第3話

『お義父さん、お義母さん。そしてゲオルグ。 本当に、ごめんなさい。私はやはり、どうしても、ペーターが魔女だとは思えないのです。あの子はとても賢く、優しい男の子です。ホッヘンハイムの他の人々がどうなろうと構いません。私は、ペーターだけは救いたいのです。

 たとえ、私自身が魔女の誹りを受けたとしても。

 だから、どうぞ私のことは死んだと思ってください。もう二度と、合わせる顔もありませんので。 エルザ』

 夜中に急いでしたためた手紙は、封筒にすら入れなかった。食卓にひらりと一枚だけ置いて、エルザは鶏が鳴くよりもずっと早くに、家を出た。

 自分でも、どうしてここまでペーターのことを気にしているのか、よくわからなくなってくる。

 小狡い親兄弟を持ちながら、まっすぐに育っていたペーター。結婚して三年、子どもに恵まれないエルザにとって――「あんたんちの嫁の不妊も、あの魔女一家のせいなんじゃないかい?」――、愛情を傾ける対象として、ペーターは非常に都合がよかった。

 孤独な子ども。周囲の同じ年頃の女が次々に子を孕む中、妊娠の気配もない自分。溢れそうになる母性を、エルザはペーターに注いだ。

 あのホッヘンハイムの母よりも、自分の方がよほど、ペーターに母らしいことをしてきたという自負がある。だから、母親として、あの子のことを助けなければならないのだ。

 一家が連れていかれたのは、州都・ツヴァイブルク。エルザは、覚悟をもって訪れた、目の前の塔を見上げた。

 魔女であっても、道具がなければ、空を飛ぶことはできない。鷹の塔は、箒もないし、山羊もいない、審判前の魔女を閉じ込めておく場所だ。

「こんな場所に、ペーターが……」

 エルザはようやく会う約束を取りつけることができた、異端審問の責任者を訪ねるべく、ここにやってきた。鷹の塔の異様な雰囲気に飲まれそうになる。

 向こうは聖職者で貴族だ。着の身着のまま家を飛び出した平民の自分が、どれほど上手く立ち回れるかは不明だったが、やるしかない。

 異端審問官・アーベントロート卿は、神父というよりも悪魔的に鋭い目つきで、エルザのことを睨みつけた。

「ごきげんよう、アーベントロート卿」

 付け焼き刃の貴婦人の礼を、男は鼻で笑った。

 なけなしの勇気がみるみるうちに萎みそうになるが、エルザはペーターの絶望に満ちた表情を思い出し、気持ちを奮い立たせる。

「嘆願がございます」

 エルザは卿の足下に侍った。神の子のもとに敬虔な弟子が侍り、説教に聞き入ったのと同じ姿勢で、彼のことを見上げる。

 清廉さとは対極にある男は、女を見下ろすことに優越感を得ている様子だった。

 エルザは切々と訴える。

 ペーター・ホッヘンハイムだけは、絶対に魔女ではないこと。あの優しい子どもが、他人を破滅させる術をかけるわけがないこと。

「生き抜くために魔女の道を選んだと言われていますが、それは違います。魔女になれば、誰の助けも得られません。魔女の道は、孤独な道です。けれどあの子は、ペーターは、私のことを慕ってくれておりました。そんな子を、私は魔女として裁くことを望みません」

 言っているうちに、涙が出ていた。

 どうか、ペーターに慈悲を。頭を床に擦りつけて、減刑を嘆願する。

 エルザにとって幸運だったのは、この街の異端審問官の職にある男が、欲望に塗れた俗物であったということだった。

 そしてそれは同時に、不運であったのかもしれない。

 神父はエルザを立ち上がらせると、頭のてっぺんから足の爪の先まで、じろじろと観察した。

 エルザは、彼の目を知っている。ホッヘンハイムの兄弟ふたり(そして時には父親)から向けられる、好色な意味をもつ目だった。

 肩に手を置かれ、びくりと身体が震えた。

「そうだな。私も、あんな子どもが魔女であるとは到底思ってはおらぬ……手心を加えてやってもいい」

 交換条件は、エルザ。

 離縁覚悟で置き手紙をして出てきた。宿の経営に忙しい夫と義家族は、今頃何をしているだろう。

 ああ、本当に、二度と帰ることができそうにないなんて! ごめんなさい、ゲオルグ! お義父さん、お義母さん、どうか元気で!

 エルザは顔を上げ、うっすらと微笑む。

 宿屋で客を相手にしていたときとはちがう。哀れで愚かな乙女のように、口を半開きにして、目を潤ませる。

 夫が、「いらん虫がつくから、その笑い方はやめなさい」と、口を酸っぱくして忠告していた、男の獣欲を煽る顔だった。




「罪状! これより読み上げるホッヘンハイム一家に関する有罪案件は、三百五十六件。うち、強盗……呪いをかけて災害を引き起こすこと……殺人……男女の間に諍いを引き起こすこと……」

 魔女裁判の結果、ホッヘンハイム一家は有罪、つまり魔女であると断定された。

 魔女の行く末はただひとつ、死刑だ。

 都会とはいえ、魔女の処刑は珍しい。告知があったその日から、広場の場所取り合戦は始まっていた。悪趣味なこと、このうえない。 

 魔女が討ち滅ぼされるのを見届け、勝利の雄叫びを上げるためにやってきた人間は、教会の人間が読み上げる罪状詳細の多さに、早くもうんざりし始めている。

「……よって、これより処刑を執り行う。女は乳房を切り取り、男は車に括りつけ、その四肢を裂く。そのままナイフで何カ所も切り刻み、生きながらにして、焼く。灰はそのまま野ざらしとする」

 彼の語る処刑のむごたらしさに、エルザは眉を顰めて、手を繋いだ子どもに「もう行きましょう」と囁いた。

 アーベントロート卿は、エルザを蹂躙した後、約束を違えなかった。高僧に従順に尽くした女は、神のよきしもべであると褒めた。ペーターの新しい戸籍を用意するとすら、約束した。

 所詮、力を持たぬ女であるエルザは、これからも自らの身体を糧に変えていかなければならない。ペーター――新しい名を、ダミアン――とともに、生きていくためだ。

 もう自分には、この子どもしか残っていないのだから。

 ペーター改めダミアンは、エルザの手を振りほどいた。若草色の瞳は、まっすぐに自分の家族だった人間たちの行く末を見つめている。

 早々に州都を去り、別の都市の救貧院の保護を求めようとしたエルザを押し止めたのは、彼だった。

 どうしても、自分の家族の最期を見届けたいのだ、と。

 子どもに、それも自分の家族が火あぶりにされる光景は酷だと何度も説得したが、聞き入れなかった。最後には、癇癪さえ起こした。終始控えめな彼のそんな姿を見るのは、初めてだった。

 最初に切り落とされたのは、母親の乳房だった。あれを吸って生きながらえた子どものうち、ふたりは恐怖に震え、執行人の手から逃れようと暴れている。元気だったのは一瞬で、打擲ちょうちゃくされて悶絶いているところを、牛の引く車に括りつけられた。

 四肢の関節が外れ、骨が折れる音は聞こえない。牛の嘶きにかき消されるせいだ。だが、激痛に喘ぐ人間の悲鳴がとどろき渡るせいで、どのタイミングでどうなったのか、誰もが知るところとなった。

 エルザは吐き気を堪えながら、ペーターの肩をそっと抱いた。彼はこちらを見ようともしない。

 やがて、悲鳴すら上げられなくなった彼らは、木に括りつけられる。十字架ではない。それは、神が受けたのと同じ刑罰になり、大罪人には不適当だった。彼らには、ただの杭でいい。

 火がつけられると、再び彼らは狂ったように泣き叫ぶ。男の口からも、甲高い女のような悲鳴が飛び出てきて、「やはり魔女だったんだ!」と、野次馬が叫んだ。

 果たして、本当に彼らは魔女だったのか? 泊めてあげたのに、私の身体に呪いをかけて、子どもができないようにしていたのだろうか?

 エルザの眼前にある真実は、ペーターの家族だった人たちが、爪先から順に、灰となっていくことだけ。魔女かどうかなんて、判断できない。

 悲鳴は、次第に呻き声になっていく。祈りの言葉にも似た、小さな声に。やがて、パチパチと炎が燃えさかる音しか聞こえなくなったとき、もういいだろうとエルザは判断した。「ダミアン」と、彼の新しい名前を呼びかけて、エルザはハッとする。

 燃え尽きた彼ら、轟々と音を立ててすべてを浄化する炎を見守るペーターの目に浮かぶのは、恐れや怯え、ひとりだけ助かったことに対する負い目などでは、決してない。

 これは……恍惚エクスタシー

 まるで、神にまみえたかのように、涙の膜がうっすらと張り、唇には微笑みにも似た表情が浮かぶ。

「ペーター、あなた……」

 思わず本名を呼んだエルザは、彼の股の間に現れた異常に、気づかなかったふりをした。子どもとばかり思っていた彼が、今この場で

 ひとつ大人の男に近づいたことを知る。

 心臓は、処刑が始まったときよりも嫌な音を立てて激しく動いている。

 もしかして私は、とんでもないものを目覚めさせてしまったのかもしれない……。

「もういいよ、姐さん」

 ひとり、またひとりと返っていく人々は、誰も自分たちに注目していない。

 ペーターの目は、どこか彼の兄たちに似ている。

 先を行く彼の足元、一輪の野花がぐしゃりと踏みつぶされたのを見て、エルザの目の前は、絶望に真っ暗になった。

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魔のめざめ 葉咲透織 @hazaki_iroha

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