第2話:ひらめき
その日の昼下がり。
私はポメリウム亭のカウンター席で甘いコーヒーを飲みながら、サスペンス小説を読んでいた。
生首は、私が来る前からテーブル席で他のお客さんを相手に何やら話し込んでいる。話し相手は真面目そうな学生さんで、私は眼中に無い。よしよし。
最近の生首は、私に自分の昔話を話すのが面白いようで「完成したばかりのギザのピラミッドの頂上から神官に放り投げられた」だの、「建国直後のアメリカで巨大な熊と闘いつつ開拓団と大陸を横断した」だの、壮大なホラ話をあれこれ聞かされる羽目になっているのだ。
なので、今日は静かに読書を楽しんでいた。
やがて学生さんは食べ終わり、丁寧にご馳走様を言って出て行った。
龍之介マスターは、食器を下げるのと一緒に生首を運んで来て、カウンターに置いた。思わず見上げたけど、知らん顔である。つまり読書を中断して話相手をしてやれという事だ。ちえ。でも長々と喋っていた生首は、私の不満顔に気づかずご機嫌である。
「実に勉強家で立派な学生であった。なので、私がアレクサンドリア図書館で学んだ経験から、知識と学識に基づく『ひらめき』が如何に重要か伝授しておいた」
「はあ、そうですか」
学生さんも気の毒に。まあ気分転換にはなったかもだけど。
「彼が食べていたのは、牡蠣料理であったが牡蠣は栄養豊富で脳にも良い。多くの『ひらめき』が得られるだろうな。勉強熱心な若人にとって素晴らしい事だ。ところで女史は食べないのか?」
「女史はやめてくださいって。私、牡蠣が食べられないんですよ。どうしても苦手で」
牡蠣アレルギーと言う訳でないのだけど、私の苦手食材のトップが牡蠣である。
今日のポメリウム亭のランチは牡蠣フライセットで、龍之介マスターお手製特製タルタルソースが添えられている。揚げたて熱々のフライは美味しそうだけども食べられない。無念。
「牡蠣が食べられないと、『ひらめき』が得られず、さらに古代ローマの宴会に招かれたら苦労するぞ。ローマ人はとにかく牡蠣が大好物だったからな」
「ひらめきはともかく、なんで私が古代ローマの宴会に招待されるんですか」
「そうえいば、私も遠い昔、海で漁師と共に牡蠣を採ったものだ……」
私の言葉を無視した生首の昔話が始まる気配を感じて、そろそろ逃げ出そうかと思ったら、絶妙のタイミングで龍之介マスターが話しかけてきた。
「よろしかったら、チーズケーキの新作を味見してくれませんか? 少しレシピを変更したんですよ。もちろんお代はいただきません」
よっぽど生首に話をさせてやりたいのか、それとも自分が相手をするのが面倒なのか……多分後者だ。
しかしこの申し出には抵抗できない。チーズケーキは大好物だ。そしてポメリウム亭のチーズケーキはずっしり濃厚で美味しいのだ。仕方ない。
さすがに申し訳ないのでコーヒーのお代わりを頼み、本を鞄にしまい込むと、少し遠い目になった生首が話し始めた。
「古代のローマ人の食卓では、様々な魚介類が珍重されていた。その中でも牡蠣は特に好まれていた。養殖もされていたが、良質の牡蠣が摂れる海での牡蠣漁も盛んであった。漁師が採った新鮮な牡蠣は直ちに都に送られ、貴族や大富豪の宴会に供され皆が大いに喜んで味わっていた。
その時、私はローマの都から離れた海辺の町の漁師の元にいた。前後の事情はもう記憶に無いが……寒い季節だったと思う。胴体の無い私を気の毒に思った漁師とその妻が面倒を見てくれていた。幸い私は飲み食いをしないから、眠る場所さえあれば良かったが、さすがに悪いと思い日々の漁を手伝った。といっても、舟に乗って漁師が働いている間に天候や周囲の気配を見張るぐらいだったがな。けれど広々とした海上の眺めは新鮮で、楽しかった。
ある日、漁師の元を一人の見知らぬ青年が訪れた。透き通るような色白の肌をしていたが、しかし体の大きな精悍な美青年であった。彼は、賃金はいらぬからしばらく漁師の元で働かせて欲しいと頼んだ。漁師が事情を訊くと、この辺りの海で調べたい事があるのだと言う。採った魚や貝もいらぬ、しかし海には出たいのだと。親切な漁師は了解し、それから毎日青年と共に漁に出た。青年は働き者で、生首の私にも丁寧であった。ただ自分の事は何も話さなかった。どこで寝起きしているのかも不明だった。彼は本当に何も要求しなかったが、時々舟の上から海の中を長い時間覗き込んでいるのが、少し気になった。
彼が働き出して何週間か経ったある日、漁師に頼み事をした。
今夜、一人で海に出たいから舟を貸して欲しいというのだ。礼もちゃんとすると言う。漁師は願いは聞いてやる事にしたが、舟は大切な財産なので私を見張りに連れて行く事を条件にした。青年は了解し、私は彼の操る舟に乗って夜の海上に出て行った。満月の夜で、月光に煌々と照らされた静かな海は幻想的で美しかった。その時、私と同じように満月を見上げていた青年が告白をした。
自分は、人魚なのだと。生まれは人間だったが、人魚と親しくなり、呪いで自分も人魚になってしまったという。さすがに私は驚いたが、彼は別に悲しんでいる様子も無かった。きっと自分の運命を受け入れていたのだろう。
青年は、どうしても今夜、ここに人間の舟で来なければいけなかったらしい。幾らでも泳げる人魚にも人間には分からぬ制約があるのだな、と私は思った。
彼は舟を停めた。この辺りに牡蠣がたくさんあるのだと言う。そして身軽に海に飛び込んだ。やがて大きな牡蠣を手に戻って来る。それをしばらく繰り返し、やがて舟は牡蠣でいっぱいになった。さすが人魚だけあって、牡蠣を簡単に採れるのだなと感心して眺めていたが、青年はまだ不満そうであった。もっと素晴らしい、もっと大きな牡蠣が必要なのだと言う。再度海に潜った青年だったが、やがて喜びの表情で戻ってきた。彼の手には見たことも無い大きな牡蠣があった。
これこそが人魚の青年が求めていた最高の牡蠣だったのだ。
青年は、舟の上に立つと初めて牡蠣の口を開けた。そして、牡蠣を空に高々と掲げた。
すると、天上の満月から、月光が淡く美しい光の帯となって牡蠣の中に吸い込まれるように入っていった。しばらくして光の帯が消えると、青年は牡蠣の中から何かを丁寧に取り出し、手のひらに乗せて私に見せてくれた。
それは、見た事も無い、大きな美しい七色に輝く真珠だった。完全な円形でこれ一個で国が買えるぐらいの価値があると思われた。私が感嘆しつつ眺めていると、人魚の青年はこれでようやく自分は海中に、人魚の仲間の元に戻る事が出来ると言い、私に別れを告げて海に飛び込んだ。
一瞬、私はどうなるのかと思ったがすぐに舟が物凄い速度で動き出した。人魚のおかげで舟はすぐに港に辿り着いた。
もう心配の無い場所に舟を届けると、人魚は少し離れた波間から姿を見せ、大きく手を振ると海中に姿を消した。翌朝、舟いっぱいの牡蠣を見た漁師は大喜びだったが、私から青年はどこかに去ったと聞いて残念がった。そして、それきり二度と人魚の青年の姿は見なかった」
私は、うっとりと溜息をついた。
「今日のはいい話でしたよ。美青年に真珠。今は天然の真珠なんてまずお目にかかれませんからね。しかし、足のある男の人魚なんてのもいるんですねえ」
「当然だ。人魚にも色々いる。だが彼は少し変わり種だったかもしれないな。人間から人魚になったから、地上でも人間のように動く事が出来たのだろう。そういえば人魚はとても長寿な存在だから、彼は今もどこかの海にいるのかもしれない」
何となく、海の中を美女や魚の群れと一緒に自由に泳ぐ美青年を思い浮かべていると、龍之介マスターが真面目な声で話しかけてきた。
「来週のランチは、白身魚とエビと貝のシーフードグラタンにしようと思います」
「いいですね! 牡蠣以外は大好物ですよ!」
私は思い切り笑顔になり、生首は眠たそうに欠伸をした。
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