たとえば ぼくが死んだら

小林 綸

プロローグ

 

「はるくん、笑って」

 スマートフォンを構えた浴衣姿の母が、画面越しに呼びかけた。

 嬉しさと恥ずかしさが入り混じった心で、悠希はるきははにかんだ。湯上がりに上気していた頬には、まだほのかに赤みが残っていた。

 会席料理を食べ終えた後の食卓は綺麗に片付けられて、目の前には白いホールケーキが据えられていた。下膳を終えた年配の仲居さんが、零れ落ちそうな笑顔とともに運んできたものだ。「おめでとねぇ、はるきくん」高くて上品な声は少しだけ訛っていた。

 真ん中に二つ、小さな炎が並んでいる。ぐるりといちごが取り囲む。規則的に並んだ生クリームの丸い群れは、地図帳に載っていたタージ・マハルという建物を思い出させた。

 よだれで顔を光らせた絵名が、テーブルの向こうからぷくぷくの手を伸ばした。身を乗り出そうとして、ベビーチェアに丸々としたお尻がつっかえる。機嫌を損ねて高い声で泣いた。

 隣に座っていた父が、そんな妹を抱き上げて言った。

「そろそろ眠いみたいだよ。早く済ませてやろう」

 母が急いで立ち上がり、電気を消した。部屋は一瞬真っ暗になり、すぐに橙色の豆電球が灯った。

 母が戻ると同時に、両親は口を揃えて歌い始めた。

「ハッピーバースデートゥーユー……」

 メロディーに合わせて、父は膝の上に座らせた絵名の両手をぱちぱちと打たせた。

 母の視線に促されて、悠希は大きく息を吸った。

 

 真っ白なケーキの上で揺れる、二本のろうそくを吹き消した。

「お誕生日、おめでとう」


 十二歳の冬、一週間前に突然告げられた温泉旅行。

 家族揃って出掛けたのは、あの旅行が最後だった。絵名は歩き始めたばかりだった。父は不気味なほど優しかった。『1』と『2』の形をしたろうそくは、黄色と緑だった。

 他よりも鮮明に残っている記憶の中で、母の表情だけはいつも、靄がかかっているように上手く思い出せない。

 

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