写真C『矢印』

 休日を作った。せっかく作った時間なら、なるたけ無駄に過ごしたかった。意義を作るのは馬鹿げている。

 適当な電車に乗った。知らない駅で降りた。何も目的はないのもかえって素敵に感じられた。見えない糸でハムみたいに縛られていた心に少しずつ血が通い、じんわりと自分が帰ってきた感覚がする。

 改札を出ようとしたところで、進行方向の出口を示す矢印に気が付いて踵を返した。足早に僕についてきていたサラリーマンは舌打ちをしたけれど、全然気にならなかった。光の反射で閉塞感に拍車がかかる白い天井と床に囲まれていても、僕は今自由だ。

 しかし矢印に従わないというのは難しい。あっちに行っては引き返し、こっちに行っては立ち止まって、いずれかの矢印に従わねば自由は得られないと諦めかけたその時、見つけた。

 左上の道を指す矢印がない。路線の案内もない。頭上に示されているから見えないだけかと考えて引き返しても、なぜかその道を示す矢印はなかった。心臓が高鳴る。口角は知らず知らずのうちに上がっていく。僕は矢印のないその階段を駆け上った。


「いらっしゃい。望みは?」

 階段はたった一つの店につながっていた。看板はない。銀縁眼鏡にシルクハットの店主らしき老人は、面白がっているようだった。

「僕は、僕はただ、自由になりたくて」

 言葉が口をついて出た。意識はそこで途切れた。


「生きるために働いて、生きるために他人に気を遣い、生きるために生きる。生きないために使える時間は成長に伴って少しずつ減っていき、他人に仕える時間は増える。それでも日常に自我が縛られているからといって、非日常に自我を求める心理は納得しかねます。結局『矢印のない場所』に縛られてここまで来る人間のなんと多いことか‥‥‥彼らに悪い気はしませんが。私の依り代になる不自由を、彼らはこの上なく自由に選んだのですから」

 店主は口元を拭って満足げにほくそ笑む。完全なる甦生まであと、六十三人。

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【コトノハなごや落選作品×2】『アディショナル・タイム』『矢印』 くいな/しがてら @kuina_kan

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