5
日出男と別れた絃吾は足早に町の出口へ向かった。昨日の今日だから、岩田がまだ近くにいるかもしれない。さっさと町を出た方がいい。日出男には簡単に事情を説明し、周辺の断ち手や結び手に警戒するよう伝えてもらうことにした。
診療所の角を曲がれば、町の出口までは一本道だ。
突然その角から人影が飛び出してきた。正面からぶつかり、人影はそのままの勢いで地面の上を一回転する。よろけた絃吾は山吹色の着物を見下ろし、眉をひそめる。
「お前、なにしてる」
絃吾を見上げたサチは苦笑する。
「あ、おっちゃん。ごめん、今急いでて」
その言葉は、絃吾の耳に入らなかった。
サチからひどく淀んだ縁が伸びていた。さっき別れたときにはこんなものなかったはずだ。それだけでも十分驚きだが、それはこの際どうでもいい。四本ある濁った縁のうち、ひと際太い一本には見覚えがあったのだ。
縁は基本的に半透明で、色がついていてもほとんど目に見えないほど薄い。しかしその縁はまるで髪の毛のように、はっきりとその筋を目で追うことができた。縁の持ち主の感情や気質が、くすみ、淀み、濁りとなって表れる。今まで数え切れないほどの人の縁を見てきた絃吾だが、こんな血を練りこんだ泥のような
「どっち行った!」
男の怒鳴り声とともに、複数の足音が角の向こうから近づいて来る。
考えるより先に体が動いていた。サチの腕を引いて診療所の生け垣に身を隠す。驚き暴れるサチの口を手で塞ぎ、体を抱きこんで押さえた。
角を曲がってきた足音はなにかを探して、生け垣をはさんですぐのところをうろうろする。
絃吾はサチを抱きかかえたまま身を固くした。状況を理解したサチもじっと息をひそめている。
サチから伸びている淀んだ四本の縁は、生け垣の向こうに伸びている。やはりこの縁の持ち主たちに追われているようだ。
足音のひとつが立ち止まった。
「探せ、近くにいるはずだ」
聞き覚えのある声に、絃吾は総毛立つ。
忘れたくても忘れられない。
岩田だ。
生け垣をはさんだすぐそこに、いる。
岩田の指示で足音が散った。サチから伸びた三本の縁がばらばらの方向へ分かれ、離れていく。だが岩田の縁だけは、生け垣の前から動かない。
心臓が早鐘を打つ。体がこわばってうまく息が吸えなくなる。
ガサッ、と頭上で音がした。診療所の敷地に植わっている桜の木の、夏の盛りをすぎて黄色く色づき始めた枝葉の中にネコがいた。
音に気づいた岩田が再び歩きだす。生け垣の切れ目——絃吾たちのいる方へと近づいてくる。
慌ててあたりを見回した絃吾は、足元に落ちていた木の枝を拾った。左手に着けたままになっていた手袋から糸を引き出し、枝に巻きつけ、頭上の木めがけて放り投げる。枝に引っぱられてリールから引き出された糸が、ネコのいる幹に引っかかる。絃吾が左手をそっと引くと、糸は木の幹をなでながら一回転し、落ちてきた。
ネコが先端の方へ移動したとき、糸によって切れ目が入っていた幹が音をたてて割れた。生け垣の内側から通りへと張り出した枝は、そのまま通りに落下する。幹の落下音と驚いたネコの鳴き声にまぎれ、絃吾はサチの手を引いて診療所の裏手へと走った。目では縁を、耳では足音を追って岩田の動きを注視する。
気を取られた岩田の足がいったん止まる。だが止まっていたのはものの数秒で、また歩きだしてしまう。迷いなく生け垣の内側へ入ってきた岩田は、なにかを探して木の周りをうろうろと歩き回り、徐々にこちらへと近づいてくる。絃吾は忍び足で移動し、自分たちと岩田の間に建物をはさんだ状態を維持し続ける。生け垣が診療所をぐるっと囲んでいるので、正面の切れ目以外に逃げ道はない。
そのとき、どこかで扉の開く音がした。
「なんだぁ、今の音?」
岩田の声が「ネコが木から落ちたみたいだ」と答える。どうやら診療所の中から人が出てきたらしい。それからひと言、ふた言交わすと、岩田の縁は遠ざかり始めた。人目があるところでの捜索は諦めたか、ここにはいないと判断したか。地面を踏む足音が、一歩一歩、離れていく。
足音が完全に聞こえなくなって、絃吾は長い息をついた。心臓はまだずくずくと動揺している。思い出したように嫌な汗が噴き出てきた。
それにしても、なぜサチが岩田に追われるのだろう。日出男の話を聞く限り、岩田の狙いは絃吾のはずだ。まさか一緒にいるところを見られただろうか。
いや、そのことはあとでいい。今はとにかくこの場を離れることが先決だ。そのためには、と絃吾はかたわらのサチを見下ろす。
サチからはとんでもない数の縁が伸びていた。さっき別れたときとは比べ物にならない。町中の人とつながっているといっても過言ではない数だ。つながる人が増えれば増えるほど、岩田たちにたどられる可能性も増す。
枝を絡めたままになっていた糸を、リールの口についている溝に引っかけ切断する。枝ごと糸をズボンのポケットに押しこむと、リールから新しい糸を引き出した。人差し指に巻きつけ、ほどけないよう中指ではさみこむ。
「じっとしてろ」
親指と人差し指の間でぴんと張った糸でなでるように、縁を一本ずつ断っていく。それでもサチからは、数えきれないほどの縁が伸びていた。ひとつひとつ見定めている時間はないので、真新しい縁を片っ端から断っていく。数本断つと糸の切れ味が落ちてくるので、そのたびに人差し指で糸を巻き取って新しく糸を引き出す。
岩田たちの縁は残した。縁が伸びている方向でおおよその居場所がわかるので、接触を避けつつ町を出て、安全な距離まで逃げきってから断てばいい。
あらかた切り終えると、糸をリールの溝に引っかけて切断し、指から外してズボンのポケットにしまう。使用済みの糸はあとでまとめて焼却処分するのだ。
あとは岩田たちに見つからないように町を出るだけだ。
そう思ったとき、背後で窓が開く音がした。どきりとして振り向くと、診療所の窓から老先生が顔を出していた。
「あんたら、そんなとこでなにしてんだ」
絃吾はとっさに答えられなかった。物陰で少女とふたりでいて不自然にならない言い訳など、思いつかない。
焦る絃吾の視界を、半透明の線が横切った。サチと老先生をつなぐ縁がふわりと揺らぎ、絃吾の思考が止まる。
老先生の目がサチを捉える。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」
「うん」
「助けが必要?」
「ううん。このおっちゃんがいるから、大丈夫」
サチのはつらつとした答えに、老先生は肩をすくめて中に引っこんだ。
「そうかい。まあ、うちの敷地で面倒は起こさんでくれよ」
窓が閉まるなり絃吾は、サチから老先生に伸びていた縁を断った。こんな縁はなかったはずだ。どうなっている。
そのとき、サチの体から、ふわりと縁が伸びていくのが見えた。風に乗った凧のように、縁の端がどこかへ向かって流れていく。それも一本ではない。両手に余る縁がいっぺんに伸びて、サチの周りに再びクモの巣を作ろうとしていた。そのうちの一本が絃吾の胸から伸びた縁と絡み、するりと結び目を作る。
絃吾は絶句する。
まさか、
周囲のあらゆる縁を引き寄せる体質。話に聞いたことはあったが、まさか断ち手が断った縁すら復活するのか。それもこんな短時間で。そうしている間にも、縁はどんどん復活していく。これでは冗談抜きで町中の縁を引っかけてしまう。
絃吾はサチの手を引いて、生け垣から出た。
「とにかく町を出るぞ」
絃吾の後ろを、サチは素直についてきた。絃吾の心配などつゆ知らず、サチがクスクスと笑う。
「やっぱりね。おっちゃん、いい人だと思ったんだ」
いい人。
サチはほめ言葉のつもりかもしれないが、絃吾には苦い言葉だった。
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続きは本誌でどうぞ
引縁(試し読み) 朝矢たかみ @asaya-takami
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