シャーバの迷宮
@pkls
1 ヴァクシーホテルにて
「あっれー」
オンボロの車を止め、ユスチル・スタヤバーンは運転席の窓から顔を覗かせた。
助手席に座るシャーバ・スタヤバーンは、新聞へ落としていた目線を、フロントガラスの方へ移した。
「何?」
「あれ、あれ」
ユスチルは指差した。
前方の森には、樹枝が絡み合うようにしてできた美しいアーチ型の入り口がぽっかりと開いている。その脇に、横長の立て看板が設置されていた。
〈通行禁止〉
「通行禁止だぁ?」
シャーバはぐっと首を伸ばして、フロントガラスの向こうに目を凝らした。
「行き止まりってこと? なんで?」
しっかりとハンドルを握ったまま、ユスチルはうんざりとしたようすで言った。
「さあ」
シャーバはぼんやりと言った。
「この森の奥にも宿があるって、町の人が言ってたんだよ。そこからさらに進めば、王都にも行けるからって。俺たち騙されたのかな?」
「さあ」
「えぇーーーー。町のホテルは満室なんだよ? 俺車中泊なんてやだよお風呂入りたいご飯食べたいふかふかのベッドで寝ーたーいー」
ユスチルはハンドルにもたれながらそう言うと、もう一度、フロントガラスから森のようすを窺い見た。
「実際さぁー。『通行禁止』なんて大袈裟じゃない? どうせ倒木があって通りづらいとか、ちょっとやんちゃな野生動物が出てくるとか、そんくらいでしょ? 慎重に行けば大丈夫だよ。ね? ねえ?」
「さあ」
呟くように言いながら、シャーバは一人車を降りた。
「え、何? 何? どこ行くの?」
シャーバは立て看板の方に向かってとぼとぼと歩きだした。
そこから、辺りをきょろきょろと見回すと、少し離れた草むらの中から、何かを拾い上げた。
「風かなんかで、ぶっ壊れたんだろ」
シャーバは拾い上げたものを車の方へ向けた。横長の板切れだった。
〈この先 時間帯迷宮につき 朝7時〜9時〉
「なんだぁ」
ユスチルはほっと息をついた。さいわい、現在の時刻は午後4時だった。
ユスチルは車を降りてシャーバのもとへ向かった。
シャーバから板切れを受け取り、壊れた看板の上に添えると、割れ目にそっと手をかざす。あっという間に、看板はほとんど元通りと思われる状態になった。
「修復魔法? いつの間に」
シャーバは目を見張った。
「へへ。最近習得した」
少し自慢げに、ユスチルは言った。「ほら、車にあちこちガタが来てるからさ。使えた方が安心かと思って。でも、この魔法じゃ完全な修復はできないから——」
ユスチルは、看板の真ん中に少しだけ残った裂け目をなぞった。
「時間が経つと、また壊れちゃうんだけどね」
二人はとぼとぼと車に戻った。
シャーバは深々とシートに落ち着き、再び新聞を広げた。
ユスチルは気を取り直してアクセルを踏んだ。オンボロの車はのろのろと進み、裂け目の入った立て看板の横を通り過ぎてゆく。
森へ入る瞬間、ユスチルはささやいた。
「役所に電話しなきゃ」
しばらくして、少しひらけた場所へ出ると、ピンク塗りの建物がすぐに目に入った。
三階建てのこぢんまりとしたビルで、周囲に他の建築物は何一つない。森に囲まれた原っぱの真ん中に、ぽつんとそのビルだけが建っている。
入口のドアの上には、派手な照明に照らされた看板が掲げられていた。
《ヴァクシーホテル》
ホテルの脇には、漆黒のいかついバイクが一台停まっていた。
ユスチルはその付近の適当な場所に車を停めた。二人はそれぞれ荷物を手に、車を降りた。
シャーバは空を見上げた。先程まで晴れ渡っていたはずの空が、いつの間にかどんよりとした曇り空へと変わっている。
元来た道とは反対側の方角を見やると、原っぱを取り囲む木々の中に、たった一つ、枝葉やツルがぼうぼうと伸びた荒れ果てた出入り口があった。
「あれが王都へ向かう道か」
シャーバは言った。
「え? ああ、多分」
気のないようすでユスチルは言った。それから、ギィと音を立て、ホテルのドアを開けた。
左手のフロントに、ピンクのシャツワンピースを着たスタッフが立っていた。
バニラ色のロングヘアに、ピンクの舟形帽をかぶり、眠たげに目を細めて、首だけをドアの方へ向けている。
「らっしゃいませ。ようこそヴァクシーホテルへ」
シャーバたちはドアの前で固まっていた。それから、いぶかしみながらも中へ進んだ。
フロントのカウンターは電話以外に何も置かれていない、殺風景な装いだった。
「二名?」
スタッフはそっけなく言った。
「あ、はい」
小脇に抱えていたクラッチバッグを取りだしながら、ユスチルは答えた。
「何泊?」
「二泊で」
「うちは全室シングルなの。今日はもう、角部屋は全部埋まってる。三階の中央に、隣同士二部屋が空いてるけど」
「じゃあ、そこで」
「希望なら、朝食と夕食が付くけど」
「お願いします」
「ルームサービスと、あと」
スタッフはフロントの反対側を見やった。
シャーバたちも振り向いた。低い間仕切りの向こうに、テーブルがいくつか並んでいる。
「食堂もやってるから、昼間にお腹が空いたら適当に何か頼んでね」
この辺は他に食べるところもないし……と言いながら、スタッフは手元の書類に何かを書き込んだ。ユスチルは頷いた。
スタッフは広げたノートとペンを差し出した。ピンクの軸にゴールドの金具がついた、やけに高級そうなノック式のペンだった。
「ここに二人の名前と、年齢、職業」
ユスチルは言われるがまま、二人分の個人情報をすばやく記入した。魔法にかけられたような、信じられないくらい滑らかな書き心地のボールペンだった。
ノートを返すと、スタッフは瞼の落ちた瞳をさらに細めて、記入された欄をしげしげと見つめた。そして、一瞬だけ瞳を大きく見開いた。
「探偵?」
「ええ、まあ……」
「兄弟で探偵業をやってるの?」
「ええ、まあ。探偵なのは兄の方で、僕は助手ですが……」
「探偵手帳」
スタッフは眠たげな瞳を、機敏な動きでシャーバの方へ向けた。「見せてよ」
シャーバは少したじろぎながらも、コートのポケットをさぐり、濃紺色の手帳を取りだして見せた。表紙には、オオルリの立派な紋章が埋め込まれ、その下には〈世界秘密探偵機構〉と記されている。
「うおーすげー」
スタッフはぼうっと言った。それから、ノートをぱたんと閉じた。
「じゃ、宿泊料先払いだから。二食付き二泊三日。二名様で14980円頂きます」
「ああ、はい!」
ユスチルは慌ててクラッチバッグから現金を取り出した。
「ミミアさーん!」
青髪の小柄な青年と、食パン色をした大型犬が、ばたばたと廊下をかけてきた。
「買い出しに行ってきま——」
青年はシャーバたちの姿に気づくと、大型犬とともに足を止めた。
「ああ、いらっしゃいませ〜」
青年は輝くような笑顔で言った。水色のシャツに、紺色の半ズボンをはいている。
「僕、ナイロットっていいます。こっちは相棒のアキティーヌ」
アキティーヌはもふもふの額をシャーバたちの脚にこすりつけてきた。それから、つやつやの黒豆のような瞳で二人を見つめた。
「御用があればなんでも言ってくださいね」
ナイロットはそう言うと、アキティーヌとともに玄関の方へかけだした。
「お出かけですか?」
シャーバはたずねた。
「はい! 町まで食材の買い出しに」
「もうすぐ、ひと雨来ると思いますよ」
「え?」
ナイロットとアキティーヌはおんなじ動きで窓の外を見やった。空は、先程シャーバが見たとき以上に暗みを増していた。
「レインコートを買っておいたわ」
ミミアが言った。「納戸にしまってあるから。着ていきなさい」
「さっすがミミアさん!」
ナイロットとアキティーヌは廊下をかけ戻り、突き当たりにあるドアを開けた。
「あの、車、表に適当に停めちゃったんですけど」
ユスチルは言った。
「ああ」
スタッフは札を数えていた。「どこでもいいわよ。ここら一帯私の土地だから」
「周りの、森も?」
シャーバはたずねた。
「あれは国の管轄」
「このホテルのオーナーも、あなたなんですか?」
ユスチルは言った。
「ええ」
ファイルに何か書き込むと、スタッフはぐいと腕を伸ばし、シャーバたちの目の前に、角棒状のキーホルダーが付いた鍵を二本、差し出した。キーホルダーにはそれぞれ、〈302〉〈303〉と刻印されている。
スタッフは一本調子で言った。
「支配人のミミアです。御用の際はなんでもどうぞ」
シャーバたちは鍵を受け取った。
その後ろを、レインコートを着込んだナイロットとアキティーヌがかけ抜けた。二人とも、早々とフードをかぶっている。
「あ、お二人とも、お夕食、何がいいですか?」
ナイロットが玄関のドアをギィと開きかけて言った。
「ええー! リクエスト聞いてもらえるんですか? 嬉しいな」
ユスチルはにやにやしながら考えた。「俺、カツオのたたき」
「や…」
突然の問いに、シャーバは戸惑いながらも答えた。「焼きおにぎり……」
「任せてください!」
はりきって言うと、ナイロットはアキティーヌとともに外へ飛びだしていった。
シャーバとユスチルはフロントに向き直った。
ミミアは眠たげな顔で立っていた。
「あ、荷物は自分で運んでね」
夕食は7時だった。
一階の食堂に宿泊客たちが集まり、同じテーブルを囲んだ。
「あれ? 204号室のお客さんは?」
リーティーという201号室の宿泊客は言った。
ミルクティー色の髪をツインのおだんご頭にし、服装はベージュのブレザーとスカートという制服姿だった。17歳の学生だという。
「彼は部屋で食べるから」
テーブルにスープを並べながら、ミミアは言った。
食堂に、焦げた醤油の香りが漂いはじめた。シャーバがキッチンの方を見てみると、ナイロットがバーナーでおにぎりを炙っているところだった。
204号室の客を除く、五人の宿泊客での食事が始まった。
話をするうち、五人全員が今日の午後に町の方からやってきて、五人全員が王都を目指していることが分かった。話の中心は、それぞれの王都へ行く『目的』についてだった。
「修行、ですか?」
リーティーは聞いた。
「ええ。妖精は20歳になると、人間の御付きとなって行動を共にするという、修行の機会を与えられるんです」
ポープリッタという304号室の宿泊客は言った。
背丈が15センチ程度のキラキラと輝く妖精で、肩にかかるふわふわの髪に花飾りをつけ、背中からはガラス細工のようなオーロラ色の羽を生やしていた。
ポープリッタはテーブルの上に用意されたミニチュアのテーブルに着き、ミニチュアのフォークで、ミニチュアの器に盛られたミニチュアのオレンジサラダを食べながら説明した。
「妖精は寿命が長いですから。人生におけるさまざまな困難を乗り越えたり、おのれを律するために、年齢に応じて、たくさんの儀式や修行の機会が設けられているんです。今は御主人となる方を探すために、いろんな町を渡り歩いているところです。リーティーさんは?」
「私も、修行のようなものかもしれません。私は将来、新聞記者になるのが夢で……。学校が休みのときは、こうしていろんな場所へ赴いて、スクープがないか探したりしているんです。タンガスさんは?」
「仕事だよ」
タンガスという301号室の宿泊客は言った。
大きく逞しい体に、顎髭を生やした中年の男で、職業は
「知ってるか? もうじき国が新しい施設を建設するって。自慢じゃねえが、俺は一級の杣師でな。それでお呼びがかかって、王都で開かれる説明会に向かう予定なんだ。王都なんざ、16の時にかみさんと行ったきりでよ……」
あそこは性に合わねえ町だ、とタンガスはこぼした。それから、シャーバたちの方を見た。
「お前たちは?」
「ああ、僕たちは、兄弟で探偵業をやってまして……」
ユスチルは言った。
「何か事件ですか?」
飛びつくように、リーティーが聞いた。
「……父を捜しているんです」
焼きおにぎりをパクつきながら、シャーバは言った。
「お父様を……?」
ポープリッタは言った。
「ええ。僕たちの故郷では、父は伝説と謳われた名探偵だったのですが、僕らが幼い頃、『この世界の謎を解き明かしに行く』と言って、一人で家を出ていきました。その時、まだ幼い僕に、父が残した言葉が……」
「なんですか?」
わくわくしたようすで、リーティーは聞いた。
少し笑って、シャーバは言った。
「『もしもお前が名探偵になりたいと望むなら、私を見つけてだしてごらん』と。それで、弟と二人、こうして世界中を旅しているわけです」
「なるほど」
タンガスはにやりと笑った。「父親を見つけだしたとき、ようやく一人前の名探偵になれるってわけか」
「まあ、そういうことでしょうか……」
照れくさそうに、シャーバは首をひねった。
「そのついでと言ってはなんですが」
ユスチルは言った。「旅先で遭遇した事件を解決したり、警察に捜査協力をしたりしているんです」
「へえ……。なんだか素敵ですね。事務所を持たず、旅をしながら、なんて」
ポープリッタはうっとりと言った。
「私……なんとなく聞いたことがあります」
リーティーが言った。
「王都には、事務所を持たず、連絡先も明かさず、人づてでしか依頼を受けない、謎のベールに包まれた名探偵がいるとか……。噂によるとその探偵は、『私は謎を解き明かすのが仕事だが、同時に、私の存在そのものが、〝解き明かされるべき謎〟でもある』と言っているそうです。もしもその言葉の意味が、シャーバさんたち兄弟に〝見つけだされるのを待っている〟ということだとしたら……」
「兄さん……」
ユスチルは隣に座るシャーバを見た。
「うん……」
シャーバは思案顔で、皿の角のニンジンをつついた。
「204号室のお客さんは、何をされてる方なんでしょうか」
唐突に、ポープリッタが言った。
一同はキッチンのカウンターのそばに立つミミアを見た。
「個人情報だから」
ミミアは言った。それからしゃがみ込み、そばにいるアキティーヌの前にビフテキ丼を差し出した。
「ありゃ旅商人だ」
山盛りのわさびがのったステーキを食べながら、タンガスは言った。「ここに着いてすぐのとき、階段ですれ違ってな。俺が『一仕事終えて疲れてる』と言ったら、栄養ドリンクを売ってくれた」
「へえ。こういう辺鄙な場所に旅商人が来てくれると、何かと助かりますよね」
ユスチルは言った。
「それはどうでしょうか」
怪訝な面持ちで、ポープリッタは言った。
「私はああいう、店を構えずにふらふら歩き回って商売をしている人は、なんだか信用できません」
夜10時。
シャーバは食堂で、現在調査中の事件の資料を読みながらコーヒーを飲んでいた。
他のテーブルには、夕食をともにした客たちがいた。
リーティーはカメラの手入れを、タンガスは読書を、ポープリッタはお茶を飲みながら、それぞれ別々のテーブルで寛いでいる。
コートを羽織ったユスチルが、鞄を手に階段を下りてきた。
「どっか行くの?」
フロントにいたミミアが声をかけた。
「ちょっと、町に戻って張り込みの仕事をしなくちゃいけなくて……。ここって、夜間は?」
「がっつり施錠しちゃってます」
食堂のキッチンからナイロットがやってきて、申し訳なさそうに言った。「0時には鍵を閉めて、フロントも空になります」
「我々はちゃんと寝るのよ」
ミミアは言った。
「お戻りは何時の予定ですか?」
ナイロットが聞いた。
「明け方4時……過ぎだと思う」
「ああ、それなら僕、4時には起きてるんで、玄関の鍵、開けておきますよ」
「はぁ、よかったぁ……」
「但し、遅れる場合は要注意よ」
鋭い口調でミミアが言った。
「ここに来るときに見たと思うけど、朝7時〜9時の間、このホテルの周囲の森は通れなくなるから」
「ああ、時間帯迷宮……」
「なんのことですか? 『時間帯迷宮』って」
リーティーが言った。
「あれ? リーティーさん、ご覧になりませんでした?」
ポープリッタが言った。「町から森に向かう入り口の前に、立て看板があったの」
「あったは、あったんですけど……」
「壊れて吹っ飛んでたんですよ、あれ」
シャーバは言った。「だから僕たちも、最初はあの森が『時間帯迷宮』だって気づけなかったんです」
「そうそう。それで役所に電話しようと思ってたんですよ」
ユスチルは言った。「一応、応急処置はしましたけど、また壊れるのも時間の問題なんで」
「ああ、どうりで」
ナイロットは言った。「夕方、買い出しから戻るとき、『この看板、こんなに歪んでたっけ?』って、アキティーヌと話してたんですよ。壊れてたんですね、あれ」
「私が昼の1時に森へ入ろうとしたときは、壊れてませんでしたけどね」
ぼんやりと思い返しながら、ポープリッタは言った。
「俺は2時に森を通ったが、その時もまだ壊れてなかったぜ」
タンガスは言った。
「私が3時に森へ行ったときには、もう壊れてました」
リーティーは言った。
「じゃあ、午後2時から3時の間に、風でも吹いて壊れたんですかね」
ユスチルは言った。
「風ぇ?」
ミミアは顔をしかめた。
「今日のその時間、看板が吹っ飛ぶほどの強風なんて、吹いてた?」
「ここと向こうじゃ、天候がちがうのかもしれません」
ナイロットは言った。
「それにしても、その状況でよく森へ入ろうと思ったな、嬢ちゃん」
タンガスは言った。「危険な目に遭うと思わなかったのか?」
「え、えへ……。入るなと言われると入りたくなってしまうのが記者の性というもので……」
照れたように、リーティーは言った。
「あの迷宮は、一体なんのために?」
シャーバがたずねた。
「知らないわ。昔かけられた魔法が、今も解けないまま残ってるのよ」
早く解いてって何度も役所に電話してるのに、と言いながら、ミミアは電卓を叩いた。
「『周囲の森』ってことは、もちろん、王都へ向かう方の道も?」
「ええ。だからうちでは、お客様には朝9時以降のチェックアウトをお勧めしてるの」
7時より前にチェックアウトしたいとかはやめてね。眠いから、と、ミミアはシャーバの顔も見ずに言った。
「とにかく、森が迷宮に変わる前には戻りますので」
ユスチルは言った。
「お気をつけて」
ナイロットは言った。アキティーヌが、ユスチルの脚にすりすりした。
「気をつけて」
シャーバは言った。夜道の運転だけではなく、〝張り込みの対象者に悟られぬように〟という意味も込めていた。
「うん。いってきます」
ユスチルは屈託のない笑顔でそう言うと、ギィと音を立て、ホテルを出ていった。
「私も」
カメラを手に、リーティーは椅子からひょいと立ち上がった。「なんだか面白そうなことを聞いちゃったので、迷宮の森を撮影してきちゃいます」
「い、今からですか?」
ナイロットは言った。「迷宮になるのは朝方だけですよ?」
「はい。迷宮の夜の姿もカメラに残しておきたいので。あ、ちゃんと0時までには戻ります」
「そうですか。では、お気をつけて」
リーティーはギィと音を立て、ホテルを出ていった。
しばらくして、食堂にいた客たちも、それぞれ自分の部屋へと戻った。
翌朝8時。
客たちは食堂に集まり、朝食を食べていた。
そこに、204号室の客の姿はない。
ユスチルは8時15分にやってきた。席に着くなり、流し込むように朝食を食べはじめる。
「そんなに急がなくても」
ナイロットは言った。アキティーヌも、不思議そうにユスチルのことを見つめている。
「これから、昨日の調査結果をまとめなきゃならないんで」
ユスチルはあっという間に朝食を食べ終えた。そしてコーヒーカップを手に、すぐさま部屋へ戻った。
8時30分。
シャーバは朝食を終え、食堂で新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
階段から、身なりのいい中年の紳士が下りてきた。おそらく、204号室の旅商人なのだろうと、シャーバは思った。
紳士はフロントへ向かい、ミミアと話し始めた。
ミミアは首を横に振った。
紳士は窓の向こうを指差した。
ミミアは首を横に振った。
紳士はもう一度指差した。
ミミアは軽く頷いた。
紳士は鞄から何かを取りだし、ミミアに手渡すと、上階へと引き返していった。
9時。
紳士が再びフロントに現れ、ミミアに深々と礼をすると、ホテルをチェックアウトした。
ナイロットは朝からテキパキと働いていた。あっという間に朝食の片付けを終えたかと思うと、今度はキッチンでカツオのたたきの仕込みを始めている。
シャーバはコーヒーを飲み終え、部屋へ戻ることにした。
階段へ向かう途中、廊下の突き当たりの納戸から出てきたミミアとすれちがった。
ミミアは、やはり眠たげだった。
一階と二階の間の踊り場まで行くと、何か光るものが胸を直撃し、床に落ちた。見ると、それはポープリッタだった。
「すみません、私、ついスピードを出しすぎてしまって……」
ポープリッタは腰をさすりながら浮遊した。「お怪我はありませんか?」
「もちろん、僕は大丈夫ですが……」
実際、シャーバは痛くも痒くもなかった。「ポープリッタさんは?」
「私は平気です。本当にすみませんでした」
ポープリッタはオーロラ色の羽をはためかせながら階段を下りていった。
シャーバは部屋へ戻ると、椅子に腰かけ、机に置いていたファイルを開いた。
『オズワルド・スキン強盗殺人事件』
それが、現在シャーバが調査を進めている事件だった。
先月、ここから遠く離れた大都市で、資産家のオズワルド・スキンが手斧で頭部をかち割られ、殺害された。犯人は書斎にあった金庫から金を盗み、逃走した。
屋敷の侵入経路、金庫の解錠方法などを犯人が熟知していたことから、シャーバは、オズワルド・スキンに長年仕えていた秘書の男による犯行なのではないかと推理した。だが、犯行時刻、秘書には完璧なアリバイがあった。
そこで秘書の周辺を調べ上げ、共犯者となり得る人物がいないかを徹底的に調査した。その結果浮かび上がったのが、『レイチェル・バレット』なる女だった。
レイチェルは秘書と親密な関係にあったが、事件が起こる一年程前、突然、町から姿を消し、秘書との交際を絶った。おそらく、秘書との共犯関係を悟られないようにするための計画の一環と思われた。
僅かな情報を頼りに、シャーバとユスチルは昨日、レイチェルが潜伏していると思われる町——すなわち森の向こう側にある町——を訪れた。そして、花屋の二階のレンガ造りのアパートの一室に、確かにレイチェルはいた。
シャーバはファイルに挿んであった写真を手に取った。
そこには、アパートの窓辺に立つレイチェルの姿が写っていた。レイチェルはワインレッドの髪に、ワインレッドの口紅をした、魅力的な女だった。
昨夜、ユスチルに張り込みを頼んだのは、レイチェルと秘書との密会の現場をおさえるため、もしくは、レイチェルが大金をどこかへ運ぶ現場をおさえるためだった。どちらにせよ、ほとぼりがさめた頃、秘書はレイチェルのもとへ会いに来るにちがいない。
シャーバは椅子の背に体を預け、天井を仰いだ。
シャーバには一つ、気がかりなことがあった。
犯行時刻の直後、屋敷の勝手口から出てくる怪しい人影を見たという目撃情報があった。
目撃者は現在、王都で暮らしていて、明日の朝9時30分、レイチェルの顔写真の確認と、その時の状況を詳しく聞かせてもらうということになっていた。
だが、ここに来て持ち上がったのが、『時間帯迷宮』の存在だった。
明日の朝、9時になるのを待たなければ、シャーバたちはここを出発することができない。王都にある待ち合わせの場所まで、30分で辿り着けるのか、シャーバはいささか不安だった。
…………『王都』、か……。
シャーバはふと、昨日の夕食でリーティーが言っていたことを思い出した。
〝王都には、事務所を持たず、連絡先も明かさず、人づてでしか依頼を受けない、謎のベールに包まれた名探偵がいるとか……〟
本当に、王都に父さんが?
シャーバは、椅子の背にもたれたまま、宙に浮いてしまうような興奮を覚えた。
それから、静かに目を閉じ、湧き上がるものを落ち着かせた。
今はまだ、目の前にある事件の解決に、集中しなければならなかった。
午後1時。
シャーバが食堂へ向かおうと階段を下りていると、一階と二階の間の踊り場の床が、キラキラと発光していることに気がづいた。
シャーバは自身の胸元を見下ろした。床と同じように、シャツの布地がキラキラと光っている。
手で払うと、キラキラとした粉が舞い落ちたが、完全に取り去ることはできず、シャーバのシャツには微かに光る粉が残った。
食堂では、客たちが集まって軽食を食べていた。そこには、ユスチルの姿もあった。
「兄さん」
ユスチルは一冊のファイルを差し出した。「昨日の分だよ」
「ああ、ありがとう」
シャーバはファイルをちらりとめくった。そこには、レイチェルの写真が数枚添付されていた。
「それが捜査資料ってやつか?」
タンガスが言った。
「ええ」
ユスチルは言った。「見ちゃだめですよ。これは極秘のやつなんですから」
「なんだよケチくせーなー。見せろよー」
「だめですー」
ユスチルとタンガスは言い合っていた。
それを横目に、リーティーが難しい表情でお茶を飲んでいるのを、シャーバは見た。
ユスチルは立ち上がり、椅子の背に掛けてあったコートを羽織った。
「今日も張り込みですか?」
ポープリッタが言った。
「ええ。夕食までには戻りますので」
「いってらっしゃいませ」
ナイロットは言った。
ユスチルは軽やかにドアを開け、ホテルを出ていった。
軽い食事を済ませたあと、シャーバは食堂に残り、ユスチルから受け取った調査報告書に目を通していた。
ナイロットは午後も忙しく働いていた。アキティーヌと一緒に、ホテルの玄関ドアを丁寧に拭きあげている。
食堂の少し離れたテーブルでは、タンガスが頭を抱えながら本を読んでいた。
「何を読んでるんですか?」
シャーバはたずねた。
「ああ、おめー……」
タンガスは疲れ切った顔を上げると、読んでいた本の表紙を見せた。《初心者にもやさしい 回復魔法入門編》と書かれている。
「おめー、魔法はやんのか?」
「いいえ、まったく……。弟は、使えますけど……」
「俺は回復魔法の勉強を始めて一年が経つんだが、いまだに初歩の初歩すらさっぱりだ。小さな切り傷一つ治せない。俺の仕事は、事故や怪我と隣り合わせだろ? 習得できれば、何かの役に立つと思ったんだがな」
タンガスは深いため息を吐いた。それから、再び魔導書とにらめっこを始めた。
午後4時。
シャーバが自室へ戻ろうと食堂を出ると、ちょうど、ナイロットとアキティーヌが買い出しへ出かけるところだった。
「いってらっしゃい」
シャーバは言った。
「はい! いってきます!」
ナイロットとアキティーヌは元気よくホテルを飛びだしていった。
シャーバはフロントのカウンターに目を留めた。小さな花瓶に、キラキラと輝く金色の花が挿してある。
「あれ? 昨日はありませんでしたよね? この花」
シャーバはフロントにいたミミアにたずねた。
「そうね」
書類をめくりながら、ミミアはそっけなく言った。
「きれいですね。この辺で咲いてる花なんですか?」
「知らないわ」
シャーバには目もくれず、ミミアは言った。
「おい、なんだありゃ」
窓の外を見て、突然、タンガスが声を上げた。
シャーバとミミアも窓の向こうに目をやった。先程出かけたはずのナイロットとアキティーヌが、森の方から引き返してくるのが見える。
シャーバは玄関にかけ寄ると、勢いよくドアを開け、目を凝らした。
ナイロットとアキティーヌは人間を引きずっているようだった。
片方の脚をナイロットが、もう片方の脚をアキティーヌがくわえ、後ろ向きになりながらホテルの方へと近づいてくる。
リーティーとポープリッタが、上階からかけ下りてきた。
「今、二階の窓からナイロットさんとアキティーヌさんの姿が見えて——」
リーティーは言った。
「なんだか、ただごとではないようすです」
ポープリッタは言った。
一同はホテルを飛びだし、ナイロットたちのもとへかけ寄った。
ナイロットとアキティーヌが引きずっていたのは、10代半ばと思われる少年だった。紺色のブレザーに青いスラックス、白いシャツにブルーのネクタイを締め、白いスニーカーを履いている。
「一体どうしたんだ?」
タンガスが聞いた。
「アキティーヌと買い出しに行こうとしたら、森の入り口のそばで、倒れてたんです」
ナイロットは言った。
ミミアは少年に顔を近づけ、耳をすませた。
「息はあるみたいね」
「怪我をしてるようすもないな」
タンガスは言った。
「でも、少し衰弱しているように見えます」
ポープリッタは言った。
ミミアは少年が着ているジャケットやスラックスのポケットをさぐった。
「ダメだわ。身分が分かるものはないみたい」
「町からやって来る途中で、歩き疲れたんでしょうか?」
リーティーは言った。
「まさか。あの森は曲がりくねってはいるが、一本道だぜ」
タンガスは言った。「迷うわけがないし、ましてや歩き疲れて気絶するほどの距離でもない」
「時間帯迷宮」
ぽそりと、ミミアは言った。
「え?」
ナイロットは言った。
「『また看板が壊れるのは時間の問題』だって。昨日、あなたの弟さんが言っていたわよね」
ミミアは、シャーバに向かってたずねた。
「え、ええ……」
「もしもすでに看板が壊れて吹っ飛んでいたとしたら? そしてこの子が、今朝7時から9時の間に、迷宮と知らずにこの森に足を踏み入れてしまったとしたら……」
「そ……そしたら……どうなっちゃうんですか……?」
おそるおそる、ナイロットは聞いた。
「分からないわ」
ミミアはきっぱりと言った。「途方もない迷宮を、今の今まで彷徨いつづけていたか、もしくは、迷宮の最奥で何かに襲われた可能性だってある」
「そんな……」
ナイロットはぞっとした。
ミミアは立ち上がった。
「とにかく、うちで休ませましょう」
その日の夕食は、倒れていた少年の話で持ちきりだった。
「森の入り口の前に?」
事の次第を聞いたユスチルは不思議そうに言った。「うーん。俺が午後に町へ行こうとしたときには、森の前に人なんて倒れてなかったけどなぁ」
そう言って、ユスチルは幸せそうにカツオのたたきを口にした。
「森の中で、誰かとすれ違ったりは?」
シャーバは聞いた。
「いいや。あの森は一本道だけど、誰ともすれ違わなかったよ」
「ということは、あの少年が森を抜けてきたのは、ユスチルさんが町へ出かけた午後1時よりも、後ってことですね」
ポープリッタは言った。
「あれは旅行者よ」
キッチンのカウンターのそばで、トレイに料理を載せながら、ミミアが言った。
「どうして分かるんですか?」
キッチンの中から、ナイロットがたずねた。
「そりゃあね。こういう仕事をしていたら、いろんな人を見るし、目利きもできるようになるでしょ」
「そうなんですか?」
ナイロットは言った。
「あの人、まだ眠ったままですか?」
リーティーは聞いた。
「ええ」
ミミアは言った。「202号室で寝かせてるわ」
「あの……。みなさん、『ハンダーソン事件』ってご存知ですか?」
小さな体をさらに小さく縮こまらせながら、ポープリッタが言った。
「二年前、王都であった事件です。ハンダーソン家の主人が、帰宅途中に道端で倒れている若者を発見。介抱して自宅に連れ帰り、ベッドで休ませていたんですが、夜中にその若者が起きだして、一家全員を惨殺してしまったんです」
「僕それ、知ってます」
ユスチルが言った。「確かあの時は、テレビや新聞が、連日その話題で持ちきりでした」
「俺ぁ事件のあと、その事件があった屋敷の前を通ったことがあるぜ」
タンガスが言った。「あそこは俗に言う〝高級住宅街〟でな。立派な屋敷や花木が並ぶ豪奢な通りだったんだが、それが一転、暗黒街にでもなったような陰惨な雰囲気になっちまってた」
「リーティーさん、知ってます?」
シャーバが聞いた。
「い、いえ……」
リーティーは言った。
「確かまだ……」
不安げな表情で、ポープリッタは言った。
「犯人は、捕まってないはず……」
一同は黙りこくった。
それを尻目に、ミミアはトレイにラーメンを載せ、202号室へと向かった。
午後10時。
シャーバが自室へ戻ろうと階段を上っていると、一階と二階の間の踊り場で、コートを羽織ったユスチルが壁に手をつき、うなだれていた。
「どうした?」
シャーバは言った。
ユスチルは答えなかった。
「大丈夫か?」
もう一度、シャーバはたずねた。
その瞬間、ユスチルは顔を上げた。
シャーバはぎょっとした。
ユスチルは顔を泥のような緑に染め、額に油汗をにじませていた。
「大丈夫……」
ユスチルは低い声でそう漏らすと、姿勢をしゃんとし、ふーっと息をついてから、かぶりを振った。
「行ってくるよ」
ユスチルはいつも通りの、屈託のない笑顔で言った。それから、ゆっくりと階段を下りていった。
階下から、ナイロットの明るい声がした。
「ユスチルさん、今夜も張り込みですか? ええ、もちろん。朝には鍵を開けておきます。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
朝方。
廊下の軋む音がして、シャーバは目を覚ました。
隣室のドアの閉まる音がした。シャーバはサイドテーブルの時計を見た。4時30分だった。
ユスチルが張り込みから戻ったのだろう。シャーバはそう思い寝返りを打つと、再び眠りに就いた。
朝8時。
食堂に客たちが集まった。ユスチルの姿はない。
「あの、少年のようすは?」
ポープリッタが聞いた。
「意識は戻ったけど」
グラスにキャロットジュースを注ぎながら、ミミアは言った。「すごく混乱してるみたい。どうしてあんな場所で倒れていたのか、自分でも分からないって」
「記憶喪失ってことですか?」
リーティーが言った。
「さあ。そこまでは分からないけど、でも、森の向こうの町のことも、この国のことも知らないらしいの。もしかすると、どこか他の国から連れ去られてきたのかもしれないわ。名前は『レイ』っていうの。しばらく安静にしているようにって、言っておいたわ」
そう言って、ミミアはキッチンへ戻った。
シャーバは食堂の柱時計を見つめていた。
「どうかしました?」
ナイロットがたずねた。
「え、ああ……ユスチルがまだ、起きてこないもので……」
「無理もないです。連日、明け方まで張り込みをされてるんですから」
穏やかにナイロットは言った。「食事の時間は、お気になさらないでください」
「そうしたいのは山々ですが、今朝はのんびりもしていられないんです。あの森が時間帯迷宮だと知らなかったので……今日の9時半に、王都で人と会う約束をしてしまっていて……。迷宮が解ける9時になったら、すぐにここを出発しなくちゃならないんです」
シャーバはため息混じりに立ち上がった。
「あ、僕が起こしてきますよ」
ナイロットは言った。「ついでに、部屋まで朝食も持っていきますので。シャーバさんは、こちらでゆっくりお食事をしていてください」
ナイロットは朝食をトレイに載せると、楽しそうに階段の方へ向かっていった。
「リーティーさん、それ……」
ふと、ポープリッタがリーティーの左手を見て言った。甲の部分に、白い包帯が巻かれている。
「ああ、新聞記事のスクラップをしていたら、ちょっとドジッてしまって、あはは……」
「大丈夫なんですか?」
「はい! 全然大したことな——」
「いやああああああああああああああああ!!!!」
ガシャン!という音とともに、ナイロットの悲鳴が響いた。
一同はすぐに三階へ走った。
303号室の前で、ナイロットが腰を抜かして倒れている。傍らには、割れた食器と、ひっくり返ったトレイがあった。
シャーバの脳裏に、自動的に、ユスチルの屈託のない笑顔がフラッシュバックした。
嘘だ。
シャーバは深い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと廊下を進んだ。
嘘だ。嘘だ。
現実を拒絶しながら、しっかりと前に進んだ。
開け放たれたドアの前にたどり着く。
シャーバは静かに、部屋の中を覗き込んだ。
ユスチル・スタヤバーンは、部屋の中央で、胸を真っ赤に染めて息絶えていた。
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