シロツメクサの真意

甘灯

シロツメクサの真意

『何か…忘れてる気がする』


 急に胸に湧き立った焦燥しょうそう感。ふとした瞬間に、その言い表せない感情に支配されて何も手につかなくなる。


『何か大切なことだったはずだ。でも、思い出せない』


 無理に思い出そうとすると、ブツリと急に電源を落とされたテレビ画面のように脳裏が真っ黒になる。


『思い出したいのに、思い出せない…』


 しかしそんな歯がゆい気持ちは一瞬で失い、すぐに『もういい!どうでもいい!』と自棄やけになり変わる。

そして最後に残るのは、何もかも壊したくなる・・・・・・ような強い衝動だ。

 

 卯月うづき陽太ようたにはそんな突発的に熾烈しれつな怒りの感情が湧き立ってくることがあった。


「…くん…陽太君!」


 急に肩を叩かれて陽太は我に返った。

かつて中学の同級生だった江崎えさき咲夜さくやが心配そうに眉を下げながら、陽太の顔を覗き込んでいる。

陽太はあまりにも近い距離に、思わず厨房の流し台から後退った。


「な、何…?」


 陽太はどぎまぎしながら、咲夜に尋ねた。


「何って…手…怪我してるよ…」


「え…」


 咲夜に指摘されて、陽太は自身の指先をみた。水で濡れた人差し指が、ぱっくりと裂けている。

その傷口からしたたれた血が、出しっぱなしになっている蛇口の水に流されて、赤い渦を巻きながら排水口の中に吸い込まれていく。

 自分が怪我をしていたことにまったく気がつかなかった陽太は、驚いて固まってしまった。

見かねた咲夜は腰巻きエプロンのポケットからハンカチを取り出すと、陽太の怪我した指にきつく巻きつけた。


「…休憩室いこ」


 咲夜にうながされて、陽太は大人しく休憩室に向かった。




「また考え事?ダメだよ、仕事に集中しないと」


 陽太の指に絆創膏ばんそうこうを貼りながら、咲夜は柔らかい声音でたしなめた。


「うん…ごめん」


 陽太は自分の不甲斐なさに、ただただ俯いた。


「急にお皿の割れる音がしたからびっくりしたよ…そしたら陽太君、怪我してるのにボーッと天井見上げてるんだもん」


「だよね…また店長に怒られるな…」


 陽太は俯いたまま、沈んだ声で呟いた。


「きっと疲れてるんだよ。どうせ、陽太君のことだから深夜遅くまで勉強やってるんでしょ?…それにここのバイトだってまだ慣れてないもんね」


「…そうだね」


 ぎこちなく頷いた陽太は、何故か罰が悪そうに咲夜から視線を逸した。


 


 陽太は今年進学したばかりの高校一年生だった・・・

県内で有名な私立進学校の試験に合格し、これから輝かしい未来を約束された気がして初めて自分自身を誇らしく思えた。

だが中学の卒業前に、両親は突然離婚した。

急に母子家庭となり、一軒家から狭いアパート暮らしになってしまった。

 そこから生活は一変した。

すぐ生活だけでいっぱいいっぱいになり、無理に仕事を掛け持ちしてまで高校に行かせてくれようとしている母を見かねて、陽太は半年も経たないうちに高校を自主退学した。

 それでも大学へ行く夢が捨てきれない陽太は、高卒資格を取るために定時制の高校に再入学しようと考え、自分で学費を稼ぐためにすぐバイトを始めた。

 そこで偶然、中学時代の同級生だった咲夜と再会を果たしたのだった。

咲夜には高校を辞めたことは格好悪くって言い出せなかった。

他の高校に通っている咲夜なら、そのことを知られる心配はないだろうと考え、今までうまく誤魔化していたのである。


「ねぇ!」


 後ろめたさで深く俯いてしまった陽太に、事情をまったく知らない咲夜は明るい声でこう提案してきた。


「息抜きにさ。今週末ある地元の夏祭り一緒に行かない?」


「えっ!?」


 咲夜の突然の誘いに、陽太は驚いて声を上げた。


「何その反応…私と行くの嫌なの…?」


 咲夜はムッと唇を尖らせた。


「ち、違うよ!咲夜から誘ってくれるなんて思わなかったから…びっくりして」


「え?なんで?」


「だって咲夜…モテる、じゃん」


 陽太のよく知る中学時代の咲夜は、容姿がよく、裏表のない明るい性格から、男女どちらにも人気のあるクラスメイトだった。

再会した咲夜は控えめながらメイクをしていて、ドキリとするほど大人びていた。

きっと彼氏がいるに違いない、と陽太は思っていたのだ。


「…そんなことないよ。彼氏だってまだいないし…」


 咲夜は恥ずかしそうに俯いた。


「あ、いたいた!江崎さん!そろそろ戻ってきてくれる?」


 休憩室の扉が開き、先輩店員が咲夜に声をかけてきた。


「あ、はーい!すぐ行きます!!」


 咲夜は慌てて椅子から立ち上がる。陽太も反射的に立ち上がった。


「あ、卯月さんはもう帰って大丈夫よ。もう上がりよね。怪我の方は大丈夫そう?」


「…はい。大丈夫です。すみません…」


「いいよいいよ!大したことないなら良かったわ」


 小さく頭を下げる陽太に、先輩店員はカラッとした笑みを返した。


「じゃあ、卯月さん・・・・。後で連絡しますね」


 咲夜は先輩店員がいる手前、他人行儀にそう言い残すと陽太を一人残して休憩室を後にした。




 ────  ────




 祭り当日。


「陽太君!」


 カラン、カラン、と下駄を鳴らしながら、はなだ色の浴衣を着た咲夜が小走りで駆け寄ってくる。


(あれ…)


 陽太は駆けてくる咲夜の姿に違和感を覚えた。


(あんな柄の浴衣だった、か…?)


 咲夜と夏祭りに来たのは今回が初めてのはずだ。

なのに妙な既視感があった。

陽太はくまの出来た自身の目を擦る。


(疲れてるんだな…俺)


 陽太はここ数日ひどい寝不足だった。

それはバイトをいくつも掛け持ちしているせいもあったが、咲夜と夏祭りに行くことが嬉しくってそのことで頭がいっぱいだったせいでもあった。


「ごめんね!着付けに時間かかっちゃって」


 通行人の間を縫って陽太の前に辿り着いた咲夜は息を切らしながら言った。


「大丈夫だよ。その浴衣…いいね」


 陽太は照れ臭くなりながら告げた。


「…ありがとう」


 咲夜はニッコリと笑った。


「それ、なんの花なの?」


 陽太はふわふわした綿毛のような花柄が気になって咲夜に聞いた。


「これ?シロツメクサだよ」  


 咲夜は腕を伸ばして袖の柄を見せながら答えた。


「シロツメクサ…聞いたことあるような…」


「クローバーとも言うね」


「あ、それだ!!」


 咲夜の返答に、陽太は腑に落ちた。


「で、何処から行こっか?」


 咲夜の期待を込めた視線に、夏祭りのデートプランなんて考えていなかった陽太は言葉を詰まらせた。



「あ、陽太君。そのピンク色のヨーヨーがいいな!!」


「ん、これ?」


 陽太は水色の大きな桶の前にしゃがみ込んで、咲夜が指差す水ヨーヨーを“こより”という釣り道具でひょいと釣り上げた。


「すごい!簡単に取れるんだね」


 咲夜は嬉しそうに、陽太から水ヨーヨーを受け取った。


「…こういうの得意なんだ」


 陽太は少し誇らしげに言った。


「あ、そろそろ花火があがる時間じゃない?」


 見物客の誰かが、提灯ちょうちんが吊るされた夜空を見上げながら言った。


「私、花火を見る最高の特等席知ってるんだ!!」


 咲夜はそう言って、陽太の手を引いて歩き始めた。




 カラン、カラン。

待ち合わせ場所では雑音に混じっても軽快に聞こえた、下駄の音。

だが寂れた社に続く石の階段を打ち付けるその音は、辺りが静まり返っているせいか、恐ろしいほどひどく重たく聞こえた。


 カラン、カラン。


(あ、まただ…)


 この光景を自分は知っている気がする。


 陽太は思わず立ち止まった。

そのせいで咲夜の手が自然と離れる。


「…どうかしたの?」


 咲夜は振り返って、陽太に尋ねた。


「え…いや…」


 そう言いつつ、陽太の脚は石段を上がるのを拒むように動かない。


「…疲れちゃった?」


 咲夜は心配そうな顔をした。


「ううん…そんなことは…」


 そうは言っても、陽太の足元は石段に縫い付けられたようにその場から動けない。


「やっぱり疲れちゃうよね…忘れたと思ってもさ。脳ってちゃんと記憶してるものだから」


「え?なんのこと…?」


 少し俯きがちで影を帯びた咲夜の表情があまりに『無』そのもので、陽太は途端に怖くなった。


「陽太君、私の浴衣姿を見てさ。『あれ?』って思ったよね?」


「え、どうして…」


 陽太は言い当てられて驚いた。


「わかるよ。お姉ちゃんが着てたのは朝顔・・の柄の浴衣だったもんね」


 咲夜は抑揚のない声で言った。


「え…お姉ちゃん…?」


「うん。咲夜お姉ちゃん」


 唖然とした陽太に『咲夜』は笑った。


「何言って…」


 陽太は青い顔をしながら、石段を一段下りた。


「本当は咲夜お姉ちゃんの浴衣を着てこようと思ったんだけどね。木に引っ掛けて破けたり、ここ・・から落とされたせいで血で汚れて、とても着れそうになかったんだ」


 咲夜も石段を一段だけ下りる。


「咲夜…本当に何言ってるんだ…?」


 陽太はさらに石段を二段下りた。


「やめなよ、陽太。もうさ、自分でもわかってるでしょ?」


 咲夜は陽太に合わせるように石段を二段だけ下りる。一段差で、二人は対面した。


「な、なに…を」


 恐怖で喉が張りつき、陽太はうまく声が出せなくなった。


「本当に分からない?ならさ…」


 咲夜は無表情のまま、陽太の胸を強く押した。

突き飛ばされた陽太は、咄嗟とっさに咲夜の浴衣の袖を掴んだ。

だがビリッと音を立てて、布が大きく裂ける。

そして千切れた浴衣の袖を握ったまま、陽太は急な石段を一気に転げ落ちた。




────  ────



 


『…陽太君、な、なんで?』


 目の前の咲夜は怯えた顔をしている。不自然に着崩れた襟元から白い片肌が覗いていた。


『どうして!静真しずま君を刺したの!?』


 咲夜は倒れた同級生の男子に縋り付きながら泣き叫ぶ。


『なんで…そいつと夏祭りに来たの?』


 血のついたカッターを力強く握りながら陽太は聞いた。咲夜は思わず押し黙る。


『…そいつ、僕のこと虐めてたやつだよ? 咲夜、僕のこと…いつもそいつから守ってくれてたのに…なんで、なんで、なんでっ!!!』


 子供が癇癪を起こしたように泣き叫ぶ陽太に対し、咲夜は俯きながら呟く。


『……ごめんなさい』


 ポツリ、ポツリ。


 急な雨が降り始めて視界が霞みかかった。陽太は途端に理性を失って、甲高い奇声を上げた。


 木々の合間を縫うように逃げる咲夜を、奇声を上げながら気が狂った陽太が追いかける。

咲夜の着物の裾が、茂みの枝に引っかかり、大きく破ける。

雨でぬかるんだ地面に足を取られて、下駄が脱げた。

それでも咲夜は振り向かずに走る、走る、ひたすら走った。

そしてやっと鬱蒼うっそうとした木々から抜け出し、目の前に古い社が見えた時、咲夜は心底ホッとした。

通り雨はすでに止み、石段の下で赤い提灯と露店の明かりが見えた。

息を整えながら、咲夜は石段を下り始めた。

その時、咲夜の肩を陽太の手が強く掴んだ。


『!!』


 陽太は強引に咲夜を振り向かせようとした。

だがその拍子に、咲夜の足は石段を踏み外した。




────  ────




 石畳が血でみるみるうちに赤く染まっていく。

数日前、咲夜に絆創膏を貼ってもらった“自分”の指がぼやけた視界に入ってきた。


 カラン、カラン。


下駄を打ち鳴らし、『咲夜』が石段からゆっくりと下りてくる。


「誰…なんだ…」


 仰向けで倒れ込んだ陽太は、力を振り絞って首をもたげた。

すると、あと数段で下りきるところで咲夜は立ち止まった。


「私?咲夜の妹…夜都よみだよ」


「い、もうと?」


「咲夜お姉ちゃんが死んじゃった時は、まだ小学生だったなぁ…」


 陽太の言葉を無視して、夜都は昔に思いをせるように少し幼さのある口調で呟いた。


「咲夜お姉ちゃんと私、よく似てるでしょ?」


 陽太は身体の痛みで、うまく声が出せない。

咲夜の妹と名乗る『夜都』の言うことが本当なら、目を見張るほど二人はよく似ていた。


 話し方も、笑い方も、何もかも瓜ふたつ。


「ねぇ…あれから何年経ってると思う?」


 その言葉を投げられた途端、まるで冷水をかけられたように陽太の薄く開いた唇が小刻みに震え始めた。上下の歯がうまく噛み合わず、カタカタと小さな音を立てる。

呼吸が荒くなり、無理な体勢で顔をあげていたせいで、血走ったように赤く充血した目は焦点が合わずに落ち着きなく揺れ動いた。

そんな陽太の様子を見て、彼から言いしれぬ恐怖を感じ取った夜都は満足気な笑みを浮かべる。

殺された・・・・姉も、きっと、今のこの男のように恐怖で怯えた表情をしていたはずだ。

殺したいほど憎い相手に、姉と同じ気持ちを味合わせられたことで、夜都の心は達成感で満ちた。

 

 石段を下りきった夜都は陽太の前に立った。

陽太は身をよじって夜都から距離を取ろうとしたが、大怪我を負った身体でそれは叶わない。

その必死な陽太の姿があまりに無様すぎて、夜都はあざ笑いながらしゃがみこんだ。


「陽太君さ、今いくつだっけ?」


 姉の声音を真似て悪戯ぽい笑みを浮かべた夜都が、上から陽太の顔を覗き込む。

ゾッとするような、ねっとりとした笑顔。

だがその裏腹に冷え切った彼女の目と合う。

その瞳の中に、の陽太の姿が映り込んだ。


「……ああああ!!」


 途端に、陽太は発狂して叫んだ。



ーー…やっと思い出した!


 陽太は咲夜を殺してしまった忌まわしい記憶を脳の奥底にしまい込んで、元からなかった・・・ことにしたのだ。

『自分は16歳』 

陽太はそう強く思い込んで・・・・・、今まで生きてきた。 

矛盾が生まれたら自分の都合の良いように記憶を書き換えて、これまでうまく自分を騙し続けてこれた。

しかし夜都の口から真実を聞かされた今、彼女の目に映し出される自分の姿は見知った少年から不健康そうなほどひどく痩せた青年へと変貌していた。


 あの事件から、既に7年が経っている。

陽太はとっくに成人しており、当時まだ小学生だった夜都は姉の咲夜と同じ16歳になっていた。  




 一方、夜都はこの時をずっと待っていた。

自分を咲夜だと思い込ませて、陽太に『自分は咲夜を殺していなかった』と希望を持たせてから、一気に絶望へ突き落とすために。


「…咲夜お姉ちゃんの日記にさ。あんたのこと書いてあったよ。あんたさ、咲夜お姉ちゃんのストーカーだったんだよね?助けてもらったからって勘違いした?」


 夜都は底冷えしそうな眼差しで、陽太を睨みつけた。


「咲夜お姉ちゃん。明るくって、優しくって、正義感が強くって…大好きな自慢のお姉ちゃんだった。それなのに死に追いやっておいて…未成年だから、心神喪失で責任能力がないから罪にならない?…法が裁かないなら…私がやるしかないじゃない」


 夜都は呪詛を吐くように、陽太への憎しみを吐露した。

だが夜都に憎悪を向けられたはずの当の本人・・・・は怯えるどころか、急に薄ら笑みを浮かべた。


「っ!?」


 陽太の思わぬ反応に、夜都は戦慄した。


 陽太にしてみたら思い出せずに、ずっと煩わされた記憶が元に戻ったのだから実に喜ばしいことだった。

この高揚した気持ちは、まるでパズルの最後のピースをはめ込んだ時の『歓喜』とよく似ている。

初めは咲夜を殺してしまった罪悪感を“忘れたかった”はずなのに、いつしか忘れ切っていた記憶を“取り戻したい”という矛盾に支配されていた。

それはこれから死ぬまでずっと繰り返すであろう陽太にとって、まさに生き地獄だ。

だが陽太はこの時になって1つ分かったことがあった。ふと湧き立つ、あの『何もかも壊したい・・・・衝動』の正体。


ーーそれは自分を裏切った咲夜に向けた感情だったのだ。


「は…は…」


 “既に”自らの手で壊してしまっていた事実に、陽太の口から乾いた笑いが出た。



 見物客の一人が悲鳴をあげると、辺りが騒然となった。

すぐに黒山の人だかりが出来て、その大半の者がスマホのカメラレンズを陽太たちの方に向ける。

そして騒ぎに気づいた祭りの運営者たちも駆けつけてきた。

誰かが陽太の応急処置をしている傍ら、夜都はされるがまま取り押さえられる。





 夜都は警察官に連れて行かれる直前、陽太にこう告げた。


「一つ教えてあげる。この浴衣のシロツメクサの花言葉は……『復讐』だよ」


 カラン、カラン。


下駄の音が、静かに遠退とおのいていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シロツメクサの真意 甘灯 @amato100

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ