6.誓約

「アレク、逃げて」

 自分たちの何十倍もある魔物へと剣を構え、冷静にそう告げたフィルの低い声を、アレックスは一生忘れないだろう。動けなくなった自分を庇おうとする小さな背中も、魔物の爪によって、赤く染まっていく彼女の姿も――。



 その日、アレックスはフィルと一緒に湖の東にある森にいた。木苺がなる秘密の林を目指しながら、「じゃあ、明日のおやつは木苺のパイかな」とアレックスが話し、「木苺の?」と聞いてきたフィルにその説明をして。

 

 突如木々の暗がりから、ザザッという大きな音が響いた。小動物では有り得ない音に首を傾げたアレックスとは対照的に、フィルは目を見開き、音を立ててそちらへと向き直った。

「なんでここに……」

 呆然としたフィルの呟きをかき消すように、地面に降り積もった枝葉や土を左右に散らしながら姿を現したのは、巨大なヒュドラ――蛇のような下半身と人のような上半身を持った残忍な魔物だった。

 黒で塗りつぶされた大きな目と、耳まで裂けた、どす黒い大きな口と緑色の舌、そこにむき出しになった牙。腕の先では、猛禽類のものと見紛うような鋭く大きな爪が鈍く光を反射して、ひどく禍々しい。

 それはフィルとアレックスに目に留めると、黒い空ろな目と大きな口を、弧を描くように歪ませて笑った。その邪悪さと馬数頭分ほどの威圧感、身から漂ってくる腐臭に圧倒されて、アレックスは本能的に死を感じ、凍りついた。

 その自分に向かってヒュドラの鋭利な爪が、容赦なく振り下ろされる。

「っ」

 右肩に焼け付くような痛みを覚えて、目の前が白く染まった気がした。

 

 だが、それだけだった。

 回復した視界に映ったのは、斜め前にいるフィルの小さな身体。そこから伸びた彼女の腕が自分へと向いていて、自分の体の下からは草の葉が潰れる匂いが、血臭に混ざって漂ってくる。それでフィルが自分を突き飛ばしたのだと理解した。

 そのままフィルは、森に入る時いつも持ち歩いている細身の剣を抜き、倒れているアレックスとヒュドラの間へと移動した。

 

「アレク、逃げて」

 ひどく冷静な声だった。けれど、顔色はいつになく青白かった。

「っ、ゴホっ」

 緊張と恐怖のせいだろう、最悪としか言いようのないタイミングで発作が起きた。咳込んでうずくまったアレックスを見、フィルはさらに顔を青くした。


 ヒュドラが長い手を振り下ろす。フィルは目を眇めながら、その爪を剣で柔らかく弾き、飛び後退った。頭上へと向けられた次の一撃を紙一重で交わすと、挑発するように間合いギリギリのところでヒュドラに相対する。そうして、フィルはヒュドラを誘導し、まともに動けなくなったアレックスから、徐々に遠ざけていった。

 素早い身のこなしで致命傷こそ負わないものの、彼女の全身は次第にヒュドラの爪に切り裂かれていき、あちこちから血が滲み始めた。

 対するヒュドラの身体にも傷が増えていく。簡単に仕留めるつもりだったのだろう人間の子供に、思わぬ傷を負わされているせいか、徐々にヒュドラの動きが荒くなる。

「フィ、逃げ、も、いいっ」

(お願いだから、一人で逃げて――)

 咳による涙で滲む視界の向こう、苛立たしげに顔を歪めたヒュドラが鎌首をもたげ、先ほどまでとは比べ物にならない勢いでフィルに食らいつく光景は、悪夢そのものだった。

 

「に、げてっ」

 そう叫んだアレックスの前で、だがフィルは逃げることもかわすこともなく、逆に正面へと踏み込んだ。大きく跳んで、ヒュドラの額に両手で握った剣を突き刺す。

 勢いよく突っ込んできた魔物の頭に、フィルの身体が剣から離れて後方へ吹き飛んだ。体を木の幹に打ち付け、そのまま動きを止めてしまったフィルへと、額に剣を生やしたヒュドラがずりずりと近づいていく。

「っ」

 その光景に全身からはっきり血の気が引いた。

 

(嫌だ、フィルがいなくなってしまうのは、絶対に嫌だ……っ)

「……フィ……ルっ」

 アレックスは喘鳴の合間に声を絞り出すと、何とか立ち上がり、震える手で手元の枝をヒュドラへと投げつけた。

「こ、ちだ……っ」

 思惑通りヒュドラがこちらをゆっくりと振り向く。ヒュドラの気を引いて、自分がそれでどうにか出来るなどとは全く思っていなかった。ただ必死だった。

 額から流れ落ちる緑の液体が、先ほど恐ろしくて仕方の無かった黒い瞳を覆っている。アレックスはぜいぜいと音を立てて肩で息をしながら、近づいてくるヒュドラを睨み、これから襲ってくるだろう痛みを覚悟した。

 目の前まで来たその魔物は、アレックスへと傾ぐ。そして、そのまま地響きのような音を立て、大きな頭を地面へと落とした。数度痙攣した後、完全に動きを止める。

 

「っ!」

 アレックスはよろめきながら魔物の死骸をよけ、フィルに走り寄ると、彼女の体を抱え起こした。そして一際深い額の傷から噴出した血で真っ赤に染まったフィルの顔に、衝撃を受けた。一切の身動きをしない彼女の様子に、死んでしまったのかと思って、目の前が真っ暗になる。

「……フィ、ルっ、目、開、けてっ」

 声を必死で絞り出すと、思いが通じたのか、フィルは目をわずかに開いてこちらを見た。安堵でどうにかなりそうになった瞬間。

「アレクは平気?」

 フィルから逆に問いかけられた言葉に、涙が零れ出た。胸を震わせながら何度も頷くと、フィルはにこりと笑ってそのまま意識を失う。

「フィルっ!!」

 

 必死でフィルを背負い、なんとか歩き始めたことは覚えているが、その後どうやって別荘に辿り着いたかはわからない。ただ、ほとんど運動したことのない自分が咳き込みながらであっても担げるフィルの軽さがとても悲しくて、自分がひたすら情けなかった。



* * *



 人の気配に目が覚めた。

「……」

 薄目を横に向ければ、ナイトテーブルに灯されたろうそくの明かりに、ベッド脇に座る人の姿がぼんやりと浮かび上がっている。

「気が付いたかね? 具合はど――」

「っ、フィルっ」

 意識の覚醒と同時に叫び、跳ね起きたアレックスに、その人は穏やかに微笑むと、「あれは大丈夫だ」と答えてくれた。

 不思議な人だった。白い髪、白い髭、皺の寄った顔、身を起こしたアレックスを支えてくれる年季の入ったごつい手は、確かに老人のものなのに、視線の強さも、凛と伸びた背筋も、正確な物腰も若者のもののようだった。そして、こちらの内側を見透かすかのような深い緑の目――それに見覚えがあった。

(フィルとそっくり、だ……)

「ごめんなさい」

 そう呟いてアレックスは一粒だけ、涙を零した。

 アレックスは何一つフィルの為に出来なかった。自分が負ったのは、最初に奇襲された時の右肩のかすり傷だけ。その場所に大げさに包帯がまかれていることに気付いて、余計に情けなくなる。

 けれど、そのまま泣き続けるのも卑怯な気がして、全身を震わせながら堪えていると、ザルアナック老伯爵は「あれが望んでしたことだ。君をどうしても守りたかったのだろう」と穏やかに笑って、頭を撫でてくれた。

「のぞんで……」

(フィルが望んでくれた? 守りたいと……?)

 胸の中に、甘いのにひどく苦い、不思議な感覚が広がっていく。

(じゃあ、僕は? 僕もフィルを守りたいと思うのに――)


 夏の終わりともなると、夜は冷え込む。暖炉にくべられた薪がはぜる音が、沈黙の落ちた室内に大きく響いた。夜が更けて強さを増したらしい風が、窓を揺らす。

 その音を聞きながら、アレックスは拳が白くなるまでシーツを握り締めた。

(フィルと一緒にいたい、でも、このままじゃ……)

「強くなりたい、です」

 フィルとずっと一緒にいる、そのために――。


 そう声にしてから、アレックスは恐る恐る老伯爵を見上げた。

 出来るわけがないと笑われると半分覚悟していたのに、フィルの育ての親であるその人は、アレックスに向かって子供のように破顔した。

 それから、優しく頭を撫でてくれていたその手を一際乱暴にして、アレックスの黒い髪をぼさぼさにすると、彼はおもむろに立ち上がって、寝台脇の机へと歩み寄った。そして、さらさらと紙に何事かを書き付け、封筒に入れた。

 その彼に「アレクサンダー」と名を呼ばれ、アレックスはもう一度、フィルにそっくりな彼の瞳と目線を合わせた。

「これを騎士団のルーク・ポトマックに渡しなさい。私が知る限りで、彼は一番優秀な君の師となってくれるだろう」



* * *



 秋の始まり。湖畔から漂ってくる薄霧の中、紅葉が始まりつつある森を抜けると、フィルが話していた通りの温かい雰囲気の屋敷が姿を現した。

 フィルが知らないと言っていた木苺のパイを見舞い品に扉をノックし、アレックスは十分回復したという彼女を訪ねる。

「来年も来る?」

 別れを告げられて泣きそうな顔でそう尋ねてきたフィルに、喉元まで「すぐに会いに来る」という言葉がせりあがった。

 けれど、まだベッドの中にいる彼女の額に、まだ癒えきっていない傷を認めて、それを飲み込んだ。そして身体も良くなってきたし、しばらくここには来られない、と身が切り裂かれるような思いで告げた。

「また会える? ねえ、また会える、アレク?」

 ポタポタと涙を零し始めたフィルに、心が軋んで声が掠れた。

「いつか会える、よ。必ず……必ずフィルのいるところに行く」


 フィルを守れるようになって必ず会いに行くから、それまで待っていて。

 そうしたら、その先、ずっと、ずっと一緒にいよう――。


 そう誓いながら、泣いたまま抱きついてくるフィルをありったけの力で抱きしめ返した。

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そして君は前を向く ユキノト @yukinoto

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