生首奇譚〜ポメリウム亭にて

高橋志歩

第1話:心臓

 その日の夜。

 私は残業になってしまって、一人暮らしの部屋の最寄り駅(徒歩15分)に着いた時は全ての気力が無くなっていた。お腹が空いた……でももう指一本動かしたくない。


 よし今夜はポメリウム亭で何か食べよう! と決めた私は、横丁5番地に向かって少しだけ急ぎ足で歩き出した。でも途中、街灯の下に立ち止まって財布の中身を確認する。

 ポメリウム亭は現金決済のみなのである。

 よし大丈夫、と顔を上げたら目の前を七色に輝く燐光トンボが横切った。明日は雨かな。


 横丁5番地に辿り着き、路地を入ると正面にポメリウム亭の暖かな明かりが見えた。

 ほっとして、入り口に掛かっている『喫茶お食事 ポメリウム亭』の小さな木製看板を見ながら扉を開ける。

 どこかで「カランコロン」とのどかな音が響き、同時にいい匂いとしか表現できない、漂ってきた。

 店内はテーブルが3つだけ、奥に5人ほどが座れるカウンターがあるけど本当に小ぢんまりとしている。でも木造の床や天井などはレトロな雰囲気でとても落ち着く。


 カウンターを拭いていたらしい店主の龍之介マスターが振り向いた。背の高い、ロマンスグレーの渋いおじ様だ。

 ちなみに何で龍之介マスターと呼ぶかというと、エプロンを着用した胸に「龍之介」という小さな名札を付けているのだ。何かこだわりがあるのかもしれない。

「いらっしゃいませ」

「こんばんはー。一人ですけどテーブル席、いいですか?」

「どうぞ」

 さっさと椅子に座ってほっと息をつく。ああくつろぐ。

「今夜のおすすめ料理は何ですか?」

 龍之介マスターは不愛想ではないが、基本無口なので、こちらが積極的に話しかけねばならない。それにメニューはあるけど、おすすめ料理はマスターの口頭のみでしか知らされない。


「ビーフシチューのセットです」

 やったね私の大好物だ!それにポメリウム亭のシチューはとびきり美味しいのだ。

「ではそれをお願いします! コーヒーは食後に」

 思わず大声で注文してから、龍之介マスターが置いてくれた水を飲んでいると、カウンターから声がした。

「女史、久しぶりだな」

 なんだ、いたのか。


 カウンターの隅に、眠そうな目をした生首がこちらを見ていた。


「生首さん、その女史って呼び方はやめてくださいよ。あと先月も来てますよ」

「女史は言いやすい。それより、私をそっちのテーブルに置いてくれ。カウンターからだと女史が見えにくいし話しにくい」

「えー面倒ですから、今日は遠くからにしてくださいよ」

「私を置いてくれたら、龍之介にレモンシャーベットを付属させるぞ」

 う。ずるい。思わず龍之介マスターの方を伺うと、こちらは見ずに頷いた。つまり了解したから置いてやれ、という意味だ。仕方ない、レモンシャーベットのためだ。

 立ち上がるとカウンターの生首を両手で持ち上げて、テーブルに運んでやった。私は客なのに。


「生首なんだから、空中をふわふわ~と飛ぶとかしてくださいよ」

「私はそういう存在ではない。だがしかし以前山中で出会った生首は、空を飛びながら眩しく黄金色に輝いていたが、あれは疲れるだろうな」

 どんな妖怪だ。


 私はこの生首と割と最近、ポメリウム亭を見つけて2度目の訪問時に知り合った。

 というかカウンター席で昼ご飯を食べている時に、突然話しかけられた。

 びっくりして口からナポリタンスパゲティを吹き出しそうになったけど、龍之介マスターが紹介してくれたのと、本人が穏やかで言葉も丁寧だったので割とすぐに慣れた。


 顔は彫りの深い、鼻が大きくて目も大きいがっちりした感じである。髪の毛も眉も瞳も濃い茶色で、まあまあ美形のおじさんの部類。しかし陰影がくっきりと濃く、どう見ても日本人では無い。

 名前を尋ねたら特に無いので好きに呼べと言われ、面倒なので生首とか生首さんと適当に呼んでいる(生首は私の事を女史と呼ぶ。なんか偉そうなので嫌なのだが、訴えても無視されている)


 彼の大雑把な昔話によると。

 遥か昔の遠い遠い異国の生まれで、色々あって日本に流れ着いた、龍之介マスターとは偶然に知り合ってずっと居候をしている、との事。

 ちなみに日本語は「湯川秀樹という、とても頭の良い男に教わった」……絶対に嘘だ。


 あれこれ思い出していたら、湯気のたつビーフシチューがやって来た。ふかふかのパンと野菜サラダも一緒だ。うーん美味しそう。

 さっそく食べ始めたら、生首も楽しそうな表情で見ている。

 そう、実は生首、他人が飲み食いしている所を見物するのが大好きなのだ。


 本人は一切飲み食いをしないが(呼吸だけはしているそうな)、料理や飲み物には大いに興味があるらしい。

 最初、食べているところを傍で見せてくれと頼まれて、そんな変態ぽい趣味に付き合うのはごめんだ、と断った。でも珍しく龍之介マスターに丁寧に頼まれ、マスターが同席している時ならまあいいですよという事になった。最初は気になったけど、ご褒美でちょっと盛り付けが多くなったり今夜のようにオマケもあるしで、今では慣れっこだ。


 濃厚なデミグラスソースの味と香りとほろほろ柔らかい牛肉を口いっぱいに堪能しつつ、ふと気になって生首に話しかけた。

「生首さんってずっと生首だったんですか? それとも人間だったのに何か事情があって生首になったんですか?」

 切断とか斬首とか生々しい表現は避けつつ聞くと、生首はちょっと考えるような表情をした。何だか頭が良さそうに見える。

「人間だった時期もあったと思うが、その頃の記憶は私の中には無い。私の一番古い記憶は多分メソポタミア文明と呼ばれている時代で、既に胴体は無い状態だったしな」

「えーと。メソポタミア文明ってどれくらい古いんですか?」

「歴史ぐらい頭に入れておけ不勉強者が。ざっと5600年くらい昔だ」

「いやその歴史は苦手なんですけど、それにしても5600年前って……」

 とてつもないホラだけど、生首が真面目に言うとホラにも妙な説得力があるな。と思っていると、生首がちょっと遠い目をしながら不思議な話を始めた。


「そうだな……確かに信じられぬほど昔ではあるな。当時の事で私の記憶にあるのは、やはり煮込み料理を食べている男の姿だ。あれはどこの都市だったのか……煉瓦を積み上げた高い塀の側、夜の暗闇の中で男が焚き火にかけられた鍋の中をゆっくりかき回していた。

 私はもしかしたら、胴体のあった頃は料理を生業とした人間だったのかもしれないな。薪がはぜる音と鍋から漂ってきた奇妙な匂いは思い出せる。だが男の顔は思い出せない……。


 男は、都市から離れた場所に聳え立つ山の頂上に棲んでいた、巨大な蛇を倒した。どれぐらい巨大かというと、とぐろを巻いている蛇の胴体が山頂の岩を覆い隠すぐらい巨大だった。

 男は占星術師から、その蛇を倒し、蛇の心臓を食べ血を飲めばれば今よりも強くなれると言われて、勇んで山に登った。そして何日も昼も夜もなく蛇と闘い、ついに蛇を倒し心臓を持ち帰った。

 男は巨大な蛇の巨大な心臓を切り刻み、鍋で煮込んで食べ、器に注いだ蛇の心臓の血を啜った。

 私は焚き火の側で、それを見ていた。男は胴体が無い私の知り合いで兵士か剣士だったのだろうか。大きな手で匙を握り蛇の心臓を一心に食べていた。


 やがて男は何やら苦しみ出した。椀も匙も放り出し胸をかきむしり、あたりを転げ回ってもがく。しかし私には何も出来ない。ただ見ているだけで、蛇の心臓に毒などあっただろうか? と考えていた。そのうちに男の様子が変わりだした。

 いきなり立ち上がり、空を指差すと、鳥の王が自分を呼んでいる、今すぐに行かねばと叫ぶ。どうやって空の上まで行くのだろうと思ったら、男の見た目が変わり始めた。全身に羽が生え、頭の形が変わり、顔が変わり、嘴から言葉ではなく奇怪な悲鳴が辺りに響いた。そこに立っているのは人間の男ではなく巨大な白い鳥だった。手も足も人間ではなく鳥のかぎ爪だった。

 鳥になった男は、鳴き声を上げながら走り出し暗闇に消えた。しばらくして、鳥の羽ばたきが頭上で響いた。きっと男はそのまま鳥の王の元に飛び去ったのだろう。その後、男がどうなったのか私はどうしたのかは記憶に無い」


 私はシチューを食べ終え、コーヒーを飲み、冷たく甘酸っぱいレモンシャーベットを食べながら生首の長い物語を聞いていた。

「はあ、不思議な話ですねえ。でも蛇の心臓を食べて蛇になるならわかりますけど、鳥になったというのが妙じゃないですか?」

「そんな事はない。あの時代は、蛇も鳥もさほど変わらず天と地を行き来していた存在だった……」

 珍しく長く喋ったせいか、生首はひどく眠そうでやがて眼を閉じて眠ってしまった。


 仕方なく、また生首を両手で持ち上げて、カウンターに運んでそっと置いてやった。龍之介マスターにご馳走様を言い、料金を支払うとポメリウム亭の外に出た。

 帰ってシャワーを浴びてから、ネットの電子図書館でメソポタミア文明の事を調べてみようかな、と思いつつ私は横丁5番地の路地を歩いた。

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