第十二話 監禁欲求

 つるりとした金木犀を二、三本携え、急斜の丘を登るスーツ姿を、寒々とした曇り海が背後から見守っていた。雪残りの石段をあがりきると、死者の眠るところへ行き着いた。

 足取りに迷いはなく、一直線に真新しい墓碑の前までくる。乾いた笑みで、段差に腰かけた。


「久しぶり」


 手元の熟れた橙が風に揺られる。

 こまめに磨かれた墓標には、羅盤家乃墓と彫られており、硬いそれに背中を預けた。葵は安心しきって顔を伏せる。凍てついた海風が前髪を愛撫し、灰の目がじっと乾いた地面を見つめる。


「ごめん、三ヶ月も留守にしちゃって。まだそっちに行けないんだ。『友』ができてね……」

 

 乳房雲を見上げて耳を震わせた。


「六之条雪っていう子で、人生に行き詰まりを感じてたみたい。私の餓死を無理やり止めて、自分の家に雇うって強行を実行できるんだ。すごい子だよ」


 石から返答はない。しかし、それでよかった。言葉にできない感慨を抱えて立つ。その人と語らうのはまだ早い。ポケットに手を入れ、紺の裾をなびかせる。


「今はあの子がいるから生きてるよ。疑心暗鬼でまた死にかけないよう気をつけないとね……来週、春風が吹くそう……また来るね」


 寒空の下、鼻を啜って丘をくだった。




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 墓参りから帰り、普段通り買い物を済ませて雪を待っていると、彼女はやってきた。


「……八瀬さん」

「どうやらなにか心境に変化があったみたいだね。布江さんあたりに声をかけたんでしょ」

「お見通し、ですか」

「うんうん、あの人はひねくれちゃってねえ。素直になれない子なんだよ、許してあげて」


 葵があわれむと、ため込んだ雪は曖昧に笑うことしかできなかった。

 おそらく昨日の件だろうとあたりをつけた葵は、あえて指摘せず、考え込む雪に連れそうのだった。


「私の見解を述べてもいいかな」

「!……なんですか藪から棒に」

「六之条さんは気になってるみたいだからいうけど、私と布江さんは特別な関係にない。単に傷の舐め合いをした仲だよ」


 カサカサと袋が擦れる音を鬱陶しく思いながら葵は言う。程よくガス抜き、ついで布江はしないであろう説明だったが、カバンを強く握りしめる雪は声を低くしたままだった。

 

「あの人が特殊なのは分かってます。でも、あまりに親しくしているよう見えたので」

「ああいう人は好きだよ」

「なっ」

「清濁あわせながら、実直に現実を見つめ続ける頑健さにはほれぼれするからね。私にはないものだもの」


 隣の芝生は青いっ!

 満面の笑みで絶賛すると、雪はほおを膨らませて黙り込んでしまった。


「あれ、六之条さん」

「……つーん」

「はあ、分かったよ。六之条さんもすごいすごい」


 明らかに心がこもっていない葵に怒気を抑えつけた雪が、ぐりぐりと頭を腕に押しつける。葵は嫌そうに顔をしかめるが、ため息をつくばかりでなにも言わない。

 目はしで主張の激しい銀髪がこれ以上なく面倒くさかった。


「六之条さん」

「……雪」


 まだ家にすらついていないのに、雪ははばからず高い要求を突きつけてくる。割と危ない。葵の脳裏には売春法のテロップが通り過ぎ、口さのない風評被害がありありと浮かんだ。

 いくらアレが近いからといって葵がリスクを負うことはできない。諦念して肩を落とす。


「分かった、分かりましたよ!好きなものも作るし、下の名前も今日だけだから、そういう頼みは家でして。ただでさえあってないような適切な距離感を保ってるのに……」

「……ほんとですか?」


 疑わしい目を向ける雪の手に引き、『当然』と即答した。その言葉に口角を上げた雪は途端に声を弾ませる。


「ポトフか鍋にしましょう。ね、そうしましょうよ八瀬さん!」

「どっちでもいいから指を絡めてくるな。『友』はそんなことしません」

「えーけちー」


 文句をたれつつも、しっかり握りなおしてくれるからまだ話は通じる。

 安堵する葵を横に雪は声を潜ませる。


「どうせなら閉じ込めてもいいのに……」

「聞こえてるからね」


 肩を震わせ、見上げてみればあきれ顔の精悍な青年が白い息をはいていた。

 冗談と笑い飛ばせないのは、雪が根本的なところでそういった欲求を持っていると確信できてしまうからであり、声一つでそれが日増しに強くなっていることがわかってしまうからだった。

 肩ひじを張るような脅威でもない。それこそ、体の自由は彼女に委託しているも同然なのだから、彼女次第だ。葵は粛々と受け入れるつもりだった。

 歩みを再開させ、親が子に帰ろうと促すように寄り添う。


「六之条さんはね、今のところ私の命綱なんだよ。あなたが必要としなくなれば、わたしは迷わず餓死する」


 重いだろう?そう訴えかければ、雪は憮然と前をむく。

 多くの人はこのような生死観の話題を避ける。生きるのしても死ぬにしても、直視したくない現実が双肩にのしかかってくる。一方で葵は例外だった。鋭敏に過ぎた感覚は常識や無視する現実を間断なく突き破ってくる。

 あまりに異質で、葵が社会に馴染めない原因の一つだった。それを雪は間近に見てきた。見てきて、微笑んだ。


「なーに当たり前のこと言ってるんですか。あなたの命はわたしのものです。傷鳥を籠に入れて保護するのも、責任でしょう」

「言葉遊びが上手くなったようで」


 ふふっとわざとらしく口角を上げれば、雪は胸を張る。


「ええ、とても言い尽くせない感慨をどうにか言葉にしようとする。その試みは魂を味わうみたいで、病みつきになっちゃいます」


 恍惚にこぼす雪に言葉を失うが、それもたちかと納得した。なに、男の性癖が多種多様あるように、雪も言葉遊びの沼にはまった。それだけのこと。

 ちょっと距離をあけようとして、雪白の手にそれを阻まれ失敗した。

 空は暮れ、暗澹とした空気が人の本性をあらわにする。困惑する葵は冷気のほかにせりあがるなにかを感じた。


「駄目ですよ、わたしのものなんですから」

「ろ、六之条さん?」

 

 声がうわずり、つないだ手から鳥肌が全身に広がる。一瞬だった。

 とっさに顔を向けると銀と暗赤が線を引き、耳元のとろける吐息に体を硬直させた。


「な、にするの……」

「あなたはわたしのもの……わかってるじゃないですか。葵さん。ああもう我慢できませんよ、そんなこと言われたら」


 透明感のある美声に、瞳孔の開ききった葵の胸中は絶望に塗り潰されていく。容赦なく、見逃し一つなく。

 声一つで相手の心内を読み取る。生命線であるその技能は、切に少女の欲を思い知らせた。失敗した、青ざめた葵は痛恨のミスを自覚する。

 引手が入れ替わり、悦に入る雪によろよろと引かれる。


「六之条さん」

「雪ですよ」

「……雪さん」

「はい!なんでしょう葵さん」


 弾ける笑顔だけなら、可憐な少女だっただろう。しかし悲しいかな、雪は胸を押し付ける形で葵を凝視している。ひしひしと感じる。死ではなく、自身を根本から作り変えられるような消滅がすぐそこに迫っている。葵は予感して、息をのんだ。


「……あ、明日の夜は焼きおにぎりにしたいんだけど、醤油って何がいい」

「はあ、そうですね。やっぱり甘口の九州醤油じゃないですか?」


 すっとんきょうな顔をして思案にうつむいた雪に、小さく息をついて隣り合う。

 既に落ち着きを取り戻し、食の話題で時間を稼いだが心臓はいやに脈打っていた。

 このようなことも日常の一環、刺激するつもりはなかったが、うかつだったと思う。葵は知っているのだ、雪がどんな欲を内に秘めているのか。葵は知っていた、時期が悪いと。

 小柄な彼女は隠せていないのだ。自覚しているかも怪しいその異常な欲を。

 雪が食い意地があって本当に良かった。すくわれた気分の葵は慎重に発言する。


「ううむ、値引き交渉は難しいかも」

「スーパーで値引き交渉って……葵さんいつの時代の人ですか」

「客入りをよくする秘訣とか交渉材料になりそうなんだけど」

「やりましょう葵さん、わたしたちのマイシスターが待ってます!」


 好物のことになると、途端に頭が悪くなるのはどうにかならないものか。九死に一生を得ても、諸悪の根源がこれでは『友』である葵の心配は尽きない。どこかおかしかろうとも、雪を嫌いになれないでいる自分に甘受して後を追った。

 家につき、キッチンに袋を置いてふと思う。雪の異常性はなにに根差しているのかと。しかしそれは以前にも考えてあきらめたことだ。雪の過去を知りえない葵は、彼女の話を聞かない限り具体的なことを推測できない。


「まあでも、収穫はあった」


 雪は風呂を沸かしに行っている。独り言を聞かれる心配もない。手を洗って買ってきたものを取り出しつつ、思考をまとめる。

 

「偶発的とはいえ、欲の解放と連鎖的な発現がトリガーになった。これは要反省」


 ノズルを回し、瑞野菜を水流で洗う。


「特定といえばそうか。でも確信できない。支配欲の一種だとは思うんだけど、“閉じ込める”ことに固執する精神性のデータはないし、むしろ手段としての一環が閉じ込めること。最終的なゴールが、欲求の満足に至る道……と判断すべきか」

 

 情動性共感という観念がある。相手の感情や衝動を自分のものとして認識することである。葵は声のみでもそれが可能であり、雪の場合に関しては生活行動や人格情報が高い確度で記憶されている。葵が必要以上に動揺した理由だった。

 しかし逆説的に解釈すれば、共感を用いて相手の心を読み解くこともできる。それ以上に伴うリスクを思えば、とても実用しようとは考えない代物であるのに間違いない。

 深い集中、そして激しい水音がひたり足音を消していた。


「葵さん、なにを呟いてるんですか?」


 ぞわりと腹底を撫でられ、手が止まる。

 

「あー水出しっぱじゃないですか。もったいないですよ」

「ご、ごめん。ちょっと考え事しててね、先に風呂に入る?それともご飯にする?」

「第三の」

「却下」

「食い気味ですね⁉︎」


 定型句だ。ジト目に見下ろす少女は、やはりさっぱりして葵を崩しにかかるような危険を感じさせない。だが、かすかに感じる。芽生える前の土の盛り上がりを。触れれば反動で天を向く双葉のようななにかを。

 心に留め置いて葵は苦笑した。


「先に風呂ね。あいわかった」

「いや、いいですけど……」


 物言いたげに葵を見やる雪の背を押してキッチンから追い出し、着替えをとって風呂に向かうのを確認する。

 注意深く意識してほっと息をつく。


「……言うなれば、監禁欲求」

「葵さん」

「っなに、目なんか覗かせて」

「入ってきちゃだめですよ?」

「早く入りなさい!」


 青筋を立ててぴしゃりと閉める。

 ドア向こうの音が消えて力が抜け、冷たいドアに額をつけた。

 動機が激しく、胸を抑えてしまう。声が怖かった。いたずらにからかうあの声の裏には、よだれを滴らせる獣の口があった。


「っ落ち着かないと」


 これも日常、そう解釈して鎮静させた。綱渡りの日々は心臓に悪い。雪のそれがいずれ育ちきるまで、葵はごまかし続けるだろう。

 複雑な思いでため息をつき、料理に戻るのだった。



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やったああ!やっと本編に入った!

わたくし号泣あなた絶叫、薄氷の上の日常をお楽しみください

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