第5話 生きよう
医師の当直業務は、一晩病院に泊まり込んで救急患者さんの対応をしたり、入院している患者さんに何かあったときに対処したりする。初期研修医である僕は、先輩とペアになって当直に入ることになる。
深夜の二時、ナースステーションで電子カルテの表示されたパソコンに向かっていると、どこからか救急車のサイレンが聞こえ始めた。この病院に救急車が来る場合は事前に電話が来ることになっているので、おそらく別の病院に行くのだろう。無視してキーボードを打ち続けるが、いつまで経ってもサイレンが遠くならない。――ああ、これは幻聴だ。
寝不足だからかもしれない。何が起こるか分からない当直業務がストレスなのもあるだろう。目をつむる。病状は安定している。「周りの人たちみんなに嫌われているんだ」というような被害的な思考に陥ることはあるけれど、たいていすぐに自分で打ち消すことができる。妄想に支配されて行動してしまうことはない。マルチタスクや人と話すのはすごく苦手だけれど、先輩の指導を受けながら内科の外来で診察したり、採血をしたり、入院患者さんとお話したりすることはできる。気分の上がり下がりが激しくて、上がっているときは異常に社交的になったり、下がっているときにやけ食いをしたりしてまうけれど、今のところ社会的に大きな支障は来していない。疲れやすかったり、すぐ眠くなったりするのも、こまめに仮眠をとったりしてなんとか乗り切っている。
毎日上手くはやれていない。周りから見るとどんくさいポンコツだろう。けれど僕は自分なりに、社会の中で自分のできることを必死でやっているつもりだ。頑張りすぎると自分が壊れてしまうのが分かっているから、無理しすぎないことを心に留めて。ぼちぼち、自分のペースで。精神科から処方されている抗精神病薬を決して呑み忘れないようにしながら。
それでも時々、こうやって幻聴などの症状が出てくることがある。自分で幻聴だとすぐに分かるので大きな問題にはならないけれど、僕は病気なんだということを強く意識する。完全には治っていない。多分、これらの症状は一生付き合っていかなければならないものなのだろう。
絶望はしない。したくない。してしまうことはある、けれど、この世には完璧な人間なんていない。きっと誰もが何かを抱えていて、誰もが不完全で、治らない持病を持っていたり、処方薬を飲み続けなければならないことも決して珍しいことじゃない。
苦しいことはたくさんある。自分の境遇を、人生を恨むこともある。それでも――
☆
閉鎖病棟の廊下を歌いながら歩く。歌で頭をいっぱいにして何も考えないようにしていなければ、思考が周りにいる人たちみんなに伝わってしまう。やましいことも、絶対にバレたくない秘密も、全部全部みんなに筒抜けだ。嫌だ。怖い。気持ち悪い。周りの人たちだって不快なはずだ。父がお金を借りている闇金業者からの電磁波攻撃で頭が痛い。ノイズのようなものが頭の中でずっと騒いでいる。僕が精神科に入院している間に家族はみんな殺されてしまって、たまに面会に来る人たちは家族に変装した別人だ。僕のせいだ。僕がお金を無駄遣いしたから、父は借金をしなければならなかった。退院したら、きっと奴らは僕を殺しに来る。思考が全部筒抜けだから、どこで何をしているのか全部バレてしまう。死にたくない。でも、罪をあがなうためには死ななくちゃならない。殺される前に自分で死のう。ごめんなさい、お父さん、お母さん。僕は死にます。大切に育ててもらったのに、こんなことになってごめんなさい。
「死なないで」
こんがらがった思考を切り裂く矢のような声がした。よく知っている声だ。大切な人の声――もしかして、
「なっちゃん?」
「心配してたんだよ。連絡とりたかったけどできなかったから、こうやってテレパシーを使ってるんだ」
ぼろぼろと、涙がこぼれた。廊下にへたり込む。
「ごめんなさい。僕、なっちゃんに謝らなくちゃって。ずっと後悔してる、傷付けちゃったこと。君が背負っていたもののこと、何にも想像できなかった。大切な友だちだったのに。ううん、なっちゃんは僕のこと、友達だなんて思ってなかったよね」
「友だちだよ。許す、だから、生きてて」
顔を覆って、僕は号泣した。認知症で入院しているおばあさんが、かがみこんで心配そうに背中をなでてくれた。
☆
夜が明ける。窓から差し込む眩しい光が、徹夜明けの僕の目をしょぼしょぼさせる。当直室でシャワーを浴びて、スクラブを着替えよう。昨晩聞こえた幻聴は、本当の救急車から電話がかかってきたときにすっかり消えた。今は心も落ち着いている。
閉鎖病棟に入院したときに聞いたなっちゃんの声が本物ではなかったことを、今の僕は理解している。ただの幻聴であり、妄想だ。後悔は永遠に消えないし、僕の罪はあがなえない。
それでも、医師として誰かのために何かができたら、いつか僕は僕を許せると思う。そう、信じている。
当直明けなので、昼で退勤することを許された。時間外出入口から出て駐輪場に向かっていると、バス停の前のベンチに、この前ODで運ばれてきた女の子が座っているのに気付いた。思わず足を留めた僕の方に、彼女のしせんが向けられる。はっとしたような顔をして、立ち上がった。そして、小走りで近付いてくる。
「先生、私、あなたに勇気をもらったんです」
何も言えずにいる僕に向かって、彼女は少しだけ口角を上げる。
「精神疾患でも、お医者さんになれるんだな、って」
うなずくことしかできない。
「あ、バス来ちゃった。それじゃ、また」
少女が走ってゆく。遠ざかってゆく背中を、僕は泣きそうになりながら見送っていた。
生きよう。
さよなら私の電波少女 紫陽花 雨希 @6pp1e
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