第17話
終わらない旅
こちらへ来て、もうすぐ一年を迎えようとしております。可愛い子どもたちと触れ合っていると、やはり自分の子供が欲しくなります。しかし全然、その気配はございませんでした。ハナちゃんから手紙が届き、第三子を妊娠したという喜ばしいお手紙を頂きました。一郎様、進様が揃ってお兄様になるのですから、それはそれは喜ばしいことでございます。ただ私はため息をふと漏らすことも多くなりました。自分の身体が子供を産めないのかもしれない、と思うと恐ろしい気持ちになります。
「ユキさん…」と正様から声をかけられました。
今日は日曜日で、朝のご飯を終えたところです。
「あ、すみません。私…」
「何かお悩みごとですか?」
「…あの…いえ…あの」
どうしたものか…と私はしどろもどろになりながら、お茶碗を片付けます。今日は日曜なので、美子ちゃんもおりません。
「お片付けします」と言って誤魔化そうとしましたが、正さまに腕をそっと掴まれました。
「どこか具合が悪いのですか?」
「いえ…。あ…そうかもしれません」と言って、半分立ちあがった腰をそのまま落としました。
「…子供ができないからです」
正様はそっと掴んだ腕を背中に回して、私を抱きしめてくださいました。
「こうのとりが来てくださいません」と言って、私は泣いてしまいました。
子供が欲しいと思っても、なかなかできないことがこんなに辛いと思ってもみませんでした。背中を優しく往復する手を私は感じながら、正様に申し訳なく感じてしまいます。
「こうのとりは…僕たち二人かもしれないね」と正様が不思議なことをおっしゃいます。
「私たちが?」
「君は学校で子供たちを立派に育てて、僕はお医者として病気から治るように世話をしている。だから…自分の子供ではないけれど、たくさんの子供を育てる役目なのかもしれないね」
私は正様の顔を見上げました。
「僕は君が一緒にいてくれて…本当に幸せだ。それ以上は何も望んでいない」
そう言って、いつも縁側でくっついてたように私の横に来て座って、肩を抱いてくれました。
「でも…申し訳なくて…」
「何を言ってるんだ。僕こそ、友達や、家族から遠く離してしまって…申し訳なく感じてる」
「それは…私が望んでしたことです」
「僕だって同じだから。君がここにいてくれるだけで…満足なんだ」
私は正様にほんの少しもたれました。正様も少しもたれてきます。私が笑うと、肩に回っていた手でぎゅっと体を寄せます。それがおかしくて、私は思わず笑い出してしまいます。正様も笑って、二人きりですが、本当に幸せな時間を過ごしました。
二人でいる時はいつもくっついて、正様が本を読んでいる時も背中合わせにくっついたりしたものです。
「ユキさんは本当にあったかいですね」
だいぶ鬱陶しいかと思っていましたが、少しも嫌な顔をされることはありませんでした。
「お邪魔じゃないですか?」
「いいえ、少しも。来ないと寂しく思います」
そう言われると、ますます張り切って、正様がおすわりになっている時は急いで駆けつけて、横に並びました。
「センセとユキサン仲良し」と美子ちゃんにも言われる始末です。
私は学校に行けない美子ちゃんに少しだけ日本語を教えました。美子ちゃんは私も日本人になりたいというのです。私はどうしたものか、と思いましたが、日本語を教えることは悪いことでない、と思って、少しだけ夜に家で教えました。
「ユキサン…アリガトございます」
美子ちゃんは賢いのか、どんどん覚えていきました。日本の人がやっているお店にお使い行ってくれるようになり、よく喋って、「おまけくれました」と言って喜んでます。そうして私の生活は落ち着き、幸せの毎日でございました。夏の暑さは格別でしたが、台風も来て、気温が落ち着いたあたりでしょうか、私に清様から手紙が届きました。
私は呑気にハナちゃんが出産を終えて、忙しいから清様が手紙を送ってくださったのか、と思いました。
封を開けると、私は何度読んでも理解できない言葉が書いてありました。そしてハナちゃんの白いリボンが入っておりました。
私は手紙を手から落とします。床に落ちたリボンは綺麗に弧を描いておりました。
どれくらい時間が経ったのでしょう。
「ユキサン」と美子ちゃんが声をかけます。
「…ごめんなさい。今日は…」と言って、私は手紙をもう一度開きました。
『三条ユキ様
ご無沙汰しております。このような連絡をしなければならないことに心苦しさを覚えます。八月二十八日、妻のハナが第三子を産んだ後、具合が悪くなり、帰らぬ人となりました。子供は無事です。ハナが大切にしていたリボンを送ります。私も辛いですが、どうか気を落とさぬようお過ごしください』
短い言葉と、リボンが添えられて、どのような思いでこの手紙を書いてくださったのかと思うと、胸が詰まります。
『ユキちゃん』
リボンを握るとハナちゃんの声が聞こえたような気がします。
ふと…『死んだら会えるかしら』とハナちゃんが言っていた言葉を思い出しました。かつてハナちゃんが好きだった人は結核で亡くなられていて、ハナちゃんが会いたいと言っていたことを思い出します。
「もう…お会いになったでしょうか」と私はリボンに呟きました。
色々な思い出が山のように蘇ってきます。女学生時代の帰り道、甘味処に寄り道して帰ったこと。歌いながら、歩いた校庭。ハナちゃんの辛い恋。そして大原様と結婚してからも、遊びに行かせてもらって、私の恋の悩みを聞いてもらったこと。旅行に行ったこと。正様がいなくなってから、泊まりに来てくれたこと。誰よりも思い出が詰まっておりました。
私はリボンを握りしめながら「ありがとう」と呟きました。
まさかもう二度と会えなくなるなんて思いもしなかったお馬鹿な自分が許せません。いつも優しく明るいハナちゃんにどれだけ救われたことか。最後にお別れをした時、一郎様を抱えていた様子を思い出して、私は号泣しました。
その晩は正様がずっと私を抱きしめたまま眠ってくださいました。私はただただハナちゃんに会いたくてたまりませんでしたが、ふと「死んだら会えるかしら」と言っていた言葉を思い出して、初めて…死ぬことがそんなに怖いことではないかもしれない、と思いました。正様の温もりに包まれて、私はあの時のハナちゃんの気持ちが少しわかったような気になりました。
そして私は親友の死を遠い場所で知り、ずっとこの地でやっていこうと思っておりましたが、それから九年後、戦争が始まりました。しばらくは良かったのですが、だんだん戦況は怪しくなっていきました。私は毎日、子供たちに勉強を教えておりましたが、ついに正様が軍医として南方の戦争に行かれることとなりました。
「どうか…ご無事で」と言って、私は正様から頂いたダイヤのネックレスをお守り袋の中に入れてお渡ししました。
「ユキさんも」
私は正様に何かあれば、後を追うつもりでした。もちろんそれは言わずに正様を送り出します。
状況は悪くなる一方でした。正様からの手紙もなかなか届きません。
台湾も空襲があり、食糧調達も難しくなってきましたが、生徒が私のために持って来て下さることもありました。みんなが苦しい時でしたが、周りの方の親切が身に染みる時代でもありました。
戦争が終わった日は忘れられません。子供たちは日本人も、台湾人もみんなが泣きました。大人の中には喜ぶ人もいたようですが、子供たちは真剣に日本人として生きようとしていたので、悲しく辛い思いをしたのでしょう。そうさせてしまったことが苦しくもありました。
「先生、どうなるの?」と子供が聞いてきます。
「内地の人たちはここにはいられなくなるの」
「先生も?」
「そう…。ごめんなさいね」
そう言うと、素直に泣き出す子供たちが可愛くて、仕方ありません。やはり同じ学校で同じ時間を過ごしているので、誰も彼もが泣いてお別れを悲しんでおりました。私はこの地で、一体、何をしていたのだろう、と呆然とした想いになります。母国語を取り上げ、もう使えない日本語を教え、一体、何をしたというのでしょう、と自分を責めたくなりました。
「先生」と言って、台湾の子が校庭に咲いていた黄色い花を取って、私に渡してくれます。
「まぁ…。ありがとう」
私は最後の挨拶を皆様にすることにしました。きっともう明日からはここにくることはないのでしょう。
「みなさん…。今まで本当にありがとうございました。そしてどの方もとてもよく頑張ったことと思います。これからまた新しいお勉強が始まりますが、きっとみなさんならしっかりとやり遂げることができます。どうかお体に気をつけて、これからもますます頑張ってくださいませ。とても楽しく幸せな時間を過ごさせて頂きました。ありがとうございます」
すると子供たちが拍手をしてくれます。私にはそんな資格はないというのに。その日、私が職員室で片付けをしていると、一度帰った子供たちが後から後からやってきます。私達の子供頃のように豊かな物資があるわけでもないのに、小さな色紙、小さくなってしまった鉛筆を手に会いに来てくださいました。何も持てない子も手紙を書いてくださいました。
「みなさん、本当にありがとう」
「先生…」と子供たちの泣き顔を見ると、つられて泣いてしまいます。
家に帰っても、子供と親が挨拶に来てくださったりしました。日本が負けたからと言って、心配する人はいても、腹いせする人は一人もおりませんでした。帰国は順番に行われます。すぐに帰っても、東京も大空襲があったと聞いておりますので、無事に家に戻れるのか分かりません。正様とも連絡がつかないままです。私は急いで帰る理由はありませんでした。
美子ちゃんには「申し訳ないのですが」と、明るい色の着物と手持ちのお金を少しまとめてお渡ししました。
「ユキさん…」と心配そうにしてくれます。
「大丈夫よ。またいつかお会いできる日が来るといいですね」と言いました。
私は美子ちゃんともお別れします。日本人のところで働いていたということがどうなるかわかりませんし、仕事がなくなった私は家にいれるのですから家事も自分でできます。
帰国の順番を待っていると、日本から手紙が届きました。
差出人のところに三条正と書かれております。私は思わず驚いて、手紙を読みました。
「ユキさん お元気ですか。僕は一足先に日本に帰国できました。元の家も残っております。ユキさんが帰国の目処がついたらご連絡ください」
無事だったんだ…と思うと、私は一人で腰が砕けてその場にしゃがみ込みました。全く連絡が無かったので、私は半ば諦めなければいけないのか、と思っておりましたが、それもできずに一人でもやもやとしておりました。
正様が日本にいるとなると、帰国がいつでもいいという気持ちから、早く帰りたい、という思いに変わります。私は荷物をまとめて、そして箪笥などはお世話になった近所の方に引き取ってもらいました。
ただ、その間、私を心配して、教え子たちがご飯を持って来てくれたり、別れを惜しんでくれたりとありがたい気持ちにさせていただきました。私はここで何をしたのだろうか、とむなしい気持ちでしたが、これほどまでに親切にされて、少しは何かできたのかもしれない、と思うようになりました。
そして幸せな時代と少し不幸な、でも人の温かさを知れた台湾とお別れをしました。行きの船とは違い、妙に安心した気持ちで船に乗ります。
正様が迎えに来てくださるとわかっているからでしょうか。
それからの私達は戦後という大変な時代ではありましたが、やはり仲のいい鳥のように寄り添って暮らしました。子供はやはりできませんでした。
正様はお医者様として生涯を終えました。私もその五年後に病院で亡くなりました。最後になんと一郎様にお会いすることができました。随分長い間、海外で暮らされていたようですが、丁度定年を迎えられていたようで、私のお見舞いに来てくださいました。
「ユキちゃん」
「まぁ…もう…そんな風に呼ばれる…年では…」と私は言って、笑いました。
「そうですか…。僕はユキちゃんが初恋でした」
などと冗談を言ってくださいます。本当に素敵な冗談でございます。
「でもあの時、三条の正おじさんが僕を肩車するって、引き離して…」
「よく覚えておられますね」
「はい。別に肩車をして欲しかったわけではないのです。わがままだと思われるのが癪でしたから…。覚えてますね」
一郎様は小さい頃から賢かったので、もしかしたら本当に覚えていらっしゃるのかもしれません。
「プレゼントも覚えてますよ…。僕のだけ…手の込んだ手袋でしたね」
「えぇ。そうです。お母様にはマフラー…。進様には帽子。一郎様は小さなお手手に合うように手袋を作りました」
そうして昔話をしていて、私は急に眠たくなりました。
「もう寝ますね。今日はありがとうございました」と言います。
そして私は一郎様に頭を下げて、微笑みました。一郎様は何か言いたそうでしたが、そのまま立ち上がります。
「ユキちゃん…。また来ます」
「いえ…。えぇ…。本当にありがとうございます」
私は一郎様を見送ると、すぐ横に正様がいるのが見えました。ずっとそこで黙って立って、待っておられました。
『ユキさん…』
「お久しぶりでございます」
『一郎くんをもう肩車できないから、ここで待たせてもらいました』
「そうです。本当に立派になられて…」と私が言うと、少し早い足取りでベッドの側に来られました。
『あの…初恋だとか、なんとか聞こえましたけど…』
「素敵な冗談ですね。私を元気づけようとされて」
正様は軽くため息を吐かれます。
『ユキさんは…全く男心を分かっていない』
「こんなおばあちゃんなのに? ですか?」と私はびっくりしてしまいます。
『おばあちゃんじゃないですよ』と窓ガラスを指さします。
日が暮れてきた病室の窓ガラスに映る姿は若い頃の二人が写っています。私は正様の方へ振り返りました。正様も若い頃のお姿です。
「旦那様…」と私は納得して正様の手を取りました。
すると今まで苦しかった呼吸も体の痛みも全てが抜けました。やはり正様は腕のいいお医者様ですね、と私が言うと、何だか照れくさそうな顔を見せてくれます。
「ハナちゃんに会えますか?」と聞いてみましたら、「…そのうちに。しばらくは僕と一緒にいてください」と言われました。
私はベッドから立ち上がり、正様の体に寄り添うと、昔みたいに、一つになった気持ちになります。長い時間、一緒にいたような、一瞬だったような気がします。いろんな思い出が一瞬で巡ってきます。小さい頃、女学生時代、結婚、台湾、戦後…本当にいろんなことがありました。失敗もありましたし、良いこともたくさんありました。でもその中でも正様を選んで、ずっと一緒に入れたことが一番の自分の誇りです。
私は正様を見ました。いつものように優しい笑顔が返って来ます。そして二人で見上げていた星空が今は近くに感じます。
あなたを愛したこと、そして愛されたこと…一つ一つが私の胸に星のように輝きます。
しばらくは二人で思い出の時間旅行に旅立ちます。
そしてその先にはハナちゃんにもきっと会えるでしょう。お会いしたら、一郎様に会ったこともお伝えしようと思います。そうと決まったら、出発です。
『じゃあ、よろしいですか?』と優しい笑顔で聞かれます。
『はい。…ずっと一緒です』
そう思って、あの頃、星を見上げていました。
星に願いを。
心に愛と思い出を抱いて。
終わることのない旅をあなたと二人で出かけましょう。
〜終わり〜
花の香り かにりよ @caniliyo
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