ケース:鬼門

 土手の下の橋脚に落書きをしている男性がいた。

 最初は塗装業者かと思った。まだらに汚れたデニム地のオーバーオールを着て、脚立に腰かけていた。踏み台には朱い塗料が入ったバケツが置かれている。刷毛はけの柄を握り、一心不乱に橋を支える構造体に刷毛先を滑らせていた。どこか生臭い空気が漂っていた。

「兄ちゃん、何をしてるの」

 ランドセルを背負った少年は鼻を摘みながら尋ねた。結果的に鼻声になってしまったが、脚立の上の男性には聞こえていないらしい。男子児童には目もくれず、腕を動かしている。その横顔は汗が滴り、どこか笑って見えた。

「ねえったら」

 さらに声をかけると、ようやく男子小学生の存在に気づいた。軍手を嵌めた手で汚れた頬を拭い、若い男性は慌てて言った。

「ああ、ごめんよ。ぼく、何か用かい」

 二十代ほどの青年だった。中肉中背で物腰が低く、大人にしては頼りない印象を受けた。少年は強気に出た。腕組みをして彼を見上げる。

「だから、ここで何をしてるのさ」

「え、ああ……絵を描いてるんだよ」

 少年はいぶかしむ。川に架かった構造物の陰になった橋脚には、絵というよりは記号に近い輪郭が描かれていた。どこかで見たことがある。そう、社会の時間で習った地図記号によく似ていた。

「神社?」

 再び作業に戻った青年には、その呟きは聞こえていなかった。コンクリートで塗り固められた橋脚を見つめ、刷毛を滑らせる。その毛先は、塗料の赤色が濃く染みこんでいた。

 男子児童は口をへの字にした。

「ちゃんと聞いてる?」

「ん、ああ、ごめんよ」

 この大人は謝ってばかりだ。申し訳なさそうに眉尻は下げても、どこか心ここにあらずである。その態度に腹が立ち、少年は語気を強めた。

「何で神社の記号を落書きしてるんだよ」

「神社の記号? ああ、違うよ。これは門さ」

「門?」

 彼は眉根を寄せて落書きを睨んだ。やや縦に長く、上部が少し反り返っている。その中は何も描かれてはいない。四角形をした空白だ。

「やっぱ記号じゃん」

 青年に顔を戻すと、やはり聞いていなかった。赤い色をした刷毛先を執拗に撫でつけて、柱の部分を上塗りしている。少年は業を煮やした。

「良い大人が、こんなとこに落書きしてんなよ」

 大きくなった声に青年は肩をすくめた。年少の児童に叱られ、ばつが悪そうに軍手の指で頬を掻く。引っ搔き傷にも似た赤い線が引かれた。

「ごめんよ。ただ、ここが都合良いんだ」

「どういうことだよ」

「この方角なら向こうと繋がってるからね」

 少年は首を傾げた。この大人の言動は理解できない。少し頭がおかしいのではないだろうか。また彼の意識が逸れる前に訊いた。

「向こうってどこさ」

「神さまがいる世界だよ」

 確信した。やはり、この男性はまともではない。

「頭、変なんじゃないの」

 男子小学生は思ったことを率直に口にした。青年は怒りもせず、もう前を向いていた。腕を動かしながら、口角が上がった口で答える。

「ああ、そうだね。ただ、彼らがこちらに来たがってるんだ。だから、ちゃんと通り道を描いてあげないと」

 その熱に浮かされた口調に、ようやく少年は不気味さを感じていた。目の前の『門』を見つめる青年の瞳は異様に輝き、正気とは思えなかった。

 狂っている。子供心にそう思った。

 これ以上の問答は危険だ。男子小学生はゆっくりと後ずさり、橋の下から逃げ出した。土手を走る小さな背中に、声がかかった。

「君に会いたがってる。仲良くしてあげてね」

 少年は思わず振り返った。橋脚の陰で脚立に腰かけた青年が相変わらず落書きをしている。夕日の色を受け、川面が赤く滲んでいた。



 後日、橋の下を訪れた。

 さすがにもう例の青年はおらず、男子小学生は胸を撫で下ろした。ただその痕跡は残っており、コンクリートの橋脚にはあの赤い落書きが残っていた。

 少年はその前に立つ。乾いた落書きを見上げると、完成したと思われるそれは、地図記号というより鳥居そのものだった。朱塗りの柱、笠木、額束がくづか勿論もちろん詳しい名称は知らなかったけれど、神社の出入り口に立つものだということはわかる。

 あの青年は門だと言っていた。神さまがいる世界と繋がっているのだとも。

 頭がおかしい大人の言葉を真に受けても仕方ない。それでも子供ならではの好奇心で、朱い鳥居の中を覗いた。すると、妙に空白が暗い。夕日が傾き、陰になっているからかと思った。

 暗がりの奥で何かと目が合った。少年は驚き、後ろに下がった。

 平面的な鳥居の中から、巨大な手が伸びてきた。剛毛が生え、鋭い爪が土を抉る。尻餅をついた男子小学生の目と鼻の先で、赤銅しゃくどう色をした太い指がうごめく。その一本一本が彼の体格よりも大きい。出口の幅が足りず、手首より向こうは出てこられなかった。やがて諦めたのか、その手は橋脚の中へと引っこんだ。

 男子小学生は腰が抜けたまま、その場から動けなかった。ただ靴のつま先のすぐ近くで、大きな爪痕が地面に残っていた。



 防災省及び公安警察はこの人物の行方を追っている。

 二十代と推定されるこの男性は全国各地に出没し、『門』と称した鳥居と思われる絵を描いて未知の存在を現世に招き入れる。とある地域ではケース:百鬼夜行に発展し、その町は【詳細は伏す】、政府の中央防災会議で特殊激甚災害に指定された。


 補足:その人物が鳥居を描くのに用いているのは人間の血液である。

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ケース:鬼門 @ninomaehajime

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