3

  他人と関わるのはごめんだ。


 とはいえ、日が暮れた山に少女を放り出すわけにもいかず、泊めてやることにした。少女は納屋でいいと言ったが、母屋に上げた。納屋にある糸や機材をいじられたら困るし、信用できない以上は目の届くところに置いておいた方がいくらか安心できる気がした。


 翌朝は、奥の方でごそごそやる音で目が覚めた。


 やられた!


 落胆と怒りで飛び起きた絃吾は、寝間着のまま、音がする方へ走る。


 一番奥の炊事場に飛びこむと、少女が朝食の支度をしていた。


「あ、丁度いいとこに。これ運んで」


 少女が指さした先には、味噌汁が入った椀がふたつあった。居間のちゃぶ台にはすでに米を盛った飯碗とカボチャの煮物が並んでいる。


「さ、食べよ」


 キツネにつままれたような気持ちで、絃吾は少女とちゃぶ台をはさんで腰を下ろす。


 少女が期待のこもった目でこちらをじっと見ているので、絃吾は手を合わせてから味噌汁に箸をつけた。


「悪くないでしょ?」


 少女が待ちきれずに尋ねる。


「そうだな」


 正直な感想を言えば、絃吾が自分で作ったものとさほど変わらなかった。だが慣れない調理場で作ったにしては上出来だろう。


 絃吾の反応に満足したらしく、少女も食べ始めた。箸の持ち方や茶碗の上げ下ろしもちゃんとしている。上品とは言わないが、下品さは感じない。


 少女はサチと名乗った。


 これまでもこうして行く先々で農家や商店に飛びこんで、手伝いをすることで宿と飯を得てきたのだという。


「家族を亡くしたじいちゃんばあちゃんが狙い目なんだ。ご飯作ったり、野良仕事したり、店番したり、そこん家で困ってることを手伝ってあげると、わりとあっさり居候させてくれる」


 ときにはお駄賃をくれることもあるのだという。サチが着ている着物も、居候した家の奥さんが、自分のお古をわざわざ彼女用に直してくれたのだそうだ。サチは柄を見せるように片方の袖を広げた。


「店番するときはちゃんとしたのを着ろってくれたんだ。でも気に入ったからずっと着てる」


 となるとやはり着物は安物ではなさそうだ。大事な着物を譲ってやり、養子に迎えようとまで言った奥さんの気持ちを思うと、気の毒になってくる。


 絃吾は目をこらす。


 サチを中心に、クモの巣のように縁が伸びている。絃吾とつなぐ縁の他に、最近結ばれたと思しきはっきりした縁が二、三十本。これだけでもかなりの数だが、驚くべきは薄い縁だ。ほとんど見えないくらい薄い縁が数えきれないほどあった。縁は相手との距離が離れるほど薄くなり、やがて結び目がほどけて消えてしまう。だからここまで薄い縁がたくさん残っているのを見たのは初めてだ。本人が言う通り、積極的に人と関わってきたことが窺える。


 だが気がかりなのは縁の色だ。大半の縁が生糸のように澄んだ色をしているが、濁りが目立つものも多くある。小さな染み程度のものもあれば、一昨日の飲み残しの茶のように全体が濁っているものもある。怒りや傷心を帯びたものが多いから、おそらく他にも奥さんのような人が何人もいたのだろう。


「いつか痛いめにあうぞ」


 戦災孤児は生きるために盗みをしたり徒党を組んだりすることから、今ではすっかり社会の厄介者扱いされている。そうでなくともみんな余裕がなく、物騒な世の中だ。よくしてくれた相手への不義理や、初対面の相手にあっさり気を許すような不用心を続けていれば、いつか取り返しのつかないことが起きる。


 そんな絃吾の忠告を、サチは笑い飛ばす。


「平気平気。私、人を見る目はあるんだ」


 絃吾は鼻で笑っていた。絃吾もかつてはそう思っていた。だがそれは、たまたま問題が起きなかっただけで、これからも同じ幸運が続くわけじゃない。信用する人間を一度間違えただけで、命を落とすことだってある。


 だがそれを言ったところで、サチには響きそうにない。


 サチは絃吾を信用に足る人間だと判断したようで、聞いてもいないのに身の上話を続ける。


 一方の絃吾は、家を出るそのときまで、サチがなにか盗むんじゃないかと目を光らせていた。彼女はそれに気づいているのだろうか。




 朝食を済ませたあと、ふたりで山を下った。


 町にたどり着いたところで、サチはぺこんと頭を下げる。


「ほんとありがとう。ひとりだったら絶対迷ってたよ」


「ついでだ。礼を言われるようなことはしてない」


 町へ行く予定があった絃吾に、サチがついて来ただけだ。


 それでもサチは人懐っこい笑顔を向ける。


「うん。でもほんと、助かったよ。またどっかで会ったら、お礼する」


 そう言ってサチは、絃吾とは反対方向へ去っていった。


 あっさりした別れだった。


 不思議な子だ。遠慮なく人の懐に飛びこんできたかと思えば、つむじ風みたいにあっという間に消えてしまう。


 ともあれ、肩の荷が降りた。


 ひとり山の上で暮らしている絃吾にとって、他人と一緒にすごす時間は疲れるものだった。ましてやサチは、口になにか入っているときと眠っているとき以外は、常にしゃべり続けているのだ。半日ぶりに訪れた静寂は、とても心地よかった。


 絃吾の胸から伸びる縁がきらりと光って見えた。小さくなっていくサチの背中に、しっかりつながっている。


 絃吾は肩にかけた革カバンから白い手袋を取り出し、左手に装着する。表面は絹だが、裏地に厚手の布を使っているので見た目よりも頑丈だ。親指のつけ根あたりから出ている糸を人差し指と中指でつまんで引くと、手の平に埋めこんであるリールから薄く青みがかった糸が繰り出される。その糸に親指を引っかけてぴんとはれば、人差し指と親指の間に小さな糸鋸いとのこができあがる。その糸鋸を、絃吾とサチをつなぐ縁に添えて、優しく引く。


 切れて垂れ下がった縁は輝きを失い、湯気のように風に溶けて見えなくなった。


 これでもう、会うことはない。

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