空腹

鯨と金木犀

空腹

「ナツミ、あんた、また昼それだけ?」

 お昼休み。ガヤガヤとした教室でハルが私に話しかけてきた。

「そう。ダイエット中だからね」

 そう言ってコンビニの透明なパックのサラダを開ける。緑やオレンジ、紫色の絨毯の上に、まばらに撒かれた黄色のコーンが綺麗なアクセントになっている。中央に置かれたトマトの皮に教室の光が反射していた。

「ナツミさ、流石にやりすぎじゃない?毎日お昼はサラダだけで、朝と夜だってそんなに食べてないでしょ?」

「我慢が大事なんだって、こういうのは」

 付属のドレッシングをかけて、野菜の絨毯を頬張る。会話を続けながらも、頭の中ではカロリーの計算が続いていく。

「もっとさ、食べたいものを食べるようにしなよ」

 トマトに伸ばした箸が止まる。同時に、家庭科の先生の言葉が頭の中をぐるぐる回る。

 食べたものが、明日の私たちの体になる。

 食べるだけで、彼女の全てが私のものになるのなら。黒い髪も、白い肌も、血色の良い赤い唇も。彼の心の心を惹きつける、ハルの全部を私のものにできるなら。

「じゃあ、ハルのことを食べちゃいたいな」

「何、急に?」

「冗談だって」

 喉元を苦くて熱い何かが登ってくる。その熱を押し返すように、トマトを口に放り込む。

 奥の歯で噛み潰すと、酸っぱい汁が口いっぱいに弾けた。


 飯島君がハルに告って、振られたって。

 月曜日。クラスは朝からその話題で持ちきりだった。いつもは遅刻なんかしない飯島君はホームルームの始まるギリギリの時間でやってきた。ハルは4時間目が終わっても教室にやってこない。

 昼休み。飯島君が立ち上がり、一人教室を出ていく。

 チャンスだ。キュルキュルと鳴るお腹。ぐるぐると回る頭の中。期待に震える心臓が、私にそう告げていた。

 廊下を滑るように抜けていく飯島君をなんとか見失わないように追いかける。角を曲がり、階段を下り、ほとんど使われていない旧校舎の方へと進んでいく。

 追いついたところでどうしたいのかもわからない。けれど、前よりもほんの少しだけでも変わった私のことを見て欲しかった。

 不意に立ち止まると、誰もいない水道で、飯島君は顔を洗い始めた。

「なんか用?」

 私に気づいた彼がこっちを向く。何を言えば良いのかわからず、私はただその場に立ち尽くす。

「クラスのみんなが言ってた話のことなら、全部本当のことだよ」

 彼のその言葉で、心臓が一段強く飛び跳ねる。頭に熱がこもり始め、ほとんど空っぽの胃のなかにも熱い何かが堆積していく。

「けど」

 飯島君のまっすぐな瞳が私に向く。

「俺まだ諦めてないから」

 その黒い瞳には、私の姿は映っていなかった。

 身体中の熱が引いていって、胃の底に溜まっていたものが、一気に冷めていく。

 今まで積み重ねてきたものが、崩れていく。

「心配してくれたならありがとう、でも、大丈夫だから。長谷川こそ、細すぎるから、ちゃんと飯食えよ」

 飯島君の背中が離れていく。歪み始めた世界が、その言葉によって完全に軸を失った。

足に力が入らない。呼吸がまとまらない。胃に溜まったものが、一気に迫り上がってくる。

 どれだけやっても、結局無駄だった。メイクをしても、痩せても、結局私は私のまま。

 どれだけ我慢をしたって、掴めるものなんてなかったのだ。

 ポケットの中のスマホが揺れた。

 ハルからだった。(なんでも奢るから、相談に乗ってほしい)画面に並んだ言葉を見て、停止していた頭がまた動き出す。

 飯島君はまだハルのことが好きなんだって。私は細くて心配なんだって。知ってる?私、ハルみたいになろうと頑張ってたんだよ。苦しくても、耐えてたんだよ。ハルがいい子だってこともわかってる。でも、そんなハルのことを嫌いだって思っちゃう私は、きっと最低な人間なんだよね。

 でもね、やっぱり私は。

(じゃあ、私はハルのことを食べたいよ)

 送ってすぐに(冗談)と書き加える。その行為が、この世で一番悲しいことのように感じられる。

 黒い髪。白い肌。赤い唇。私が欲しくても、手に入れられないものの全て。ハルにはあって、私にないものの全て。

 空っぽのお腹が、キュルキュルと鳴る。暗くて静かな廊下に響くそれは、きっと私の心が発した、

小さな悲鳴に違いなかった。

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空腹 鯨と金木犀 @orion0509

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