私は振ったから

うたた寝

第1話


 私は彼のことを振った。しかし、じゃあ彼のことを嫌いだったのか、と聞かれれば、そんなことはない。むしろ好意的に思ってさえいた。

 普段から気にかけてくれ、困った時には助けてくれる優しい先輩。好意を持つには十分な理由であったが、恋愛感情となれば話は別。そういう対象として意識したことなど一度も無かった、というのが正直なところだ。

 どことなく、彼からの好意には気付いていたが、私は気付かないフリをし続けた。断言できるほどしっかりと感じていたわけではない。だが、どこか明らかに他の後輩よりも気にかけてくれていそうな雰囲気はあった。

 それが女性としての好意なのか、後輩として純粋に可愛がってくれているのか、そこが私には分からなかった。後者であれば純粋に嬉しい。だがもし前者であれば、正直ちょっと嫌だな、とさえ思った。

 気にかけてくれていたことも、困った時に助けてくれていたことも、事実ではある。だが、全部、どこか下心があってのことなのか、と思ってしまうと、どこか素直に感謝できなくなった。

 好きだから優しくしてくれていた、それが悪い、とまで言う気は無い。好きな人に優しくしたくなるのは自然のことだとさえ思う。だけどどこか、この先輩は自分のことを女として見ているのか、と思うと落ち着かない部分があった。

 自分に対して向けられている好意が恋愛対象としての好意であれば、もし仮に私が彼のことを振った時に、今まで自分に向けられていた優しさは無くなってしまうのではないか。いや、無くなるだけならまだいい。自分のことを振った相手に対して態度が急変する可能性さえあり得る。

『好きだから優しくしていた』、『付き合えるかもしれないから優しくしていた』のであれば、当然、振られた後まで相手に優しくする必要は無いと言える。そこまで露骨に変えるようなことは無かったとしても、振られた相手とその後同じように接するのは無理であろう。

 私は後輩。会社内の立場は彼より弱い。もしこの立場を利用して交際でも迫られたら……、とそんな風に悪い予感も頭を過った。そうでなくても、先輩からの告白を振っても大丈夫なのか、という不安がある。

 社内恋愛。社会人になる前はどこか憧れさえあった言葉の響きだが、いざ自分に降りかかると気が重たい、とさえ思う。

 だから私は、彼に対して、何とも思っていません、という素振りを見せた。もし本当に私のことを好きで居てくれているのであれば少々酷なことにも思えたが、告白できないような雰囲気を作っておきたかった。

 私の勘違いであればそれでいい。単純に後輩として可愛がってくれているだけなのであればそれでもいい。だがもし、女性としての好意を向けられているのであれば、私はあなたを男性としては見ていません、と敬遠しておきたかった。

 結果としては前述の通り、私は彼に告白されているわけだが、しかし、私のこの素振りに効果が無かったのか、は分からない。

 というのも、彼が私に告白してくれたのは、彼が退職すると決まった後の日だったからだ。

 彼自身、どことなく私のその素振りを感じていたようで、告白に対しても自信は無さそうであった。ただ退職して居なくなる前に、と勇気を出して伝えてくれたのだろう。

 嫌な女だな、と自分でも思ったのは、彼が居なくなる、と聞いた時にちょっとほっとしたところだった。今まで散々仕事でお世話になっていたにも関わらず、退職の話を聞いた時、私は悲しむより先に安堵した。

 告白されるのもどことなく想像の範囲内だった。されるだろうな、って何となく思ってはいた。話がある、と言われた時に内容は察していた。

 予想通りの告白ではあった。だが、一つだけ思っていた想定と違ったのは、彼がもう先輩社員ではなくなる、ということ。

 まさかそのためだけに会社を辞めたわけではないだろうが、もう同じ会社の人間ではない、ということが、どこか私の心を揺さぶった。どこかで、同じ会社の人間とそういう関係になることに抵抗があったのかもしれない。

 彼がずっと私のことを気にかけてくれていたのは事実だ。辛い時もあったが、彼の声掛けがあったからこそ乗り越えられていた時期もある。彼の気遣いは間違いなく嬉しくもあった。それは事実だ。

 どう振ろうか、なんて告白される前から失礼なことに考えていた私ではあったが、思ったよりもずっと返事に迷った。振るのか? 本当に? なんて迷いが出てきた。彼がとても優しい人だということは実務を通してよく知っている。いい人なのだ。間違いなく。

 思ったように言葉こそ出てこなかったが、結果はご存じの通り、私は彼を振っている。

 これがもし、学生時代にされた告白であれば、私は付き合っていたのかもしれない。学生時代からの気軽な恋愛であれば、深く考えずに付き合ったのかもしれない。けど、社会人としての恋愛はどこかその先にある『結婚』を意識させた。

 私はこの人と結婚したいのだろうか? この人の子供を産みたいのだろうか? この人と一緒に生きていきたいのだろうか? そんなことを考え始めた時、彼と一緒に居る将来というものがどこか想像できず、そこが不安だった。

 考えすぎ、だったのかもしれない。もう少し気軽に付き合ってみても良かったのかもしれない。あれからもう何年か経ったが時より思うのは、あの時振らずに付き合っていたら今頃どうなっていたのだろう、ということだ。

 痣になっている自分の頬をそっと撫でる。

 どこか重たいとさえ感じた彼の想い。それが今となっては懐かしく、ありがたかったものだとさえ思う。

 彼を振った後、彼から向けられていた好意がどこか忘れられず、そのせいかずっと落ち着かず、私はそれを忘れたいかのようにマッチングアプリを始めた。振られた側が始めるのはともかく、振った側が始めるのは珍しいような気もしたが、動機は同じだ。胸につっかえているこの気持ちを何かで上書きしたかった。それには好きな人を作るのが一番な気がした。

 失礼なことを言うようではあるが、彼よりカッコいい人なんていくらでも居た。彼よりオシャレな人もいくらでも居た。

 顔写真やプロフィールを見て、いいなと思った人にはいいねを押したりもした。色んな男性とメッセージのやり取りもした。通話をしたりもした。デートもしたし、短い間ではあるが交際したりもした。

 忘れるために始めたはずのマッチングアプリだったがどういうわけか、やっている最中に何度も彼のことを思い出した。

 色んな男性と話してみて初めて分かった。彼がどれほど自分のことを好きで居てくれたのかが。付き合いの長さが違うのだ。比較するのも公平ではないところではあるが、どことなく本気と感じきれない男性たちの熱量を感じるたびに、彼が向けてくれていた熱量を思い出した。本当に自分のことを好きで居てくれたんだな、とよく分かった。

 思い出をどこか美化しているのかもしれない。否定はできない。だがどこかでずっと思っている。彼ならもっと大事にしてくれたのかな? と。頬を撫でるたびに伝わってくる痛みにそう思わずにはいられない。

 この痛みはきっと罰なのだ。相手が悪くない、とは言わない。だけど、自分が悪くない、とも言わない。彼から向けられていた好意よりも強い好意が欲しくてそれを強くねだった。自分はそれほど強い好意を相手に向けていなかったにも関わらず。

 どこか自棄のように色んな男性と会っていたが、この痛みで目が覚めたような気さえする。

 あの日、無理をしたわけでもない。今でも、彼に対して恋愛感情を持っているのか、と言われるとそれは分からない。だが、何となく分かるのは、私のことを一番好きになってくれていた人を振った、ということだ。

 一番好きで居てくれて、一番優しくしてくれて、一番大事にしてくれた人。自分のことをあれほど好きになってくれる人などこの先現れないのではないか、そんな気がする。

 自分が好きになれる人と付き合う。もちろん。正しいと思う。だが一方で、自分を好きになってくれる人と付き合う。それもきっと間違いではないのだろう。

 メッセージを数回やり取りしただけで音信普通になっていった男性たちを見ていても思う。自分を好きになってくれる人、というのはとても貴重なのだ。その人と出会った時にどうするのか。想いを伝えられた時にどうするのか。その時、その解答には気を付けた方がいい。

 彼ともし付き合っていたらどうなっていたのか? そんなのはたらればの話だ。考えたところで意味など無いし、確かなことなど分かりはしない。

 ただ一つ確かなことがあるのだとしたら、私は彼を振ったということ。それだけだ。

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