第53話 グリモワール

「リオネル、貴様!」


 ナタンはけたたましくえた。


「どんな汚い手で皇女殿下に取り入ったのだ! 調子に乗るなよ!」


 先ほどからぎゃんぎゃんと喚き続けているものの、ナタンの話は同じ内容のループだった。


 なぜアンジェラ皇女はやたらとリオネルをかばうのか。卑怯な手段で歓心を買ったのではないか。十も年下の少女をたらし込むなど人の道を外れている。これだから父を誘惑した淫らな女の血はどうのこうの。──だいたいこうした話の堂々巡りだ。


 リオネルはダークグレーの髪をかきあげた。


「……もうよろしいですか。国王陛下」


「本ッ当に可愛くないな! 貴様は!」


 心の底から面倒そうにため息を吐いたリオネルを、心の底から憎たらしそうにナタンは睨んだ。


 リオネルに兄と呼ばれたいわけではないが、かといって無機質な声で「国王陛下」と呼ばれるのもそれはそれで腹が立つ。


 リオネルの髪色や精悍な体格からは、先代国王だった父の面影が感じられた。


 間違いなく父の子でナタンの異母弟ではあるのだろう。しかし可愛いと思ったことは一度もない。


 第二王子とは名ばかりの卑しい生まれ。愛想もなければ可愛げもない、傲岸不遜な態度。まったくもって可愛いと思える要素が一つもない男だ。


「早く皇女殿下の元に馳せ参じたいので、これで失礼いたします」


「ぐうッ……!」


 ナタンは歯ぎしりした。


 本心では騎士たちに命じてリオネルをめった打ちにしてやりたい。二度と生意気な口をきけないよう、徹底的にいたぶってやりたい。


 しかしアンジェラ皇女から「私の婚約者に傷ひとつつけるな」と釘を刺されたばかりだ。悔しいが皇女の手前、手荒な真似はできない。


「貴様……妙な気だけは起こすなよ!」


 万が一アンジェラ皇女が本当にリオネルに嫁いだなら、周囲は王弟夫妻を担ぎ上げ、王位の交代をはかるかもしれない。それだけは断じて許さない。


「そんなものに興味などありません」


「そ、そんなものとは何だ! 生意気な!」


 飄々ひょうひょうと言われて、ナタンはかえって激昂した。


 ナタンもわかっている。リオネルには玉座を狙おうという意志はないと。むしろ権力への執着そのものがない男だと。


 リオネルの存在を知ってから十五年。家族として一緒に暮らしてきたわけではないが、この男の人となりを見極めるには充分な年月だった。裏切りの意志があるのなら、とっくに兵を集め、反旗をひるがえしているはずだ。


 しかしリオネルに王位への憧憬どうけいはない。王冠をつかもうという欲望もない。


 任されたロシェル領のことは大切に思っているようだが、地位や権力よりも何か別のものを──決して手の届かない遠いものを想っている、そんな風に見受けられた。


(それもまた忌々しいな!)


 そんなつまらなそうな顔をされては、ナタンが決して手放すまいと必死にしがみついている王位が、途端に価値のないものに思えてくるではないか。


 ナタンが苦い顔をした刹那。アイスブルーの瞳がけわしくすがめられた。


「──ですが」


 リオネルの高い上背と筋肉質の体躯が、視線だけで人を殺せそうな威厳を放つ。


「あなたはかつて裏切ってはならない相手を裏切った。それを忘れたことはありません」


 みなぎる迫力に、ナタンは不覚にもビクッと身震いしたのだった。




 ◇◇◇




 外殻塔の中で、アンジェラは禁室の扉と向かい合っていた。


「……」


 扉は漆黒の板でできている。ドアノブもなければハンドルもない。どうやって開けるのかといぶかしんだが、迷う必要はなかった。


 アンジェラが軽く指先を触れただけで、扉を支える丁番ちょうばんはまるで蝶がはねを広げるように軽やかに羽ばたいた。


 硬く閉ざされていた扉は、そよ風を通すかのように音もなく開く。


「……!」


 足を踏み入れた室内は、窮屈なほど狭くも、無限に続くほど広くも見えた。


 息苦しいほどの圧迫感を感じるのに、吹き抜けるような開放感も感じられた。


 部屋の中には窓が一つもない。外光は入らないが、不思議と暗くはなかった。


 室内には一切の装飾がない。ロシェルの城も質素だったが、あれは以前はあった調度品を撤去したという雰囲気だった。


 この禁室は違う。初めから"無"だ。


 ここに存在する唯一のものは、黒色の書架だけ。


 ただの黒ではない。闇色としか表現できないような漆黒で塗りつぶされた書見台には、数冊の本が収められていた。


 表紙のへりには重厚な鎖が取り付けられている。扉や棚と同じ闇色をした鎖につながれた本は、単なる本ではないと一目でわかった。


「……魔導書グリモワール……?」


 鎖は本を縦横に交叉し、中央には強固な錠がかかっている。


 この鎖も鍵ものだと、語らずとも伝わってきた。


「あっ……」


 アンジェラの唇から小さな声が洩れた。


 並んだ本の中に一冊だけ、鍵のかかっていない本があったのだ。


 アンジェラは手を伸ばしたが、触れる必要はなかった。


 鎖はひとりでに動き、錠はひとりでに外れて落ちた。まるでアンジェラがここに来るのを、長い間待っていたかのように。


 背表紙が開く。本がひらく。封じられた秘密がひらく。


 息を継ぐ間もなく、アンジェラは晦冥かいめいな闇に包まれた。

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