禁足地
もも団子
禁足地
昔から祖父に言われ続けてきた。あの山には入ってはいけないと。
私は福井県にある、上岬村という小さな集落で育った。戦前は人口も多く、活気溢れる場所だった。しかし、時代が進むにつれて都市部へ移る人が急増し今では、子供の数は二十人も満たない状態だ。それに加え、住民の高齢化が進行し、上岬村の限界集落化に拍車をかけている。
会社からの帰宅途中、薄暗い道を虫が集っている街灯に照らされながら歩いていると、スマホのバイブレーションが太腿に伝わった。実家にいる母からの電話だ。
出てみると、今日の昼祖父が亡くなったという連絡だった。死因は老衰で、眠るように静かな最後だったという。通夜と葬式は今週の土日にするとのことだった。
亡くなった直後にも電話したそうなのだが、私はその時仕事で忙しく電話に出る暇がなかった。
その日の夜、夢を見た。
目の前には見覚えのある庭が広がっており、目線がいつもより低く感じた。隣には誰かが座っており、私は温かく皴の多い手を握っていた。しかし、光を帯びた霧のようなものが邪魔で顔がよく見えず、それが誰なのかはっきりしない。それでも私は、この時間が永遠に続いてほしいと願っていた。
カーテンの隙間から入り込んだ日光が朝を知らせた。いつもと変わらない光景。しかし、鏡の中の自分は違った。目からは涙を流しており、双眸の下が赤くなっている。この涙は失った悲しみからか、それとも郷愁によるものなのか。
黒いスーツとネクタイを鞄に詰め込み、私は車を走らせた。数十キロ離れた故郷が十数年でどれだけ変わっているのか。気分の高揚を抑えつつ、ハンドルを握り続けた。
高速道路を走行中、私は幼い頃の記憶を思い出していた。
道端で弱っていた猫を拾い、家族が増えたこと。授業中に教室を抜け出し、友達とキャッチボールをしていたこと。学校の裏山で虫取りをしていたことなど。当時は取るに足らない日常が、今では宝物だった。
感傷に浸っていると、思い出すこと躊躇うようなことも頭に過った。中学二年生の頃の記憶だ。
上岬村には昔から禁足地とされてきた場所がある。それは村を囲っている山の中に存在し、何かが住んでいるという話だ。何かというのは話す人によって異なり、妖怪や鬼などが主流だ。しかし、祖父はそこに住んでいるのは夜啼様という神様だと言っていた。夜啼様について何度か言及したが、それ以上のことは教えてくれなかった。
幼かった私は祖父の話を訝しみ、そんなものが本当にいるのか確かめたくなった。そして、中学二年生の夏休み、私を含めた悪友五人で実際に行くことにした。
肝試しではないため昼間に、山に侵入し登り始めた。
長年放置されてきた石造りの階段は角が欠けており、苔が周りを厚く覆っている。
階段は先が見えなくなるほど続いている。途中で階段の長さに音を上げそうになったが、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせ力戦奮闘した。
十五分程登ると、やっと景色に変化が現れた。目の前には自分の背丈を何倍も上回る金網フェンスが佇み、これ以上の侵入を拒んでいた。金網フェンスの上には鉄条網が置かれており、よじ登ることもできない。
侵入不可能なこの要塞に心を折られ、私以外の四人は階段を下り始めていた。しかし、私は諦めきれず侵入できそうな場所がないか周囲を探索した。
生い茂った草木が邪魔で歩くのが億劫になってきたとき、フェンスが欠損し小さな穴ができているのを発見した。小柄だった私には丁度良い大きさだった。嬉しさと同時に一人山の中という恐怖が私を突然襲った。
数分悩んだ末、腹をくくり行くことにした。
フェンスの先に来た瞬間、周りの空気ががらりと変わり重たくなったことに気づいた。これまでとは異なり、木々が厳かな雰囲気を纏い、生き物の存在を感じなくなった。私は今にも押しつぶされそうになり、強い嘔気に襲われた。
逃げ出したい。私はそう思い、フェンスの穴目掛けて一直線に疾走した。すると、後ろから草木が擦れる音と共に、大きな足音が聞こえ始めた。足音は徐々に迫り、まるで獣のように響き渡った。フェンスの目の前に着いたとき、足音はもう真後ろまで来ていた。フェンスを潜るには時間がかかるため、私はもうだめだと諦めかけた。あの時みんなと共に山を下りていれば、と後悔した。
そのとき、一発の銃声が山全体に鳴り響いた。突然のことに、放心していた私は正気に戻り、力一杯に小さな体をフェンスにねじ込んだ。
途中右足から白色の靴が脱げてしまったが、そんなことは気にも留めず抜け出した。
そして後ろを一切振り返らず、全身全霊で階段を降りた。一段下る度に、ごつごつとした石が右足の裏に食い込み、嫌悪感を覚えた。階段の半分まで来たとき、山の様子が普段通り穏やかになっていることに気が付いた。蝉の声や鳥の囀り、そして茹るような暑さが全身を包み込んだ。私は愁眉を開いた。
山を出てからは家まで全速力で帰宅した。家の扉を開けると、祖父が玄関で迎えてくれた。無事に帰れた。そう思った瞬間、心の奥底に押さえ込んでいた恐怖や不安が込み上げきた。そして、こらえていた最初の一粒が零れると、あとはボロボロと止まらなかった。祖父はそんな私を見て驚いた顔一つせず、笑顔で頭を撫でてくれた。その笑顔はどこか温かく、見ているだけで心が安らぐような、そんな優しさを感じさせた。
後日、事の顛末を祖父に話した。山に侵入したこと、後ろから迫りくる足音のこと、突然鳴り響いた銃声のこと全て。祖父は、まるで何も考えずに並べられたおもちゃのようにバラバラで、流れがつかめない私の話を、真剣に聞いてくれた。話を聞いた祖父は、新田様がお守りしてくれたと言った。新田様というのは、戦国時代に上岬村の全身となる町を治めていた武将だという。その武将は何度も、敵の襲撃から町を守っていたことから、死後守り神として祀られているという。当時の私は話の内容がよく理解できていなかったが、感謝してもしきれない気分になったことはよく覚えている。
車を五時間程走らせると、上岬村に到着した。村の様子はほとんど変わっておらず、街灯が数本増えた程度だった。既に、親戚はほとんど集まっており、懐かしい顔ばかりだった。
二日掛けて通夜と葬式を終わらせた。後になってから、鍋から出る湯気のように、様々なものが込み上げてくる。
帰る前に、新田様が祀られている神社に行くことにした。今日、実家から歩いて十五分程度の場所にあるということを、母から聞いた。これまで存在自体知らず、訪れたことがなかった。
二十分程歩くと、目の前に色褪せた鳥居が現れた。神社自体は小さく、迫力に欠けるものがあった。私は拝殿の前に立ち、新田様に謝意を示した。
数分手を合わせた後振り返り、鳥居を潜ろうとした。そのとき、目の端に白いものが映ったことに気が付いた。気になり探ってみると、靴のようなものを見つけた。右足用の靴のようだったが、何度も引っかかれたような跡があり所々破れていた。到底再利用できるようなものではない。私はそれを手に取り、そのまま帰宅した。
それ以来、私は上岬村へ一年に一度帰るようになった。そして、旭岳神社へも。
禁足地 もも団子 @momodango2525
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