第54話 真実
飲み込まれた闇の中は、
暑くもなければ寒くもない。足元はふわふわとしていて重力を感じない。
(……ここは?)
うねりながら渦巻く潮が、鋭利な刃物で
(リル!)
リオネルだった。現在の姿ではない。
十歳の子供だった頃の「リル」だ。
(前世で最後に会った時のリルだわ!)
リオネルは牢に投獄されたジュリエットに会いに来てくれた時と同じ服装だったが、あの時よりもずっと
小さな顔は汚れ、服は破れ、髪は荒れている。思わず駆け寄って抱きしめたくなるほど、リオネルはボロボロに
しかしアイスブルーの双眸は鬼気せまり、幼い子供なのに誰も寄せ付けないような凄みに満ちていた。
(──っ!)
寸時。アンジェラが身をすくめたのは、炎の気配を感じたからだった。
窓のない閉ざされた禁室にさえ、外の激しい喧騒が伝わってくる。
この火の匂いを、民衆の熱狂を、アンジェラはよく知っていた。
ジュリエットを焼き殺した──あの日の炎だ。
幼いリオネルは苦しそうに顔を歪めたが、振り返りはしなかった。彼はまっすぐに両手をかざし、闇色をした本と対峙した。
リオネルが何か呪文のような言葉を詠唱すると、鎖はにわかに鳴動し、錠は音を立てて外れた。
リオネルが何と言ったのか、アンジェラにはわからなかった。コライユ王国の言葉でもなければサフィール帝国の言語とも違う。
(王家の血を引く人間にだけ口承で伝えられる国家機密がいくつかあると聞いたことがあるけれど……その一つなのかしら?)
リオネルは両手を前に突き出したままだった。ぎゅっとにぎりしめた右手の指が開くと、そこにはひと房の長い髪。
(あれは……まさか私の……?)
見覚えのあるホワイトブロンドの色。ジュリエットの髪だ。
──どうして、と疑問を抱いてすぐに思い出した。火刑の寸前、ジュリエットは髪を切り落とされたことを。
(リルが拾っていたの? 私の髪を?)
リオネルがまた何かの言葉を詠唱すると、開いた本の間から闇が
鎌首をもたげた闇はするすると触手のように変化して、リオネルと同じく両手を前にさし出すような形になった。
リオネルが右手に持ったジュリエットの髪を、向かい合った暗色の影は左手で受け取り、ごくりと飲み干すようにして自身の中に取り込んでいく。
次の瞬間、アンジェラは瞠目した。
ジュリエットの髪を吸収しつくした闇黒が、反対の右手をリオネルに伸ばしたのだ。
触れるなどと優しい動作ではない。襲うと言っていい
(リル!)
鋭利な影が、まだ幼さの残る顔に食い込んだ。皮膚が裂け、肉が
(リル! 逃げて! リル!)
アンジェラは声の限りに叫んだが、届くはずもなかった。
これは過ぎ去った光景なのだから。
この禁室に封じられた禁書の中で、たった一冊だけ封印を解かれた本が、たった一度だけ使われた時の記憶を今、再生しているに過ぎないのだから。
(いや! やめて! リル!)
生きたまま顔面を
人ならざる者によって与えられる痛みは、普通の人間によって与えられる痛みよりもはるかに大きいはずだ。
それでも十歳のリオネルは顔色一つ変えず、まばたき一つせずに激痛を耐え抜いた。
闇がようやくリオネルの顔を離れた時。その純黒の手にはアイスブルーの眼球が摘まれていた。
澄んだ宝石のような眼球を五指の中ににぎりこんだまま、手は再び本の中へと戻っていく。
黒い本がゆるやかに最後のページをめくった時。
(この光は……!)
既視感があったのは、前世で最後に見た光だったからかもしれない。
覚えている。ジュリエットが絶命する寸前、視界の端がほのかに光った気がしたことを。
不意に呼吸が楽になり、優しく包み込まれるような心地がしたことを。
処刑場だった広場から仰ぎ見た時、視界の端に収まる建物は王宮の外殻塔──この図書棟のある建物だ。
(……!)
リオネルの左眼を吸い込んだ
この本がいったい何の秘法を封じていたのか。教えられなくともアンジェラにはわかった。
ジュリエットの髪を媒介に、リオネルの眼を
「リル……」
アンジェラの紫の瞳から、涙が流れて頬をつたった。
ずっと不思議に思っていたことが、やっとわかった。
なぜアンジェラは前世の記憶を持っているのか。
なぜ赤ちゃんの頃から周囲を認識できていたのか。
なぜ聖女の聖痕や治癒の力を引き継いでいるのか。
数々の謎が今、ようやく解けた。
十五年前。リオネルは自身の片目を対価に、この場所で禁術を行使した。
彼の捧げた犠牲によって、ジュリエットはアンジェラとして生まれ変わったのだ。
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処刑された聖女ですが、皇女に転生してお兄様たちに溺愛されています sana @s_a_n_a
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