの脇に、頑丈そうな鍵付きのトランクが置かれている。

「仕事道具さ」

 タンガスは言った。「斧やら、鉈やら、色々とな」

 机の上にはたくさんの本が置かれていた。

 その中には、ユスチルの部屋にあったものと同じ、表紙に月と星の紋章が刻まれた本もあった。ユスチルの部屋にあったそれとは違い、カバーの色は緋色をしている。

「タンガスさんは、回復魔法の勉強をしてるんだよ」

 シャーバが言うと、リーティーは興味深そうに頷いた。

 シャーバは棚の上に並んでいるガラスの小瓶を見た。瓶の色は黒褐色で、ラベルや飾りは何もない。

「これが例の、旅商人から買った栄養ドリンクですか?」

「ああ。そいつぁよく効くぜ。飲めばたちまち力がみなぎってくる」

「商人が売っていた栄養ドリンクは、この一種類だけですか?」

「あ? さあな」

 タンガスは首をかしげた。

「俺はそれを勧められただけだからよ」



「4時半頃、廊下の足音で目が覚めました……」

 自室のベッドにちょこんと座りながら、ポープリッタは言った。

「そのあとまたすぐに眠って……。次に目が覚めたのは、5時を少し回った頃でしょうか……ガラスの割れる音が二度、聞こえたんです」

「二度?」

 シャーバはたずねた。

「ええ。一度目の音で目が覚めたあと、少しの間うつらうつらとしていて……そうしていたら、二度目の音が聞こえました。一度目は不確かですが、二度目は、確実に窓際の方からだったと思います」

「誰かの話し声や、争うような音を聞いたりは?」

「いいえ。足音を聞いてから、ガラスの割れる音を聞くまでは、とてもよく熟睡していましたし……そのあとも、またすぐに眠ってしまったので……」

 ポープリッタの荷物は、机の上に小さくまとめられていた。

 旅行鞄が二つと、花飾りがたくさん入ったアクセサリーケース、手鏡、本、ペンデュラム。どれもミニチュアサイズのものだ。

 リーティーが目を細めて、ペンデュラムの先端についた石を確かめた。

 そこには、ユスチルの部屋にあったペンデュラムと同じ、月と星の紋章が刻まれていた。

「ポープリッタさんも、魔法を?」

 リーティーはたずねた。

 自信なげに、ポープリッタは言った。

「ええ。花魔法と光魔法を、少々……。まだ勉強を始めたばかりで、大したことはできませんが……」



 ポープリッタの部屋を出ると、隣の303号室の前で、ナイロットが涙ぐみながら、自身がひっくり返した朝食の残骸や食器の破片を片付けていた。

 ミミアは、壁を背にして立っていた。

「何か分かった?」

「いえ、まだなんとも……」

 シャーバは力なく言い、もう一度現場に足を踏み入れた。

 死体の上には、全身を覆うようにシーツが被せられていた。

「……何かかけてあげた方が、いいと思って……」

 しゃくりあげながら、ナイロットは言った。「すみませ……勝手なことして……」

「いえ、大丈夫です……」

 シャーバは言い、机の前に立って思案しはじめた。

「ポープリッタさんがガラスの割れる音を聞いたのが5時過ぎということは、犯行時刻も、その頃なんでしょうか?」

 棚のそばに立ちながら、リーティーは言った。「犯人とユスチルさんが揉み合ううちに、窓ガラスが割れて……とか」

 シャーバは黙って灰皿を見つめていた。

「そういえばこの栄養ドリンク、タンガスさんの部屋にあったものとはちがいますね」

 棚の上の小瓶を一本手に取り、リーティーは言った。

「ユスチルさんは旅商人ではなく、このホテルに着く前に、どこか別の場所で買っ——」

 小瓶が、リーティーの手から滑り落ち、パリンと音を立てて床に砕けた。

「大事な遺留品が!」

 リーティーは慌ててしゃがみ込み、ガラスの破片をつまみ上げた。

「っ痛————!」

 リーティーの右手の人差し指から、血があふれ出した。

「何やってんのよ」

 部屋の外から、呆れ声でミミアが言った。「あんた今日厄日? 早くこっち来なさい。下で手当てしてあげるから」

「ううう〜。ごめんなさい……」

 リーティーは人差し指を左手でぎゅっとおさえながら部屋を出ると、ミミアとともに階下へと向かった。

 ナイロットはまだ、朝食の残骸を片付けていた。

「そういうことか……」

 ドアの向こうを見つめながら、シャーバは呟いた。

「へ?」

 涙目になった顔を上げ、ナイロットは言った。

 シャーバは毅然と言った。

「ナイロットさん、みんなを食堂へ集めてください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャーバの迷宮 @pkls

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ