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 兄弟子あにでし日出男ひでおが営む〈糸屋くわた〉は、町の中心地にある。縫い糸や針、ボタン、生地といった裁縫用品を広く扱っている店だ。実質、店を仕切っているのは妻の昭子あきこで、その竹を割ったような性格も手伝い、そこそこ繁盛しているようだ。当初は本業の隠れみの——あるいは稼ぎにならない本業を補うための副業——として片手間でやっていたのだが、今では昭子がかかりきりでも回りきらなくなって、息子夫婦も店を手伝うようになっていた。


 店ではなく勝手口から入って声をかけると、屋号の入った法被はっぴを着た昭子が出てきた。長い髪を後ろでひとつにしばって、形のいい額をむき出しにしている。


「あ、絃坊けんぼう、待ってたよ。そろそろ頼もうと思ってたんだ」


 絃吾は持ってきた風呂敷包みを床に広げた。ばらけないようにねじってまとめた逆撚さかより糸の束が、五つ。うっすらと青みがかった糸はつやつやと輝いている。


 昭子はひとつを手に取ると、束を軽く潰して指の上に糸を数本広げ、つまんだりなでたりする。


「いつも通り、いい仕上がりだね」


 うなずいた昭子は風呂敷ごと糸を持って、店ではなく住居の方へ引っこむ。絃吾が持ってきた糸が店に並ぶことはない。日出男の本業に使うのだ。


 ほどなくして昭子が茶封筒と中身のなくなった風呂敷を持って戻ってきた。それを受け取った絃吾は、封筒の中の金を数える。


「確かに。いつも通り」


 滞りなく取り引きが終わり、絃吾は封筒をカバンにしまう。


 昭子が思い出したように言った。


「あんた、またおかいこさんやる気はないの?」


「なんだよ、急に」


「この間、うちの人と話してたんよ。あんたんとこのおばあちゃんが育てるお蚕さんの糸は格別だったな、って。あんたの逆撚りの腕は一流だけど、元の糸が二級品じゃあ、もったいないじゃない」


 以前は、絃吾の祖母が蚕を育て、祖父がまゆから糸を取り、絃吾が染色しりをかけていた。そうしてできあがった逆撚り糸は質がよく、このあたりのでその名を知らぬ者はいなかった。しかし空襲で祖父が亡くなり、祖母もニ年前に病死した。以来、絃吾はよそで買った繭から糸を作っている。確かに、以前に比べて質の低下は否めない。


「うちも最近ようやく依頼が戻ってきたのよ。だからもう少し糸を発注できると思うし。考えてみてよ」


 終戦のすぐあとは、縁結びという名の人探し依頼でむすは忙しくしていたが、断ち手はほとんど依頼がない状況が続いている。空襲で焼け野原になった街には、断たなきゃいけない縁なんて、どこにも残っていなかったのだ。


 しかし少しずつ元の生活が戻ってきたことで、不要な縁も生まれてきた。これからもっと増えると昭子たちは見ているようだ。逆撚り糸を使って縁を断つ断ち手にとって、糸は必需品であり、消耗品なのだ。


 昭子の言葉は職人としてありがたいが、絃吾は首を振る。


「無理だ。ひとりじゃとても手が回らない」


 祖母が亡くなったあと、絃吾はひとりで養蚕を続けていこうとした。しかし数千匹の赤ん坊と、そいつらに食わせるくわの世話をしていたら、自分の飯を作る時間もなく、諦めた。


 腰に手をあてた昭子が、たたきに立つ絃吾を見下ろす。


「ならいい加減、弟子か嫁をとりなさいな。あんたもいい年なんだから。なんなら私が紹介してやろうか?」


また始まった。絃吾はこっそりため息をつく。


「だいたい、山の上に住んでちゃ来る縁も来ないじゃない。お蚕さんやらないならあんな大きな家もいらないんだし、そろそろ人里に下りてきなさいよ。あんた髪とヒゲ整えて着るもん着たらそれなりに見えんだから、すぐにいい人のひとりやふたりできるよ」


 昭子は絃吾が断ち手の修行を始めたころからの顔なじみだ。年がひと回り離れている上に夫の弟弟子おとうとでしということもあり、完全に親戚の子扱いだ。気さくな人なのだが時々お節介がすぎるので、絃吾は話を聞かずに片づけを済ませてさっさと退散する。


「糸が減ったころにまた来る」


「まったく、この手の話になるとすぐ逃げるんだから。ちょっと待ってな」


 昭子は店の方に向かって「あんたー! 絃坊、帰るってよ!」と声を張り上げた。


 少し待つとドスドスと足音が聞こえてきて、口ヒゲを生やした恰幅のいい男——日出男が現れた。すれ違いざま、日出男は昭子をにらむ。


「絃吾が来たらすぐ教えろって言ったろ」


「だから教えたじゃない」


 なに怒ってんだか、と受け流して昭子は店に出た。だが絃吾は日出男のその慌てように、ただならぬものを感じていた。


 絃吾のそばまで寄ってきた日出男は、あいさつも飛ばして囁く。


「昨日、妙な男がお前を探しに来たぞ」


 吸いこんだ息がのどに詰まった。心臓が静かに高鳴っていく。


 日出男は続ける。


「お前を名指しして探してた。知らないってとぼけたら、今度は『このへんに養蚕農家はいないか』って聞くんだ。心当たりあるか?」


 そいつは絃吾と同じくらいの年齢で、唇からあごにかけて切り傷のある大男だという。その条件に当てはまる人物は、ひとりしかいない。胸の奥にひやりとした感覚が広がる。


「たぶん、同じ部隊にいたやつだ」


「糸のこと話したのか?」


 日出男の声がわずかに尖る。外部の人間に糸や縁のことを話すのはご法度はっとだ。


「話さなきゃ殺されてた」


 ひどく言い訳がましい言い方になって、絃吾はかすかに自己嫌悪する。


 ——あれ、貸してくんないか。


 タバコを一本ねだるような口調で絃吾に銃を向けた岩田の目が蘇った。顔は笑っていても、目の奥にはいつも怒りと憎悪が燃えている。その目で見つめられると、体の内側にある恐怖を見透かされるようだった。


 糸のことを知ってからはしつこくつきまとわれ、復員のどさくさに紛れてようやく振り切ったのだ。どこから岩田につながるかわからないから、岩田だけでなく、復員船が着いた浦賀港からの帰り道に結ばれた縁も残さず断ち切った。


 あれから何年も経つのに、どうして今さら。

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