第1章

第1章 1


 洗面所から母が呼んでいる。壁にかかった時計の針は七時半の少し前を指している。もう出発しないといけないのに、呼ばれた絵名は、和室の隅で一人遊びに熱中していた。

 ダイニングテーブルで一人トーストを齧っていた悠希は、仕方なく妹に呼びかけた。

「絵名。呼ばれてる」

「うん」

 百点の生返事である。紺色のブレザーを着た背中は振り向きもせずに、すっかり自分の世界に浸っていた。保育園で習ったらしい童謡をご機嫌に口ずさみながら、人差し指から順に、プラスチックの指輪を嵌めては抜いて、嵌めては抜いてを繰り返している。

 頭にフェルトの帽子を被っていながら、制服のスカートからは裸足が覗いていた。また叱られるな、と肩を竦めた兄の予想通りだった。

「絵名、靴下履けた? 検温カード入れてよ」

 部屋に戻ってくるやいなや、母の目は釣り上がった。

「絵名っ」

 絵名の肩はびくんと跳ねた。そのまま顔をくしゃくしゃにして、数秒と経たずに泣き出した。

「泣いてもだめ。ママさっきから何回も言ってるでしょ。悠希悪いけど、お弁当自分で包んで」

「うん」

「ほらもう出るよ。泣かない。泣き止んで。十秒以内に泣き止みなさい」

 母はぴりぴりしていた。一日で一番忙しい時間なのに、絵名は何度も同じことを言わせて苛立ちを煽る。

「そんなんじゃ来年小学校行けないよ」

「やだあ」

 母に手を引かれて、妹は半べそのまま家を出ていった。ゴールデンウィークが明けて数日経つのに、まだ休み気分が抜けないみたいだ。

 静かになった部屋で、畳の上にはぽつりと指輪だけが取り残されていた。

 悠希はちらりと時計を見上げた。自分もそろそろ急がないといけない。朝食の隣に広げた英単語帳を閉じて立ち上がった。今日は一限目から小テストが待ち構えている。

 箸箱を取ろうと引き出しを開けると、手前のほうに見慣れないライターが入っていた。赤地に小ぶりの水玉柄。父のものではなさそうだ。手に取ってみると、側面のロックが外されたままだった。

 暫く眺めてみて、元の位置に仕舞った。きっと母さんのものだ、と結論づけた。数年間禁煙を続けていた母は、数ヶ月前から、再び煙草を吸うようになっていた。

 

 高校は各駅停車で七駅先のところにある。改札を出た時から、周囲ではやたらとサイレンが鳴り響いていた。

 正門に近づくにつれて、路肩に停まったワゴン車やバンが目立った。些かの違和感を抱きながら通りを進む。その足取りも、最後の交差点を渡ったところで止まった。

 正門周囲に、異様なほどの人だかりができていた。テレビの取材だろうか、群衆の頭上には、ロケ番組で見かけるような竿状のマイクが掲げられていた。箱のように大きなカメラを構えた人と、その下に屈んでスケッチブックを捲る人、後方でケーブルを巻いている人もいる。

 白いフラッシュライトがあちこちで明滅した。人混みの中には、馴染みの先生たちの姿もちらほら見られた。

 歩道に散らばった大人たちが、登校する生徒を捕まえては何か尋ねていた。手元に用意されたメモ帳とラフな出立が報道記者のイメージ通りだ。気づいた教職員が走っていって止めに入る。生徒たちは戸惑いながら、職員の誘導のもと、正門脇の小門をくぐっていった。

 様子を伺っていた悠希と、数メートル先の男性の目が合った。チェックのシャツを羽織った彼は、手帳を片手にいそいそと近づいてきた。

 悠希は咄嗟に踵を返した。タイミングよく切り替わった信号を渡った。

 軽自動車がやっと通れるほどの細い裏道を抜ける。この道を挟んで校舎の西側に、テニスコートが敷設されていた。フェンス沿いを進み、体育館の脇の裏門から中へ入った。

 裏門は本来、登校時には使ってはいけない決まりになっていた。いつもは生徒指導部長の矢田先生が見張りに立ち、遅刻を誤魔化そうとする生徒たちの補導にあたっている。

 鬼軍曹の異名を持つベテラン教師の姿は、運良く今日は見当たらなかった。それどころか珍しいことにどこの部活も朝練を休んでいるようで、グラウンドにも体育館にも人気がなく、あたりは奇妙なほどに静まり返っていた。

 昇降口まで辿り着くと、さっきまでの静寂とは打って変わって、建物の外まで喧騒が漏れてきた。ロッカー間の通路は登校してきた生徒でごった返していて、すし詰めの状態である。

 誰もが興奮気味に、今しがた受けたインタビューや、正門で目にした光景について報告し合っていた。

 教室も同じだった。みんな思い思いの場所にグループで固まって、噂話に花を咲かせている。

「三年の白川っていう人」「あー、聞いたことある」

「ラグビー部のマネージャーやってたけど辞めたらしい」

 会話の間を縫って窓際の席についた悠希に、ポニーテールの女子が歩み寄ってきた。学級委員長の戸田朱里あかりである。

「おはよう。ニュース見た?」

「見てない」

 悠希は周囲を見渡して尋ねた。

「なんかあったの」

「コインロッカーに赤ちゃん棄てられてた事件あったでしょ? あれの犯人が出頭したんだって。その人が、うちの普通科の三年生だったの」

 目を見開いた悠希に、朱里はニュース動画を見せてきた。

『駅構内のコインロッカーから新生児が発見された事件で、先日夜、同市内の私立高校に通う女子生徒が、両親に連れられて出頭しました。女子生徒は自分の子を遺棄したと認めており、犯行動機について、「親にばれるのが怖かったから」と供述しています』

 連休中に起きた事件だ。ターミナル駅のコインロッカーから新生児が見つかり、保護された。報道があった時は、まだ犯人が見つかっていなかった。

 発見現場の駅が映し出される前で、アナウンサーは続けた。

『また、はじめは子供と共に心中をするつもりだったが、途中で怖くなり、子供だけをロッカーに預けた、と語っているということです』

「白川さんって人らしい。名前しか知らないけど」

 悠希も名前だけは耳にしたことがあった。三年の不良グループの一人で、あの矢田先生も手を焼いていたそうだ。

「それであんなに人が来てたの」

「そういうこと。永井も何か聞かれたでしょ?」

 首を振った。「テニスコートのほうから入ったし、イヤホン外さんかったから」

 朱里の瞳がきらりと光った。

「あー、校則破ってる。あっちから登校しちゃいかんのに。矢田っちに怒られちゃうよ」

「今日は立ってなかったもん」

「正門側で見かけたよ。コンビニの近くで記者の人たち追い払ってた。ついてたね」

 始業のチャイムが鳴っても、担任が遅れているのをいい事に、みんなは冷めやらぬ興奮の中で立ち話を続けていた。

 近くの女子グループが「白川先輩」についての情報を語り合う。半年ほど前から不登校が続いていたそうだ。

「パパ活してるって噂もあったじゃんね」

「同級生にも強請ってたんだって」

 周囲の女子から驚きの声が上がった。

「ラグビー部の人、五千円あげるから遊んでって言われたらしいよ」

「なにそれ? 男好き?」「ヤリモクってやつでしょ」

「え、依存症?」「性病とかやばそうじゃんね」

 そこへ担任の清水先生が入ってきた。みんなは蜘蛛の子を散らすようにばたばたと席についた。

 教材を置くと、先生は少し疲れた表情で全員を見回した。

「学校に来る時、校門周りに報道の関係者がたくさんいたと思うけど、みなさん決して、何を聞かれても答えないように。いいですね」


 

 

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