第2話
翌朝、ペーターは早くに夫に連れられて、詰め所へと向かった。エルザは留守番を言いつけられた。
「いい? ペーター。やっていないことはやっていないと、正直に答えるのよ」
何度洗っても落ちないしみで薄汚れた洋服を、せめて印象がよくなるようにと皺を伸ばして整えてやりながら、エルザは言い聞かせた。
これからどこへ行くのか、家族がどこへ行ったのか、何も知らないペーターは、エルザの言葉に首を傾げつつ、頷いた。幼心に何かを悟っているのか、彼は無言である。
「ペーター、行くぞ」
顔を強張らせた夫に手を引かれ、幼子はエルザを振り返り振り返り、街外れの憲兵の詰め所へと向かう。
不安げに揺れる目で見つめられると、「待って!」と、手を伸ばしそうになる。ぐっと押しとどめるのは、姑だ。彼女の目にも涙が溜まっている。
ああ、心は皆、同じなのだ! ホッヘンハイム家の人たちが何かをしてしまったのだとしても、ペーターがそこに荷担するはずがないのだ!
「お義母さん!」
自分よりも小さな、しかし柔らかな身体に抱きついて、エルザはさめざめと泣いた。幼くか弱いペーターの身を思って。
ホッヘンハイム家の人間が、結局どのような罪で裁かれ、どの程度の刑罰を受けるのか。「あのドブ浚いの一家でしょう? いつも汚らしい格好でうろついていて、やっぱりね! って感じ」
「そうよねえ。特にあそこの家の息子たち! うちの孫をいやらしい目で見てくるんだから、気持ち悪くて仕方なかったわ」
「あんたんちの孫娘って……まだ十歳じゃないか!」
井戸端会議に夢中になっている女たちの傍を、エルザは買い物かごを抱え、急ぎ足で通り過ぎる。
早く立ち去らなければ、食ってかかりそうだった。
そりゃ、兄たちは何をしているかわからないどら息子よ? けれど、あそこの三男坊は、心優しい男の子なんだから、一緒にしないでちょうだい!
「おい、聞いてくれよ。こないだ捕まった、掃除夫の一家がいただろ」
「ああ」
まったく、どこもかしこもホッヘンハイム家の話題が尽きない。この街では、酔っ払いや不良同士の小競り合いは数多あれど、大きな犯罪が起きたことがないからだ。
どうしても一瞬は立ち聞きをしてしまう自分を恥じらいつつ、エルザはなるべく聞かなかったふりをしようとする。
しかし、
「ありゃ、ただの犯罪一家じゃないぜ。一家全員、魔女だったんだってよ!」
という知らせが耳に飛び込んできた瞬間、おかみさんがおまけでくれたリンゴが転げ落ちた。
エルザはそれを拾うでもなく、情報通気取りの青年の元へつかつかと近づいていって、「それは本当?」と、話しかけた。
見知らぬ人間に横槍を入れられた男は、「ああ?」と不機嫌そうだったが、相手がエルザ――これでも一応は、鈴懸亭の看板若おかみである――と見るやいなや、頬を赤らめ、どぎまぎと返した。
「間違いないよ。明日には、隣の街へ移されるんだってさ。ほら、ここにゃ異端審問官様がおられないからな……」
「あの家には、小さな男の子がいたじゃない? あの子も魔女だっていうの?」
Nein《いいえ》、と答えてほしい。
エルザの願いは、届かなかった。
翌日昼、街の広場は大いに盛り上がっていた。
何せ、公国中を呪っていたと思われる魔女の一家が移送されるのだ。ひとりでも滅多なことなのに、一家全員が魔女! 一目見ようと、多くの人が集まっていた。
「男でも魔女っていうのか?」
「そういうもんらしいぜ」
「あそこんちの鶏が一気に死んだことがあったろ? あれも魔女の呪いのせいらしい」
「なんておっかない!」
無責任な群衆たちの中、エルザは夫に支えられて、かろうじて立っていた。「大丈夫か?」心配してくる夫に小さく頷き、エルザは固唾を飲んで見守っていた。
駆り出された自警団員たちが、熱狂の塊となった野次馬たちを抑えつけ、移送の通路を確保している。
鐘が鳴る。街全体に響き渡る警鐘は、毎日時刻を告げる教会の鐘と違い、厳かさはまるでない。甲高く、不揃いだ。大火や洪水、大災害のときに人々に危急を知らせる不協和音は、心をざわつかせる。
果たして、尾を引く余韻すらも消えたとき、馬車がゆっくりと進んできた。道中すらも刑罰の一部なのだろう。幌すらかかっていない荷馬車の荷台に、家族全員が詰め込まれて小さくなっている。
彼らはいつも以上に薄汚れていた。風に乗って、垢の臭いが漂ってくる気さえする。成人している両親、兄たちは、顔の原形を留めていなかった。
あまりの悲惨さに、エルザは遠くから見ているだけで、気絶しそうだった。しかし、周囲の人々はそうではないらしい。
顔を殴られ、怪我をしているだけでは拷問とは言えないぞ。四肢を切り落としてしまえ!
魔女の所業のすべてを吐かせるには、そのくらい必要だと、小声で言い合った。
馬車の中には、ペーターもいた。親兄弟たちよりはずいぶんと手心が加えられているが、それでも彼の頬は真っ赤に腫れていた。
「ペーター!」
叫びかけたエルザの口を、夫の大きな手のひらが覆った。料理人の、今朝締めたばかりの鶏の臭いが染みついている。
ペーターの手は、血の臭いなどしない。花の、緑の、土の、自然を自然のまま愛する人間の手の香りがするのだ。
人を掻き分け、見せしめの馬車に近づこうとするエルザの頬を、夫は初めて叩いた。幼い頃から、どれほど我が儘を言っても笑って許してくれた夫が、これほどまでの剣幕を見せたことはない。
「駄目だ。わかるね、エルザ。あれを庇えば、君まで魔女だと疑われる」
夫はずいと身を乗り出し、エルザの視界を遮る。だが、エルザには見えている。
ペーターの若草の目は、もはや溌剌とした少年の目ではない。
あれは、絶望を受け入れ、抵抗を忘れた人間の目だ。
もがくエルザを、夫は再び強く張り、そのまま抱えて人混みを抜け出した。家に帰ると、そのまま義家族総出の説教と説得を受ける。
「もう、俺たちにゃあしてやれることは何もない」
ホッヘンハイム家の人たちを馬小屋に泊めていたせいで、犯罪者を庇っていたと思われている義父は、嫌そうな顔で吐き出した。
「そうよ。ペーターのことはかわいそうだけれども……でも、仕方ないの」
夫に二度も叩かれた頬を手当てしながら、姑は目を伏せた。
「僕たちには、エルザ、君の方がずっと大事なんだ。だからもう、あの人たちのことは忘れよう」
夫に肩を抱かれ、エルザは小さく頷いた。
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