第一章 花見塚
第十三話 桜謳歌 一
桜は舞い散る姿が美しいらしい。そんなことを思いながら鮮やかなソメイヨシノに目を細める。
三月一日、例年にしては温暖で、ころの良い桜にその人は笑んでいた。声が弾んでいたので、葵はこそばゆくなる。
「葵には、この景色どう見える?」
「薄い唇のような桜色と群青、それに木がぼんやりとね。でもこんなに日になによ、桜なんて私に見せたがって」
隣を見やり、はっきりと像を結ばないその人をいぶかしむ。華奢な手で散る花弁に手を伸ばすその人はそれを差し出してきた。
「花弁だよね、それがどうしたの」
「なに、確かめたいことがあるのよ。ちょっとくらい事情がわからなくても付き合ってよ、葵」
真摯に頼まれた身としてはきまりが悪く、逃げるように首元の襟を引いて楽にする。学ランはどうしても首が窮屈だ。
少し思案した葵は前かがみになってその人をのぞき込んだ。
「言いたくない?」
「別に、気分よ」
桜並木だというのにほかに人影はなく、青々した原っぱを遠目に二人は寄り添っていた。
苦笑するその人から身を引いた葵は肩をすくめた。
「あなたがそう言うときは絶対気分じゃない。でも、うん、いいよ。乗ってあげる」
「……ありがと」
「それで、わたしになにさせたいわけ?また古本探して北九州に行くとか言い出さないよね。あれで貯金消し飛んだんだから遠出は無理よ」
付き合わないと言わないだけ葵は信頼していた。その人は小さく頬を染めて目線を落とすが、葵が変に思うことはなかった。妙な間は、その人が考えをまとめたり趣に浸る時間だったり、心地よいものであることが多かったからだ。
暇になりベンチに手をついて胸をそらすと、春風が桜群れをどこかへ連れていく。
「……
割れた特注品を胸ポケットに入れた葵はつぶやく。聞いていたその人は小さく口を開き、逡巡ののちに彼女も仰ぐ。
「一緒に眼鏡を買いに行かない?それも丈夫なやつを、特注で」
「それは……」
ひどい話だ。顔をしかめて腰をあげる。
ただでさえない袖を振った。だのに特注など、冗談にしても質が悪い。その人が金を出すとしても葵は受け取るつもりはなかった。
「まって!」
「
悪趣味な人……。
底冷えする声でその人を糾弾し、ポケットから取り出したモノを投げつける。その人は慌ててそれを受け止めるが、縁が歪んでガラスの抜けたモノを見下ろして眉をひそめた。
「……なにか言われたの?」
「『気にするな』だって……」
表情を消した葵はズボンに手を入れ、背を向ける。彼らが葵の目に頓着していないのは知っている。だが、宝物と言っても過言ではないソレを“しつけ”の一言で……!
「ああ!」
震える拳をあげ、なにもできずに下ろす。
乱れた呼気を整えると、眉間にしわを寄せた葵は制服の裾を引っ張って居住いを正した。
「いずれにしろ、わたしはもう
きっと誰も知らない。初めて判然とした世界の美しさを。その人と一緒に貯金までして買ったものを、日常の、いち習慣的な行動によって踏み潰された屈辱を。
その人は閉口し、葵の肩に手をかけた。
「落ち着いて葵」
「無理だ」
難しい顔をする葵を振り向かせ、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめん、そうだよね、こんなにされて……でもさ葵、私は君を独占したい以上に、君に見せてあげたいんだ。人の欲に満ちた音の世界じゃなくて、もっと自然で見果てることのない壮大な景色を」
その人はよく言っている。花や虫、木々の色めきが好きだと。そのなかでも金木犀は特別なのよと。
確かに心奪われるものだった。けれど、葵は私利私欲にまみれた声しか意識できない。剥き出しの心というものが、葵を釘付けにして放さないのだ。華奢なその人の肩を押し、顔を上げる。
「あなたが見せてくれる現実は、わたしを狂わせる。嬉しいけど、わたしはやっぱりこのまま見えないほうがいい」
「葵……!」
「あなたの声を聞いてると救われる。それでいいでしょ」
言い訳じみた苦笑を落とした。
高望みするものではない。今にも泣きそうなその人の頭を撫でて、再びベンチに腰を下ろした。嗚咽を殺すその人は、やはり凛とした人だった。聞こえないふりをして目を閉じる。
「……葵、なんで君はそんなに無欲でいられるのよ」
「あなたが居るから、恥も外聞もなく、剥き出しでわたしに話してくれるあなただから満足してる」
それもきっと余人には理解できない感情だろう。
その人は口を引き結び、勢いよく座るも、スカートを押さえて女学生を発揮する。艶やかな束髪が葵の視界で舞うが、彼には光沢のあるなにかが通り過ぎただけだった。その人のなかでどんな折り合いをつけたのかはわからなかったが、彼女が割り切ったのは確かだった。
「葵はいっつもそう」
「口調でも統一すればいいの?ならするけどさ」
「ジェンダーレスな葵くんには求めるだけ無駄だって、痛いほど知らしめられていたはずなのにね。あーあ、期待して馬鹿みたい」
その人が足をばたつかせると、葵は気まずくなって視線を泳がせてしまう。その人は葵が好ましいと言ってくれるが、彼には共感できない類のものだとも告げる。なぞの罪悪感に駆られる葵は、それでも決定を覆す気はなかった。
その人はすっかり調子を取り戻し、先刻の恥じらう乙女を忘れ去っていた。
「悪いね、いつも分かってあげられなくて」
「べっつにい、それならそれで一生涯観察する甲斐ってのもあるけど、やっぱり葵には知って欲しいわけよ。人の良さをさ」
強い意志のこもった瞳が葵の横顔に突き刺さる。
しかし、葵は言葉を喉に詰まらせて黙ってしまう。思いの丈を理解できるがゆえに安易な返答ができなかった。ずるいと思う、その人は突然スイッチが入って葵を揺さぶってくるから言葉をまとめられない。
「片眼鏡があれば、君はもっと人と向き合える。いいところを知ることができる。下手に共感を使った理解なんかして自分の理想を正面から潰されることもなくなる」と口のうまいその人は片眼鏡の有用を説こうと身を寄せる。
「あなたの求めてるのはわたしに認知されて、ノンバーバルコミュニケーションを用いた普通の会話をすること。あなたが合理的なことを言うと大体が嘘になる。血反吐を吐く思いで、わたしが言う意味をよく考えてよ。いつわりは、決して他人につくものだけが全てじゃないんだから」
目を合わせずに厳しく指摘する。
葵にはいくつか許せないことがある。その人は知らずに触れただけだったが、彼の言葉を前にして、以前と同じことを口にはできなかった。ジョハリの窓に従えば、『盲点』と『秘密』を同時に相手しているのだ。そこにどんな矛盾した言動があれど、葵はまさしく相対してきたのだから嘘偽りは通じなかった。
妬ましさにも似たなにかの視線を向けられる葵は、硬い表情でその人の手に重ねた。
「あなたが国を憂うなら、わたしも一緒に悩む。あなたがわたしを嫌うなら、わたしは一生関わらない。だけど、大事なことに嘘を混ぜないで。あなたがそんなことすれば、わたしはなにを信じればいいの」
行き場を失った不安な声が春日の青空を渡る
紅潮するほおに釣り上がる口角、その人は自覚しておらず、だからこそ欲を憚ることなんてなかった。
独占欲——だれにも奪われたくないと思えた葵を苦しませるような真似を容認するか、否、その人は即座に自身を是正した。浅ましい口八丁で片眼鏡を買わせようとする思考を握りつぶし、葵の許容する限界まで万感を込めた愛情を届ける。依存している、そう思わないことが目下の至上命題であった。
「ううん、今のは私が悪かった。だから暗い顔しないでよ葵。友達ができなくなるぞっ」
「あなたは……まったくもう、人の心を乱しておいてその態度、反省してないでしょう、この軽薄少女め」
葵は肩をすくめてジト目にその人のほおをつっつくも、内心は安堵していた。
強い欲が向けられていることは承知していた。しかし、欲はいずれ変わるかもしれない。そうなって仕舞えば、もう語り合える関係に戻れないかもしれない。葵はこれ以上なく恐ろしかった。
葵の顔が明らかに安心している様を見て、その人は微笑みの下に恍惚とした表情を隠した。あくまで、だらしない顔を見られたくないという少女の性に従って————
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『次のニュースです。近畿では来週あたりに桜の開花時期を迎えるそうです』
もぞもぞと身じろぎして顔を上げると、すっかりお昼のスープ特集を過ぎていた。
最近は寝不足がひどくなってきて雪に心配されることが増えた。それに伴い、こうして
己の体の弱さに嘆息し、起ききっていない思考を強制的に活性化させる。急な変化にかに吐き気がしてくるのはもはや習慣となって、衰弱に感覚が慣らされていく。精神や思考は葵の得意分野であるが、それが“自意識の主導での調整”ともなると難易度が遥かに跳ね上がる。
「水……」
洗面所に頭を突っ込み、大量の水を飲み干す。
通常、料理する意識や会話する意識といったものは自然に切り替えられていく。すなわち無意識の仕事である。一方で葵はその大部分を意識で処理しようとするために心身共々、有形無形の弊害が発生していた。
くまはより濃く、肌は乾燥して薄皮が剥がれかかっている。鏡に映る自分を見て無言に伏す。
「また、あの人……」
未練がましい己を唾棄し、失笑する。
喪ってしまったものは戻らない。継ぐべき遺志も残さなかった。ただ、その人は未来を憂いていた。手に収まらないと分かっていながら、永遠の命題を、声を大にして葵に熱弁を振るった。
口を引き結ぼうとして失敗した。力が上手く入らない。
割り切れるはずがなかった。
肩を落として一息つく。焦点が定まらず、憧憬にすがめた。
「ねえ、あなたは……」
「葵さん」
「あ、どうしたの」
反射的に振り返れば雪が気遣う声で顔をのぞかせていた。窓からの逆光で時折きらめく銀光は見慣れたものだ。
手の甲で口元を拭い、まなじりを下げる。
「六之条さんこそ、落ち着いた?アレ」
「そ、そういうことは今じゃなくてもいいでしょう⁉︎今は八瀬さんです。一段とやつれてます」
毎月くるアレはもう収まったようで葵もほっとする。なにせ雪の情緒が不安定になって被害(甘えたがりの銀髪少女のあれこれ)を受け流すのは葵に一任されている。少女の両親はなにを思って彼女を日本に残したのだろう。遠い目になりつつある葵を引き戻したのは『もう休んでてください!』という小さい叱り声とともに手首を引っ張られてからだった。
リビングの椅子に座らされて真新しいチラシを差し出されて受け取ってみれば、どうやら近くの街で桜祭りがあるらしい。目を凝らしてゼロ距離まで近づけると、そう言うことが書いてあった。
「……これがどうかしたの?」
「息抜きに行きませんか?最近眠れてないんですよね、八瀬さん。程よく人足の少ないところで、私が買ってきたものを食べたりして桜でも眺めましょうよ。春風には風情がありますよ」
「絶対六之条さんが食べ歩きしたい口実でしょ。生唾を飲み込む音が聞こえるんだけど」
ジト目で投げかけてみると、少女は下手な口笛を吹いて腕を組む。
難しいのは雪が欲の傍で確かに葵のケアを意識してくれているところだ。自分の体調も管理できない葵だが、雪は別だ。適度に食事制限しなければ消費量が元に戻ってしまう。度し難いことこの上ない……が、開催地を思い出して嘆息する。
「いいよ、桜祭り」
「え、ほんとですか!じゃあ明日、ね!明日行きましょう!」と横から揺さぶってくる雪は破顔した。
「肩揺らさないでぐらついてるから」
「……えっと、ごめんなさい」
はっと鎮静する雪にチラシを返す。
別に怒ってないが、過剰なまでに繊細になっている。かなり重く受け止められているのが己の不調が原因だと思うとやるせない。はなやぐ花まつりの取材現場の音が、いやに耳を刺激してくるリビングは居心地が悪かった。
「……六之条さん」
「は、はい」
「私は毎年、この時期に体調を崩すことが増える。仕事に支障はないけど、三月から四月は、私が具合悪そうにしてても気にしないで」
「んな無茶な」
ほおづえをついていた雪は口を歪める。
「そういう時期、とだけ理解してくれればいいから。心配しないでよ、別に死ぬわけでもない」
『それが一番予想できるんですけど』という小言をぶつぶつつぶやく雪を残して席を立つ。心配性な雪に意識を他に向かわせるには、そう考えて歩きざまに頭を軽く撫でさる。
「……!」
「杞憂だよ」
「撫でます普通⁉︎」
ばっと頭を抑えた雪は信じられないものを見るように抗議してくるが、葵はどうだろうととぼけてキッチンに立つ。
その日の夕食は魚の頭を使った煮物で、なぜか雪は体を震わせていたという。
見知らぬ少女は監禁したいそうです ホノスズメ @rurunome
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