最終話
「ねえ、弓子さん、最近、まこと君って体つきが変わってきたよね」
「そうね、顔つきとかも」
そう、まり江さんと弓子さんが言っている声が聞こえてきた。実際、俺はバレエスクールの日を週に二回にし、自宅練習もするようになって、三か月がたっていた。春にこのスクールに入って、今はもう秋だった。
さいきん、よくとしゆきさんが俺に話しかけるようになった。といっても、調子はどうだ、とか、技のコツとかを少し教えてくれるくらいだが。
最近、俺は自分がよく分からない。
(俺、なんでこんなにバレエに打ち込んでんだ?)
踊っても踊っても、到達点なんてない。
二十歳の春から初めて、半年あまり。
初心者もいいところ。へたくそだし。
なのに、踊る事に執念といっていいほど、執着している。
「まこと」
その時、としゆきさんが俺に話しかけた。
「なんですか?」
「この秋にパリ・オペラ座バレエ団が日本に来るそうだ。「海賊」をやるらしい」
「パリ・オペラ座バレエ団?」
「世界の三大バレエ団の一つだ。興味があったら見に行ってみればいい」
そう言って、レッスンバーの方へ行ってしまった。
まり江さんはパリ・オペラ座バレエ団のことを知っているか、聞いてみた。行くのなら誘おうと思った。
「知ってるけど、行かない。私はバレエは本当に趣味でやってるの。スタイルがよくなればいいって。だけど、弓子さんやとしゆきさんは何か、違うわね。少しそういうのついていけないところがあるわ。あ、これ二人には言わないでね。尊敬してるのも確かだから。でもね、私はまこともそっち側の人だと思うの」
まり江さんは真面目な顔をして言った。
「バレエに何か、求めているみたい」
俺にはまり江さんが何を言っているのか、よく分からなかった。
結局俺はパリ・オペラ座バレエ団の公演を見に行った。世界三大バレエの一つだというから、チケットの争奪戦は言わずもがな。結局取れなくて、玉枝先生に泣きごとを言ったら、特別に一枚、用意してくれた。玉枝先生は俺が思っていたよりもすごい先生だったらしい。
バレエは台詞がないので、よくわからないところもあると思ったから「海賊」のあらすじをインターネットで調べた。
遭難して浜辺に打ち上げられた海賊の首領、コンラッドを助ける美女メド―ラ。メド―ラはコンラッドを助けた後、すぐに奴隷商人につかまって奴隷として売られてしまう。それをコンラッドが助ける、大体そういう流れだ。
開演日がせまってくると、俺はなんだかわくわくしてきた。どうやら期待しているらしい。我ながら自分の事が自分でよく分からない。
そして実際、公演を見て、女性ダンサーの体のしなやかさに感動し、男性ダンサーの筋肉の強靭さに感嘆した。バレエダンサーは踊りながら「海賊」という演目を演技していた。
ああ、バレエは舞台だったんだ、と改めて気がついた。なんせバレエの公演を見たのは初めてだからだ。
俺が発表会で踊った、奴隷のアリのソロもあった。自然と自分とくらべてしまう。比べるべくもないのだが、力強いのは一緒だった。しかし、繰り出される、高度な技に息をするのも忘れるくらいだ。ジャンプが高い。回転がはやい。何周もするピルエット、高速すぎて、何回まわったのか、分からない。
女性の踊りはなんてしなやかなんだろう。手の先からつま先まで、女性美にあふれている。なんて綺麗なんだろう。
最後はコンラッドがメド―ラを海賊船に乗せて、新しい航海へ出発するというものだった。
公演が終わった。バレエの最高峰の高みを見た。
俺は、自然と涙を流していた。
ああ、そうか。俺はバレエが好きだったんだ。籐太と一緒に西野バレエスクールに見学にきた時から。あの、エレベーターの扉が開いた瞬間に、俺は確かに感じていたはずだ。
俗物とは違う、神聖な何かを。
きつい練習、筋肉を作るための体作り、それは踊っているかぎり終わることがない。でもその厳しい世界が作り出す、美しい幻想に惹かれた。
いまなら桑原大地に言われた事の答えが分かる。
「バレエが好きだから踊っている」
と。
あの時は練習もそこそこでお遊びに踊っていた。
だから答えられなかった。
今はバレエの魅力に動かされて日々体を鍛錬している。
だから答えられる。
でも、レッスンしても体を作っても、本当に終わる事のない道だ。
ましてや二十歳から始めた、ずぶの素人。いくらレッスンしようが、プロになんてなれないし、そんなことを考えるのもおこがましいと思う。
それでも舞台に立ちたいと思う。以前、としゆきさんが言っていた言葉を思い出した。あれは発表会が開かれる少し前のことだ。
『俺はこの為に踊ってきたんだ。それを見せなくてどうするんだ。大人から始めたバレエダンサーが踊れる場所はここしかない』
無名の、本当に無名のバレエダンサー。だけど、本当にバレエを愛している。
どうしてもっと早く気がつかなかったのか。
一度辞めてもまた帰ってきた弓子さん。
一心不乱に練習をするとしゆきさん。
今なら、何がとしゆきさんを突き動かしていたのか、分かる。しいていえば、陳腐な言葉だが、バレエにたいする情熱だ。それに気がつくと、俺はいてもたってもいられなくなった。そして、それを誰かに伝えたくて、初めにバレエを教えてくれた籐太に電話した。
「籐太か? まことだ。俺、バレエが好きだ」
「は? 何だよ、いきなり。わけ分かんない奴だな」
「今日、気がついたんだ。バレエってものを教えてくれてありがとな」
「なんだか知らないが、お前、初めから好きなんじゃないかと思ってたよ。だってあんなに厳しいレッスンでもお前は辞めなかったじゃないか」
「そうか」
「そうだよ」
「じゃあな」
かなり一方的に満足して、電話を切った。
俺は仕事を持っても、バレエを続けようと思った。そしてできるかぎり、発表会という舞台に立って、踊り続けようと思う。
了
無名のバレエダンサー 陽麻 @urutoramarin
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