太陽の昇る朝
幸まる
太陽の昇る朝
鳥かごの上から掛けている覆いを、
現れたのは、一羽のセキセイインコだ。
「ぴーこ」
優花は、
ぴーこは、止まり木の端の方に止まっていて、首を傾げるようにしてこちらを見た。
白い頭、鮮やかな水色の身体。
首の後ろには黒い縞模様。
両翼には、同じように黒でびっしりと波のような模様があって、これはセキセイインコの特徴のさざ波模様というらしい。
ぴーこは緊張しているのか、止まり木の端から動かず、細く羽根を震わせている。
突然環境が変わったのだから、当然か。
暫くそっとしておこう。
そう思って、優花は窓際に置いた鳥かごから、ゆっくりと離れた。
「ぴーこちゃん、様子どう?」
「緊張してるみたい。雰囲気に慣れるまで、そっとしておこうかと思って」
母に尋ねられて、優花はキッチンカウンターの椅子に腰掛けて答えた。
置かれたマグカップを両手で持ち、ホットミルクの甘い香りにつられて、鼻を寄せた。
「伯母さんの入院って長いの?」
「二週間程度だって聞いてるけど、経過によってはもう少し伸びるかもしれないって」
「そっか……」
ぴーこは伯母の飼っているセキセイインコだ。
伯母は、優花の父親の姉で、夫を早くに亡くして一人で暮らしていたが、先月、以前に完治していたはずの病の再発が発見され、入院して手術することが決まった。
それでその間、ぴーこを優花の家で預かることになったのだった。
優花はホットミルクを一口飲んで、窓際を振り返る。
ぴーこはさっきの場所から動いていなかった。
二週間、仲良くしようね。
心の中でそう言って、優花はぴーこを遠くから見つめた。
「お腹が痛いの」
「学校、行けそうにないの?」
「……うん」
「そう……。じゃあ学校には連絡しておくから。お母さんは仕事に行くから、ちゃんと寝ていてね」
ソファーで丸まる優花を見下ろし、母はため息混じりに言った。
その声に落胆を感じ、優花は更に身体を縮めた。
中学一年生の優花は、二学期が始まってから、登校前に腹痛を感じるようになった。
初めは、それでも学校に行けた。
しかし、回を重ねるにつれ、痛みは増して、お腹を押さえて横になるようになった。
そこからは、度々学校に遅刻したり、休んだりしている。
病院にも行ったが、特に悪いところは見つからなかった。
整腸剤は処方されて飲んでいるが、良くなったようには感じていない。
病院の先生も、薬を渡してくれる薬剤師も、「この年代は不安定だから…」というようなことを、母に説明していた。
つまり、この不調は精神的なものだということなのだろうか。
ソファーに転がったまま、優花は広いリビングの窓際を見た。
ぴーこの鳥かごのカバーは、掛かったままだった。
夜、真っ暗にしてやる為に掛けるカバーは、優花が朝食後に外すことにしていたが、今朝は忘れていたのだ。
優花は立ち上がって、鳥かごに近付く。
学校の制服のまま転がっていたので、スカートにはシワが出来ていた。
まるでスカートさえも落胆しているようで、気持ちが沈む。
もう、腹痛は治まっている。
遅刻してでも、学校へ行くべきだろうか。
……でも、学校には行きたくない。
何が嫌というわけじゃない。
ただ、
一学期から感じていた。
私服で通った小学校と違って、皆同じ制服を着て、決められたいくつかの髪型に揃えて学ぶ生徒達が、不思議で堪らない。
どうして皆、すぐにそこに馴染めるのだろう。
居心地が悪いとは感じないのだろうか。
なんとか一学期を終えて夏休みを過ごした優花は、新学期に入り、運動会に向けて団結して練習を始めたクラスから、とうとう目を背けてしまったのだった。
それから既に一ヶ月半が過ぎようとしている……。
ピチ、と小さく声がして、優花はハッとした。
カバーを外して、やっと朝の光を浴びたぴーこが鳴いたのだ。
この家に来て、三日。
環境に慣れてきたのか、ぴーこはかごの中で羽繕いをしたり、ピチピチ、チュルと可愛らしく鳴くようになっていた。
「ごめん、起こすの遅くなったね」
声を掛けると、ぴーこは軽く首を傾げた。
両翼を持ち上げるようにしてから、片翼と片足を揃えて伸ばす。
その次は、反対側。
朝の準備運動なのだろうか。
しっかり伸び運動を終えると、ぴーこは止まり木から、水入れの方へ降りてきた。
優花は慌てて、かごの入り口を開けて、水入れを取り出した。
毎朝汚れた水を捨てて、新鮮な水に入れ替えるのだ。
水替えをした水入れを入れようとしてかごを開けた途端、ぴーこはパサッと軽く羽ばたいてかごを飛び出した。
「あっ!」
パララと羽音を響かせて、ぴーこはリビングを一周すると、さっきまで優花が転がっていたソファーの背に止まった。
東側の窓から入った日光に照らされて、翼を畳み、首を傾げる。
優花はホッとして、そうっと歩いて近寄った。
「オハヨウ」
突然、聞いたことのない不思議な声で、ぴーこが喋った。
ドキリとして、優花は足を止める。
「オハヨ」
ぴーこが再び言って、チュルチュルと鳴いた。
そういえば、伯母がぴーこの世話の仕方などを書いてくれた紙に、“少しお喋りします”と書かれてあった。
なるほど、これがそのお喋りか。
優花はその場に立ったまま、ぴーこに声を掛けてみた。
「おはよう、ぴーこ」
「ピーコ、オハヨウ、オハヨ、ピーコ」
まるで返事をするように言ったぴーこを見て微笑んだ時、ぴーこが別の言葉を発した。
「キョーモアサヲムカエラレマシタ、アリガトゴザイマス」
優花は瞬いた。
『今日も朝を迎えられました。ありがとうございます』
それは、かつて伯母が、朝日に向かって手を合わせて言っていた言葉だった。
優花がまだ幼い頃、今は亡き祖父母の家には、お盆に合わせて、夏休みに親戚が集まっていた。
それは小学二年に進級した年で、クラス替えと担任の変更で、やはり今と同じく、優花が学校に行きづらいと感じていた頃だった。
学校から完全に離れた祖父母の家が、とても心地良く、お盆が終わらなければいいとさえ思っていた。
ある日の早朝、蝉の大合唱に叩き起こされた優花は、朝日に誘われるように、そろりと縁側に出た。
そこには伯母が一人で立ち、既に太陽が力強く光を放つ東の空を見上げていた。
彼女は、清々しい朝の光の中、背筋を伸ばし、両手を合わせると、小さな声で、しかしはっきりと言った。
「今日も朝を迎えられました。有り難うございます」
その様子は、まるで聖なる祈りのようだった。
不思議と蝉の声さえ遠退いたようで、優花は口を噤み、静かに伯母を見つめていた。
「あら、優花ちゃん、おはよう」
不意に声を掛けられて、優花はハッとした。
普段の様子と変わらない伯母が、微笑んで優花に近付いた。
「おはよう伯母さん。……ねえ、今のなあに?」
「え?」
「こうしていたでしょ?」
優花が“いただきます”のように両手の平を合わせると、伯母は恥ずかしそうに頬を指先で掻いた。
「見られちゃった? あのね、無事に今日を迎えられたことを感謝していたの」
「感謝? 朝が来るのはいつものことなのに?」
「そうね、朝は必ず来る。……でも、それを迎えられるのは、決して当たり前のことじゃないから」
「……どういうこと?」
不思議そうに首を傾げた優花を、伯母は薄く笑んで見返す。
「生きているだけで、奇跡みたいなものだってことよ」
そっと伸ばされた手は、優花の頭を優しく撫でた。
その時は、伯母が何を言いたいのか、よく分からなかった。
後になって、伯母の夫だった人が、夜勤明けの交通事故で亡くなっていたことを知り、優花は伯母の言葉の意味が少し分かったような気がしたものだ。
生きていれば、何が起こるかは分からない。
事故や災害、病気。
望まなくても突然襲いかかる何かに、生命はあっさりと奪われてしまうこともある。
「生きていることは、奇跡……」
優花は、レースのカーテンから透ける陽光を見つめ、窓に近付いた。
鍵を開けて窓を少し開くと、網戸越しに風が入る。
涼しさを増した空気は、季節の移ろいを感じさせた。
立ち止まっていても、同じように日々は過ぎているのだ。
「オハヨ、キョーモアサヲムカエラレマシタ、アリガトゴザイマス」
ぴーこが、また言った。
インコが言葉を覚えるのは、飼い主がインコを大事にしていて、よく話しかけているからだという。
インコ達は、大好きな飼い主が言うことを覚えて、真似をするのだ。
ぴーこは伯母のことが大好きで、伯母が毎日言っている言葉を覚えたのだろう。
今も伯母は、感謝し続けているのだ。
生きて日々を送れることを。
大切な家族を失ったからこそ知った、自分に与えられている、奇跡の毎日を。
「…………おはよう、ぴーこ」
「オハヨウ」
水色のセキセイインコは、ぷるると羽根を震わせて、チュルチュルと鳴いた。
伯母の手術の前日、優花は母に頼んで、伯母が入院している病院へ連れて行ってもらった。
病院特有の雰囲気と匂いの中、なにもかもが白い病室のベットに横になった伯母に、久しぶりに会った。
正月に会って以来だったが、伯母は随分と窶れた印象だった。
「優花ちゃん、また大きくなったわね」
「伯母さん、久しぶり」
優花は、ぴーこが元気であることを伝え、母を交えて三人で他愛も無い話をした。
話が途切れて一息ついた時、母が飲み物を買いに行くと言って、病室を出て行った。
「優花ちゃん、私に何かあったら、ぴーこのことお願いしてもいいかな」
二人きりになると、不意に伯母が言った。
伯母は、今まで見た中で一番儚げで、不安気に見えた。
「ぴーこ、可愛いでしょう?」
そう言った伯母の顔は、どうにか笑顔を作ったという表情で、見ていて苦しくなる。
優花はカバンからスマホを取り出して、手早く動画のアプリを立ち上げた。
そしてそれを、伯母の手の上に置いた。
チュルチュル……
転がるようなぴーこの鳴き声が響く。
伯母は瞬いて、スマホの画面に見入った。
動画は、優花がリビングでぴーこの様子を撮ったものだった。
チュルチュルと楽し気に鳴いていたぴーこが、突然かごの中をぴょんぴょんと移動して、かごの柵に掴まった。
『タダイマ、タダイマ』
ぴーこはかごの入り口近くに降り、忙しなく動き回る。
『タダイマ、タダイマ』
その言葉を繰り返しては、ぴーこはかごの中を跳ね回っていた。
「伯母さん、ぴーこね、夕方五半時くらいになると、人の気配がする度にこうして“ただいま”って繰り返すの」
「五時半……」
「伯母さんが、家に帰る時間なんだよね?」
インコは飼い主の言葉を覚えて繰り返す。
だから、「ただいま」を覚えた。
伯母が仕事を終えて帰る時間。
扉を開けて、「ただいま」と言われるのを、ぴーこは毎日待っていたのだろう。
大好きな飼い主が帰って来て、自分に声を掛けてくれるのを、楽しみにして。
「ぴーこは可愛いよ。でも、私じゃダメなの。ぴーこ、伯母さんをずっと待ってるよ」
優花は伯母の手を握る。
「元気になって、迎えに来て。ぴーこは、伯母さんの家族でしょ?」
伯母の目から、涙が溢れた。
スマホの画面を見つめて、うん、うん、と頷く。
画面の中のぴーこは、伯母を見つめてもう一度『タダイマ』と言った。
病院を出ると、駐車場から見上げる太陽は、既に西に傾き始めていた。
優花は空を見上げたまま、小さく言った。
「……お母さん、私、明日学校に行ってみようかな」
「……大丈夫?」
心配そうな顔で尋ねた母を見て、そういえば今まで一度も「行きなさい」とは言われなかったことに気付いた。
不登校を続ける優花に落胆していると感じていたのに、今はなぜか、見守られていたのだと思えた。
「分からないけど……、ずっとこのままは嫌だから」
母は優花の肩を抱き寄せた。
優花が何もしなくても、太陽は明日も昇るだろう。
だけど、その朝をどんな風に迎えるのかは、自分で決められる。
奇跡が続く限り。
生きている限りは。
「帰ろ。ぴーこに“ただいま”って、言ってあげなきゃ」
リビングの鳥かごで嬉し気に跳ね回るセキセイインコを思い出し、優花と母は、笑い合って車に乗った。
《 終 》
太陽の昇る朝 幸まる @karamitu
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