5.白紙
目が合うと嬉しい。フィルが笑うと自分も幸せになる。抱きしめる感動も、抱きしめられる感動も家族のとは全然違う。フィルがくれる「大好き」という言葉に、泣きたくなるくらい嬉しくなる。
一緒にいられる時間が本当に特別で、アレックスは一緒にいる時もいない時もずっとフィルのことを考えるようになっていった。
高原の短い夏は、そうしてあっという間に過ぎていく。
その日、アレックスとフィルは湖畔の森の中でお弁当を食べて、釣りをするための場所を探していた。
「フィル、あっちで今鱒が跳ねて……って寝てる」
少し休もうと座っていた岩の陰で、フィルはすうすう寝息を立てながら眠っていた。
いつも剣の練習をしてから遊びに来ているせいか、フィルは時々遊び疲れた猫の子のようにいきなりくたんと眠りに落ちる。そうなると絶対にしばらく起きない。頬をつついても全然。むにゃむにゃと何事か呟いて、岩にもたれたまま寝入るフィルに思わず笑いを零してから、アレックスはその横に座った。
「もう八月か……」
湖面を渡ってきて、自分とフィルを撫でていく風は、相変わらず爽やかだけど、時折冷たい筋が混ざるようになっていた。その風と木漏れ日を今こうして受けている自分が、ふとひどく不思議な気がした。
ベッドにいる時間のほうが圧倒的に長かった半年前が、本当に嘘のようだ。喘息の発作は今でも時々起きるけれど、頻度も程度も大分軽くなったし、熱だって出るけれど、動けなくなるほどじゃない。
(気にしているようには見えないんだけどな……)
それにフィルはアレックスの体調が悪い時は、別荘の周りからあまり離れない。実は今日もそうだ。外出を禁止されるのが嫌で普通にしてみせているけれど、多分軽く熱がある。侍女ですら気付かないようにふるまっているのに、フィルはいきなり「今日は釣りにしよう」と言い出し、木陰がいっぱいのこのあたりにアレックスを連れてきた。それが不思議と言えば不思議だ。
少しだけ強まった風が水面に小さな小波を立て、その水紋がゆっくりと広がっていく。
(あと一月もしないうちにカザレナに帰らなくてはいけない。つまりフィルと会えなくなる)
「……」
アレックスは、フィルの寝顔を見つめて、眉根を寄せた。家族には会いたい。でも、フィルと離れたくない。
(フィルはカザレナに戻ってこないのかな? そうすればずっと一緒にいられるのに。ああ、でもフィルに宮殿とか似合わないな)
ドレスを着て王宮を楚々と歩く、同じ年頃の少女たちを思い浮かべて、アレックスはくすりと笑い声を漏らした。フィルは絶対に廊下を走るだろうし、ドレスだって嫌がりそうだ。作り笑いだって絶対にしないし、宮殿の木や壁に登ったら、怒られるどころじゃすまないだろう。魔物の卵なんて持ち込んだら大騒ぎだ。
(でもきっと楽しい。だってフィルが側にいるだけで毎日が特別になる)
「……ん」
風で舞い上がった金色の横髪が顔にかかった。くすぐったかったのだろう、フィルが身じろいだ。それをはらってやって、アレックスはそのままフィルのあどけない顔に見入った。
(大事な、大事なフィル。ずっと一緒にいたい……)
「……」
意識が吸い寄せられ、顔が近づく。
(誰より愛しい人だ。フィルの側にいるのは、ずっと自分でありたい――)
「……」
血色のいい頬、桜色の唇――頬にするつもりだったキスは、突然湧き上がってきた衝動に予定を狂わせた。唇で同じ場所に触れ、その感触に頭を痺れさせる。
「フィル」
顔を離してフィルを再び見つめていたら、自然と彼女の名を口にしていた。零れ落ちたその声が、自分のものではないかのような特異な響きを持って耳に届き……アレックスはふと蒼褪めた。
「……」
(ひょっとしなくても、ものすごくいけないことをした気がする……)
「ん……」
「っ」
「……あれ、アレク? ごめん、寝ちゃってた」
「ごめんは、僕の方……」
「?」
不思議そうに首を捻るフィルの前で、アレックスは「ああ、もう、本当にごめん」と顔を覆うとうなだれた。
「アレク?」
そんなアレックスの顔をフィルが覗き込んできて、胸が詰まった。ああ、本当にフィルが好きなんだ、そう実感してしまう。
「その、勝手に触った、ええと、くちびる、に」
「キス? それが何? 爺さまと婆さまもしてるよ、仲良しだし。私もしていい?」
「い、いや、ちょっと待って……」
目を瞬かせた後、何でもないことのようににこりと笑うフィルに、アレックスは顔を引きつらせる。全然わかってないと悟って、色々な意味でさらに凹んだ。
「その、いつか時が来たら、全部含めてちゃんと話すから」
「うん?」
「それでもう一度謝ってやり直すから……それまで待っていて」
「? アレクがそう言うなら?」
そう決意を込めて告げれば、フィルは首を軽く傾げた。
相変わらず不思議そうにしていた彼女は、小さく笑うと、アレックスに抱きついてきた。そして腕の中でふふと可愛く笑い声を立てる。
「……」
ぎゅっと眉根を寄せ、その体を抱きしめ返した後、アレックスは苦笑を零した。
空は青く高く澄み、ザルア山脈の頂に残る万年雪が日差しに輝く。森には、子育てに忙しい鳥たちのさえずり声がにぎやかに響いていた。
ずっと一緒にいたい、心の底からそう願っていた。
いつかそうなると信じてもいたのに、そんな未来を望めなくなったのは、他ならぬアレックス自身のせいだった。
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