本の虫
犬蓼
本の虫
誰にでも黒歴史はある。
多かれ少なかれ、それはその後の人生に影響を及ぼすようなものでありながら長い人生における一端でしかない。
しかし、誰もがその黒歴史の真っ只中にいる時、尋常ならざる行動力と想像力を発揮しているのではないか…と振り返る立場になって思う。私にとっての黒歴史もそのようなものだった。
だからこれは本来恥ずべき黒歴史を前面に押し出したような、恥も外聞もないような、そんな小話になるのだけれど。
「本の虫!」
唐突に私自身が忘れかけていたようなあだ名で呼ばれた。しかし誰が…職場で私の過去のあだ名を知っている人なんていない…。
訝しんで顔を上げると、
「えー…どちら様ですか?」
「俺だよ、吉岡!」
…驚いた、学生自分から何も変わっていない顔がそこにはあった。
変わらない童顔、何となくサイズがあってないスーツ、…彼は吉岡…なんとか。下の名前は忘れたというか覚えていない。クラスメイトだったのは間違いない。
「木内だろ?変わんねーな!」
「…吉岡君ほどじゃないけれどね」
というかよく私のことなど覚えていたものだ。彼とクラスメイトだった高校時代、私は暗黒期で黒歴史だった。クラスでも一番存在感なくて浮くに浮いていたのに…いや、だからか。
「ところで何か用だったんじゃ?」
そもそも彼はこの会社の社員ではない。
「外回りであっちこっち会社回ってんだよ」
彼が指さす方には、彼の上司と思しき男性が課長と話していた。こんなところで話しててもいいのか少し心配になる。
「それより、木内、まだ本の虫なのか?」
「そのあだ名やめてくれない?」
いい思い出ではない。…しかし、そう呼ばれたことで望むと望まざるとに関わらず思い出される、黒歴史。
「悪い悪い、でもなんか懐かしいよな。
あれもそう、こんな残暑の時分で」
…そう、あれは夏も終わりかけの高校時代。
私の名前は木内 好(このみ)。
本にしか興味なくて活字しか信じてなくて学校での居場所は図書室。当たり前みたいに図書委員。自己紹介はこんな感じ。
「じゃあ木内さん、お願いね」
図書の先生にいつもみたく当番を頼まれ、一人になる。
深呼吸…。
どこか仄かに甘いような本の香りを感じながらゆっくり目を閉じる。活字が重量をもって圧し掛かってくるような錯覚。
「なわけないけどね」
目を開け、手元の本に目を落とす。
中学から根暗だった私は、高校に入ってからすっかり孤立して、本と友達になった。
元々、本は好きだった。
現実じゃありえないようなことも本の中では起こりうる。書物毎に空想の世界に遊ぶ、ここにいながらにしてあらゆる場所に行ける。
「………」
特等席は図書室の受付。
特に立候補したわけではないけれど、気が付いたら図書委員になっていた。ほとんど図書室に住んでいるような私にとっては都合がよかったけれど、きっと皆がやりたくなかったんだろうなとは思う。
…それでそう、空想の話。
こうして本に囲まれて暮らす内、私には活字に重みを感じるようになっていた。重みと言うか、存在感と言うか。
私から見ると沢山の本で埋まった書棚は、さしずめ高密度のレンガの壁かのようで。
活字に、それ一つ一つに重量と存在感があるようで。
なので本一冊とってもそれは重く感じて、机に広げて読むようになった。図鑑とかすごく重く感じるんだろうなーとか呑気に考える。
図書室は、活字の森だ。
幾重にも活字が折り重なって重厚な厚みを持ち、どんな風雨でも微動だにしない重量がある。
物語はさしずめ木々の枝葉。
その度合いによって人の心を撫でもすれば刺しもする。
濫読家なので何でも読んだけれど、現実から離れれば離れる話程惹かれた。
「………そうだ」
そして私は思いつく。当然の帰結と言ってもいいかもしれない。
活字に埋もれた時に一体どんな景色が見えるのだろうと。
「あれはすごかったな、あの一件で木内知らない奴いなくなったぜ」
「…そうだったんだ」
私の知らない所で私は有名人になっていたらしい。
「担任の三山覚えてるか?あいつ、柄にもなく真っ青になって図書室走ってたんだぜ」
「…まぁね、担当してる生徒があんなことになればね」
思い立ったら行動は早かった。
私はおもむろに立ち上がると本棚から本を取り出す。
抱えられる限界まで抱えると、図書室の中央の机の周りに並べていく。これをひたすら繰り返した。途中、本を読みに来た生徒もいたけれど逃げ出していった。
「…はぁ、はぁ」
息は上がってすごく暑い、けど止めない。
その内、机を囲うように幾重にも重なった本の壁が出来上がった。
ここらで邪魔されるのも嫌なので図書室の入り口にも鍵を掛ける。
好奇心と興奮で頭から爪先まで暑い。
本で囲った机の上に本を広げて置いていく。
活字で机が埋め尽くされていく。
壁の内側にも本を広げて積んでいく。
「木内!開けなさい!」
担任の三山先生の声と、ドアを叩く音がした。当然無視する。
活字の壁も出来上がった。
私はゆっくりと本の上に横になると、足元から本を広げて置いていく。
思っていたよりずっと重い、重量だけじゃなく囲まれた本の壁の中では息苦しささえ感じる。
最後に、本を広げて顔の上に置いた。
これはそう、海だ。
活字の海。しっかりと質量をもって、身にまとわりついてくる活字の群れ。
息をすることすら忘れる。
私は静かに目を閉じ、意識を…。
「図書館立てこもりなんてそうそういないだろうな」
「そうだね」
…今となっては完全に黒歴史なんだけれど。でも、あの時の活字に浮いているような感覚は今でも忘れられないでいる。
完
本の虫 犬蓼 @komezou
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