魔のめざめ
葉咲透織
第1話
濃い灰色の雲が、重苦しく立ちこめる朝だった。鶏が鳴いても、太陽が顔を出さない。春とは名ばかりの、肌寒い日。
暖炉に火をつけるかどうか、姑と夫は軽く言い合いをしていた。
数日前、もう暖房は必要ないだろうと結論していたため、夫は火を炊くことに消極的だった。姑は膝が悪い。冷えが辛いのだろう。「あなた。今日のお客さんの中には、お
エルザの実母はすでに
妻の説得に、夫は咳払いをした。「まあ、昼になれば暖かくなるかもしれないしな……」と。エルザは姑と目配せし、微笑み合った。
州都と海沿いの商業都市を結ぶ街道の途中にあるこの街は、小さいながらも旅行者や商売人で賑わう。宿屋はもちろん複数ある。競争に打ち勝つために、細やかな心配りや工夫が必要なのは、夫もよくわかっている。
エルザの仕事は、主に宿の受付業務だった。宿泊客の出迎え、見送りを一手に引き受けている。
「暖かくしてくれて、ありがたいよ」
州都に住む息子夫婦のところに向かうという老人は、頭を何度も下げていった。
「エルザ。そっちが終わったら、芋の皮むきを手伝ってくれないか?」
夫と舅は朝食の後片付けが終わるやいなや、夕食の仕込みに取りかかる。ふたりの作る食事は、この
「はい!」
エルザが元気よく返事をしたちょうどそのとき、来客があった。
宿泊客がやってくるのは、三度目の鐘が鳴ってからだ。一般の人たちの労働の終わりからが、宿屋が忙しい時間帯である。
何らかの事情があるとしても、昼の鐘の前では、部屋の準備ができないから断っている。
おかしな時間の訪問に眉を顰めたエルザが応対に出た。
「ここは鈴懸亭で間違いないか?」
居丈高な物言いの男は、後ろに部下をふたり連れていた。物々しい格好は、街を守る自警団ではなく、憲兵だ。
「ええ……はい、あ、ちょっと待ってください! お
突然のことにエルザは、慌てて厨房に夫たちを呼びに行った。
「ホッヘンハイムさんたちが?」
厨房に入り、下ごしらえをしていたエルザは、事の顛末を聞き、思わず包丁を取り落とした。
「おっと」
拾い上げた夫は、「危ないじゃないか」と注意をし、エルザの驚きをよそに、包丁を流しに置いた。
ホッヘンハイム一家は、掃除夫をしながら公国各地を転々としている。便所の汲み取りやドブ浚いなど、誰もやりたがらない仕事を、金銭をもらって仕事にしている彼らには、馬小屋を貸していた。
汚れ仕事をする彼らを、宿に泊めることはできない。一家もそれをわかっていて、馬小屋に安く連泊することを承知している。
憲兵は、彼らを逮捕しにやってきた。別の犯罪者が、「おれはあの、ホッヘンハイムの連中と一緒に仕事をしていたんだ」と告げたそうだ。
「まさか、そんなこと」
エルザは青ざめる。だが、夫は対照的に、冷静であった。鍋の中身を掻き混ぜ、味見をして眉根を寄せる。舅の味にはまだまだ敵わない。少し考えた末、塩を追加する。
舅はホッヘンハイムを引き渡し、そのまま憲兵の詰め所で取り調べを受けているため、不在である。
犯罪者をそれと知らずに宿泊させていたのだ。弁明しなければならなかった。姑も気に病んで寝込んでしまったため、若夫婦ふたりで、今日の宿泊客を捌かなければならない。
エルザは夫の指示に従い、豆の筋を取ることに専念する。家族で食べる料理は姑と一緒に作るが、客に出す料理の大事な部分は、男たちに任されているから、エルザがこの厨房でできることは、雑用しかない。
「ホッヘンハイムさん、さすがにそんな風には見えなかったけれど……」
中年の夫婦のもとに、男ばかりの三兄弟。そのうち上のふたりは、エルザとそう年が変わらず、人妻だと知りながら、露骨に誘いをかけてくる連中だった。両親にしても、
それでも、殺人や盗みなどの重大な犯罪に関わったとは思えない。どちらかといえば小心者で、犯罪を行う側というより、それを密告して小金を稼ごうとする人間たちだと思っていた。
そんな両親と兄に抑圧されて、末っ子のペーターはよくもまぁ、あれだけ歪まずに育ったものだ。
十に満たない年齢の彼は、花が好きな優しい子どもで、しおれかけた花を摘んできては、「元気な花は、摘んでくるのがかわいそうだから」と、エルザにお土産としてくれるのだ。
そのときのはにかんだ笑みが、なんと可愛らしいこと。
エルザはハッとして、夫に食ってかかった。「あなた! 一家全員が逮捕されたって、まさか、ペーターも!?」
あの心優しい子どもが犯罪に関わっているとは、到底思えなかった。エルザの問いに、夫はのんびりと、「そういえば」という顔で答える。
「ペーターは、いなかったな。遊びにでも行っているんだろう。帰ってきたら、詰め所に連れて行かないと……」
みなまで聞かず、エルザは豆の入ったザルを放り出した。まだ手をつけていないものと混ざってしまう。
「おい!」と、夫が怒鳴るのも聞かず、エプロンで手を拭き、宿を飛び出した。
「エルザ!」
ペーターの居場所は、だいたいわかっていた。ひとつ所に滞在せず、常に旅をしている彼には、友達がいない。ひとりで郊外の森に繰り出し、家族の仕事が終わる夕方までの間、遊んでいるのを知っていた。
お義父さんやホッヘンハイムさんが、憲兵にペーターの存在を明かさないでいればいいけれど。
エルザの楽観的な希望は、おそらく叶えられない。憲兵相手に隠匿や嘘は通用しない。彼らは執念深く、尋問で人を追い詰める。
もしかしたらすでに、ペーターを探し当て、確保しているかもしれない。
走ったせいだけではなく、焦りで胸が苦しくなる。上がる息で、「ペーター! ペーター、どこ?」と必死に呼びかけると、三度目でようやく、ひょっこりと少年が姿を現した。
くすんだ金の髪に、若草色の目。森で何をしていたのか、頬や服は、土で汚れている。「ペーター!」
エルザは自分が汚れるのもいとわずに、幼い子どもを抱きしめた。
よかった、無事だった。
何も知らないペーターは、無垢な瞳で「エルザ
連れ帰ったペーターの身体を拭き、着替えさせたエルザは、宿の中に入れた。馬小屋しか知らない哀れな子ども――同じく
「すごいね。王子様のお部屋みたいだ!」
無知というのは純粋で、エルザには眩しく、そしてより一層悲しく映った。涙を隠しながら、エルザは部屋を去った。
宿泊客は少ないからと、夫はペーターを部屋に入れることに同意した。さすがは自分の愛する夫だ。善良な子どもを守るために、一緒に頑張ってくれるのだろう。
だが、エルザの期待は、ふたりの寝室に入り、さあ寝ようとしたところで打ち砕かれた。 先にベッドに入っていた夫の隣に潜り込もうとしたところで、新たなレシピを思案していた彼が、目も合わせずに言った。
「明日、朝一番にあの子を詰め所に連れていく」
と。
寝耳に水で、眠気など吹き飛んだ。入りかけたベッドの上に、エルザは飛び乗る。突然のことに、夫は目を丸くする。
エルザは彼の寝間着の襟首を掴んで、揺さぶった。幼なじみの彼は少し年上で、エルザの行動に慣れている。少しも怒らずに、「どうしたんだい?」と、のんびり言った。
「どうして!? あの子は何にもしていないのよ!?」
「それを決めるのは、僕らじゃない。憲兵なりなんなり、ふさわしい立場の人が判断するよ」
十にもならない子どもが、いったい何ができると言うのだろう。エルザに「いつもありがとう。母さんや兄さんたちが、ごめんなさい」と花を渡してくれる、優しい子どもだ。
「子どもは親を選んで生まれてこられないわ、ゲオルグ。たとえ両親やお兄さんたちが悪い人間であっても、ペーターだけは違う。私にはわかるの」
舌がもつれそうになりながらも、エルザは夫を説得する。そうだわ、と手を打ち、
「ペーターはホッヘンハイムさんの子どもじゃない。私たちの子どもだと言い張るのはどうかしら!?」
名案だと主張すると、さすがに温厚な夫も、「馬鹿を言うな!」と、怒鳴りつけた。
「僕たちは結婚して三年しか経たないんだぞ」
あんな大きな子どもがいるはずがない。少し考えればわかる。たとえ周囲が協力してくれたとして、憲兵も馬鹿じゃない。疑われ、より一層ペーターは窮地に追いやられる――。
逆に夫に説得され、エルザは不承不承頷いた。悲しげな目の夫が、額にキスをしてくる。
「エルザが優しくて、
「……ええ」
愛する夫の頬にエルザもキスを贈り、彼の隣に潜り込んだ。
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