第5章 7


 遺体を棄てて一週間が過ぎた。帰宅するなり、母が浮かない顔で悠希を呼び止めた。

「お父さんいないんだって」

「どういうこと?」

 悠希は頬被りをして尋ねた。

「どこにもいないの。もう無断欠勤が一週間続いてて」

 職場の事務員から連絡があったそうだ。父が来なくては診療が出来ないはずだった。

「明日になっても連絡つかなかったら、捜索願出してみる」

 頭痛薬の服用回数はようやく落ち着いてきていたが、相変わらず母の顔色は悪かった。

「……うん」

 悠希は俯きがちに短い返事をして二階へ上がった。

 動悸がひどい。きっと顔にも出ている気がした。四六時中、気もそぞろで苦しかった。

 寄る辺のない心は、必死で逃げ場を求めた。

 

 凌空は悠希の上に腹ばいになって、その茹でだこみたいな頬を突っついた。

「えへっ、可愛い」

 悠希は口を尖らせた。瞼がとろんと重かった。

「半分にしときって言うたのに。ほんまお酒弱いなあ」

 呆れて笑いながら、突き出た唇をなぞる。そんな凌空を上目遣いに見つめたまま、両腕を掴んで引き寄せた。不安に揺らぐ瞳を見透かしたように、いつも通りの優しい抱擁が返ってくる。

「あんな」

「うん?」

 とろけるように甘い声。

「行方不明届出したって」

 そっか、と凌空は言った。宥めるように頭を撫でた。

「大丈夫やって。そんなすぐ見つかるような場所じゃないねんから」

「うん」

 頷きながらも、心の不安は澱のように溜まり続ける。

 凌空は悠希の火照った顔に頬擦りをして、そのままゆっくりと、首筋に口づけた。

 悠希は目を閉じた。耳にかかる吐息に意識を集中させた。

 気を紛らわしていられるのなら、どんな狂った手段でもよかった。それはきっと凌空も同じだった。

「ね、もう一口ちょうだい」

「あかん。それ以上飲んだらまた頭痛くなる」

「いいもん。どうせ痛いもん」

 ずっと眠れていなかった。とばかり眠りに落ちたとて、すぐに悪夢にうなされた。

 凌空は困ったようにため息をついて、悠希の頬を撫でた。

「ごめんな、俺が悪の道に引き摺り込んじゃったな」

「ちゃうよぉ」

 凌空の方言が感染った口調で、その手のひらに唇を擦り付けた。

 二人は今、異母兄弟以上の関係だった。同じ罪を分け合ったという、重く深い、生涯切れることのない関係だ。

 凌空の腕の中で、悠希の声は微酔にふやけていた。

「けっきょくさ、油絵の課題、まだはじめてなくてさ。あした提出なんだけどさ」

「ほならお酒飲んでる場合とちがったな」

 凌空が仕方なしに笑う。悠希は微笑を浮かべたまま、仔猫みたいにその指を弄んだ。

「あの林、お地蔵さんなんか、いっこもなかったね」

「うーん……場所がズレてただけかもしらへんで」

 悠希は首を捻った。小学生の話なんて所詮、適当なでっちあげに過ぎないのだろう。

「写真は撮ったん?」

「ううん。それも、まだ」

 熱くなった悠希の耳たぶを緩くつまみながら、凌空は思案顔で言った。

「あの辺の絵描きたいなら、ついてってあげるよ」

 悠希は激しく首を振った。

「いや。近づきたくない」

 遺体を棄てて以来、バイパス近くには一度だって足を向けていなかった。出来ればこのまま、二度と目にも映さず、忘れ去ってしまいたい。

「やんな、俺も」

 凌空はほっとしたように悠希を抱きしめた。

 凌空だって、平気なふりして本当は不安なんだ。悠希は抱き枕の代わりになって、凌空の心の間隙を埋めようとした。

 今ごろ、遺体や車はどうなっているんだろう。

 目を閉じれば、あの日の残影が悪夢に成り代わって、頭の中に忍び寄ってくる。諄いくらいにじわじわと触覚を伸ばしてくる。拒もうとしても思考はどうしても侵されて、考えずにはいられなかった。

 僕たちはこのまま幸せになれるだろうか。祈りは届くだろうか。このまま、誰にも知られずに、逃げ切れるんだろうか。

 葬送曲にも似た調べが頭に響くようだった。

「二学期の評定、かなり落ちるんだろなぁ」

「手伝ったげようか?」

「凌空が描いたらすぐばれちゃう」

「それどういう意味?」

 脇腹をくすぐられて、悠希は身を捩りながら声を立てて笑った。不意に心臓が締め付けられて、熱を帯びた目から数滴が零れ落ちた。

 こんな場所が欲しいだけだった。

 嗚咽を堪えるように凌空にしがみついた。胸に熱い雫が染み込んだ。

 不安定な悠希を、凌空は黙って受け止めた。

 背中に回された腕の震えが、必死で不安を訴えている。荒だった心の波を鎮めるように、怯えるその身を抱きしめ続けた。

 頭を撫でて背中を摩って、胸に埋めた顔を覗き込んだ。真っ赤な頬に伝う雫を、そっと唇で拭ってやった。

 柔らかな口づけを繰り返すうち、やがて再び、悠希はくすくすと笑みを漏らし始めた。

 睫毛が涙で光っている。濡れた瞳を見つめて鼻筋を辿り、額を重ねた。閉じた悠希の瞼から、再び幾筋かの雫が耳元へ流れ落ちた。

 心の内に溜まった不安を払い切れるまで、互いの体温を分け合おうとした。

 唇も重ねられない臆病な二人が成し得た、いとけなく、拙い方法だった。

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