落語専門誌月刊『らい・らっく』令和六年十二月号特集記事より抜粋
山本楽志
第1話
九月二十二日、残暑というよりは酷暑がまだ日本列島に居座っている最中、「第二十三回鳥ッ九・条可二人会 謎は全て解けた?」が開催された。前回よりおよそ一年ぶり、場所は区民ホール
「もともとできるだけやろう、できたらやろうでやってきましたからね」(
「最初の頃なんて公園でやってたんだから、あそこよりがらんとしたところもないよ」(
人を食った様子も相も変わらずだ。
ところがいざ高座となれば二人とも、丁寧過ぎるほどの所作を見せるのだから、それもまた人を食った態度である意味首尾一貫しているともいえる。
演目は鳥ッ九が「権助魚」と師匠譲りで今回ネタ下ろしという「笠碁」、条可はとある噺に「青菜」の計四席。
湊条可というと、特にホール落語ではマクラが長くなりがちと名高いが、二ツ目のとにかく口をつくままにしゃべりまくっていた頃とは違って最近は噺本編との練り込みが感じられるようになってきた。
今回の一席目が、まさにその典型で、果たしてどんな噺につながるものか、読者のみなさんも想像しながら、以下の書き起こしマクラで高座の雰囲気を味わっていただければと思う。
*
久しぶりの鳥ッ九さんとの二人会ですが、変わらずの足のお運びまことにありがとうございます。
今回からこちらの叶町会館にお邪魔することになりましたが、幸い迷子もなく定時開催で万事快調なすべり出しですね。やればできるじゃないの。
カーナビのお世話になったかもしれませんし、人にたずねられたかもしれません、スマホの地図機能を使ったかもしれない、やけくその行き当たりばったりで来たなんて人もいるかもしれませんが、皆さんはとにもかくにもたどりつきました。
そんな方ですと想像がつかないかもしれませんが、世の中、道に迷う人がいまして、こういう人はほんと迷うべくして迷ってますね。
ぼく、湊条可は、今年で真打になりまして四年目です。二ツ目は九年やりましたが、落語で食えるようになりましたのは二ツ目も六年目に入ってからで、それまではいろいろとアルバイトを掛け持ちしておりました。
一番長くやったのがコンビニです。レジ、品出し、発注、他のバイトのシフト作成までやりまして、店長やらないかなんて言われてたんですよ。ぼくに。恐れ知らず過ぎるだろ、〇〇〇〇
このコンビニですが、道案内も大事な業務の一つなんです。今日もこちらに来るのにお世話になった方もいらっしゃるんじゃないですか?
いや、手は挙げなくていいですよー? そちらの方も、肩がピクッとしたでしょ? こちらからはよくわかるんです。
ぼくの勤めていた店舗は、駅から歩いて十分ってところだったんですけど、住宅地に面していて、お客様は御近所のみなさんがメインだったので、当初はほとんど道を聞かれることはありませんでした。ところが、何年くらいした時だったかなあ、急に増えだしましてね。目的地は決まってるんです。
その住宅地のなかにあるレストラン。
フランス料理らしいんですけど、気取った店じゃなくてビストロの、家庭料理に近いリーズナブルで、たまには贅沢しようかなって時に気軽に入れるくらいの敷居の低いところだったみたいです。みたいっていうのは入ったことないからね。
そこがテレビだかネットだかの紹介で隠れ家的名店みたいに取り上げられまして、一気に人気出ちゃったんです。
出ちゃったは失礼か。それはそれとしてその店が、周りは民家で、それほど大きく看板を出しているわけでもないし、もちろん道先案内の標識なんかもありません。
自然うちに来て道を聞いていくお客さんが増えたわけです。増えたのは、それはまあいいです。ついでに何か買っていってもらえればもっとよかったけど。ところが不思議なことに、自分から道をたずねておいて、こちらの案内を聞かない人が案外多いんですね。
「君、ビストロ・ブローニュはどう行けばいいんだね?」
「はい、それでしたら、当店を出て右に曲がっていただいて、次の交差点を左に曲がって、それからの三叉路をまた右にいったところにあります」
それで店出るなり左に行っちゃうんだから。
そんな不毛な道案内を日々くり返しておりました二ツ目時代のこと。
道に迷う人は迷うべくして迷っていると言いましたけど、迷うはずのないところで迷うなんてことも時にあります。
「九頭竜落語会」は年に一度、福井の山側で開かれるイベントなのですが、それが三十回の節目を迎える記念に、週末の二日間を使って演者も客席も増やした特別公演を行うことになりました。
そこにぼくと某師匠が前入りすることになったんです。
まだ存命なので差し障りがあっちゃだめだから念のため匿名で。いや、全然悪い話じゃないんだよ。
ここ隠しとくだろ、すると当の師匠じゃない他の師匠だって「ああ、俺のことだな」って思ってくれるんだ。ちなみに、逆に悪い話しても「ああ、俺のことじゃないな」って思ってくれるからね。
そんなわけでその師匠と仲良く会場のある村に入りました。二人ともたまたま別々に京都で仕事があって、一度東京に帰るよりはそっちに向かった方が早いってことで、それでご一緒することになったんです。宿も用意してくれるって話だったからね。
いいところでしたよ。
山間の温泉郷で、ほどよく開けてなくて、谷になった川の両沿いに宿が何軒も建っていて、全体に湯気が立ちのぼっているのが感じられるんだ。
着いたのが四時少し前くらいだったけど、周りの山のおかげで暗くなるのが早いから、ぽうと玄関の明かりがもっているのがおもむきがあってね。
その時泊めていただいた
しかも出迎えは女将さん直々だもんで、こちらは緊張して師匠の後ろで小さくなるしかなくてねえ。
部屋まで案内していただいている間にうかがったところ、落語会の主催にはこの旅館も名を連ねてくださっていて、女将さんも落語をはじめ演芸全般にお詳しくて、
「湊条可さんですよね」
なんと名乗る前からぼくのことも知ってくださってたんですよ。真打になった今ですら、東京でも知られてないのに。
そうした立場ですから以降の段取りも心得たもので、部屋についてお茶を用意しながら伝えてくださいました
「明日からのことにつきましては、夕飯後に係の者がうかがわせていただきまして、高座の順番などを相談させていただきたく思っておりますがよろしいでしょうか」
「あいよ」
荷物を置くなり、女将さんの前でもかまわずに、早々に浴衣に着替えだしていた師匠が快活に返答しました。
それで夕食までは時間が空くことになってしまいました。
「なにぶん田舎ですから、これといった見所もありませんが、裏手の神社は昔から霊験あらたかということで、各地から参拝の方が多くいらっしゃいます」
よっぽどぼくが手持無沙汰な顔をしてたんでしょうね、女将さんが教えてくださいました。
「もとは大きな稲荷神社だったらしいんですけど、明治の頃にその本殿に別の神様をお祀りして、お稲荷様は奥の院としたんだそうです。それでも今は両方ともに大変盛況で。ただねえ……」
「ただ?」
「この時間ですと、たまに神隠しっていうんですか? あれがあるらしいんです」
「はい?」
「あらっ! すっかりお邪魔してしまいまして。夜の御膳は七時にお持ちするのでよろしかったでしょうか? それでは失礼いたします」
一番気になるところを女将さんは言いっ放しで出て行っちゃいました。
「女将にかつがれたな。冗談だよ。おいらはこちらに何度かお邪魔してるけど、そんな話、これっぱかしも聞いたことがないや」
ぽかんとしておりますと、座椅子に腰掛けて、もうすっかりくつろぎの態勢に入っている師匠が笑いながらそう言ってきました。
「条可君もゆっくりしたらいい。って、男同士面突き合わせていてもつまらねえか。どうだい、ひとっ風呂浴びてきちゃ」
「それでしたら師匠からお先に……」
「なに、おいら、もう座り込んじまったからさ、こうなると立ち上がるのも億劫なんだ」
そう言われて遠慮しすぎるのも失礼ですから、「それじゃあ」と聞かされていた大浴場に向かいました。
石造りの立派な露天風呂でねえ。まだ早いからか独占しちゃって最高だったね。
その前のぼくの京都の仕事は、今もやらせてもらってるラジオのレギュラー番組の収録でした。なんでこちらは慣れたものだったんですが、その後、初めての路線で、他の一門の師匠を連れての移動でしたから、気疲れがあったんでしょうね、湯に首まで浸かると「ああー」って声が出たっきりしばらく動けなくなってしまいました。
そうして、どっぷり浸かって、ぼくもやっと浴衣に着替えまして、気持ちもほぐれたところがですよ。
部屋に戻ってみれば、師匠がいなくなってるじゃありませんか。
あわてました。
このあたり二ツ目の悲しさなんだ。自分の師匠じゃなくても、万一何か連絡があった際に「師匠は?」と聞かれて「知りません」じゃすまないわけ。
一応トイレかと思って五分ほど待ってみても戻ってくる気配もない。玄関にいた仲居さんにたずねてみると、やっぱり外に出掛けたということで、ぼくも表に飛び出した。
飛び出したはいいけど、初めての場所だから土地勘なんてあるわけない。まず右見て、次に左見て、もう一度右を見て、
「すみません! このあたりでちょっと出かけるとしたらどのあたりになりますかね?!」
夕方の温泉街の人気のない薄暗さを確認だけして、宿の玄関にUターンですよ。
親切に教えてくれた場所へ、木製のつっかけからころ鳴らしながら急ぎました。
遠くて近いは男女の仲、近くて遠いは田舎の道なんていいますが、案外と本当にすぐのところに何軒か居酒屋とかスナックが集まっています。けど暗くなりかけているっていったって、まだ五時になるかならないかって時間だから、どこも準備中かオープンして間もなくで明らかに客の姿はない。
「いらっしゃあい!」
ぼくも客商売してたからわかるんです。開店一番に入ってきたのが客じゃなかった時のがっかりは。けどしかたないから、うれしそうな挨拶の声から一転、露骨に不機嫌になっていくママさんの目にさらされながら、五十年配のこれこれこうした人物は来なかったかって聞きましたよ。
案の定どこの店でも知らないと、つっけんどんな返答ばかり。
次いで一軒だけやっている土産物屋の、皓々と発している明かりに飛び込ました。
こちらはもうそろそろ閉店しようかと片づけをはじめています。
「いらっしゃあい!」
わかる! わかるんだよ! ぼくも客商売してたから! その日の最後に入ってきたのが客じゃない残念さは!
スナックと似たような刺さりそうな視線にさらされて、スナックと似たような返事をもらって、とぼとぼと出てくるしかありませんでした。
困りました。もともとそれほど大きな町でもないんです。探す場所なんて数えるほどです。
「はあー」
ため息だってこぼれますよ。
そう、もう探していないところいえば、先ほど聞かされた、神隠しがあるかもしれないとかいう霊験あらたかな神社しかなかったんですから。
女将の説明の通り、
旅館脇から渡されております橋を越えて対岸の小道を歩めば、すぐに鳥居が目の前に見えてまいります。木肌がむき出しではありましたが、つけられた
成人の男子であればつい身を屈めてしまう高さの鳥居をくぐりますと、石段が山肌に沿うて設えられています。けれどもこれは一直線に伸びるのではなく、左に右にと何度も折り返してのぼっていっておりました。
カランコロン
つっかけの音だけをうつろに響かせて石段を上っていきます。道幅は狭く、もし前から誰か下りてくる人があればすれ違うのも苦労しそうなほどです。
傾斜はなだらかなものの、歩いた距離と実際の高度の差がつかみづらく、また生い茂る木々から葉の密集した枝が覆いかぶさるように突き出てくるため、見上げてみてもあとどのくらいあるものかわかりません。同じような山道に感覚が鈍くなりはじめた頃、それまでとは異なり整列した石畳とその左右に敷かれた玉砂利が不意に目に入って、境内に足を踏み入れていたことに初めて気づいたほどでした。
もっとも、到着してみますと、御佳初午神社は狭い石段からは想像もつかないほど立派な景観を誇っています。石畳の参道はまっすぐ最も大きな本殿へと向かい、周囲や奥にもいくつかの社殿が見受けられ、規模の大きさがうかがえました。
それでもここが山上ではないらしく、本殿の裏は一層影が濃く、大きくそびえるシルエットが宵の暗がりの内にもうかがえました。
それにしても暗いです。山稜が黄昏時の斜陽を遮ってしまい、空は一際濃くなった藍色で染まり、あたりもとっぷりと薄闇で浸されてしまっています。内に電灯を備えた石灯籠がぽつぽつぽつと境内に置かれているのですが、とても足りません。むしろ灯籠自身や建物の陰を深めているようですらあります。
その石灯籠の橙色の明かりに照らされておぼろに伸びるぼくのものを除き、境内に人影は一つもありませんでした。
「師匠、いらっしゃいますか……?」
念のためにかけた声もすぐに消え入ってしまいます。
社務所らしい建物も既に閉ざされていて、内からは明かりも漏れてはいません。
ともかく本殿に参拝だけでも済まそうと賽銭箱の前に立ちますと、どうやら一日中流しっぱなしらしい手水舎から水の垂れる音がやけに聞こえてきます。
そして振り返ると自然手水舎のあたりに目がいき、一つの灯籠の明かりの辛うじてかかるあたりに、小さな看板が掛けられているのに気づきました。
――稲荷神社(奥の院)参詣道
矢印の下で、陰になかば溶け込みそうな朱色でそう書かれています。
女将の話を忘れていたわけではありません。けれども、かつては本社として祀られていたという稲荷神社も、陰になっているこの境内のいずれかの建物だと思い込んでおりました。
ところが立てかけられた看板は、ここまで上ってきた石段より更に狭い小道で、山を奥に進むように誘っていました。
奥の院へと伸びる小道は、幸い傾斜はなだらかなものの、左右を木々が立ち並んでいるため、いよいよ夜の闇が下りてきているようでした。
わずかに湾曲しているようではありましたが一本道で、先にぽつんと明かりがともっているのが見えるためなんとか進んでゆくことができます。
その外灯は石造りの狐を照らしておりました。ぼくの腰くらいの高さの台座で、赤い前垂れをつけられた白い小さな像ではありましたが、稲荷神社の境界を示すかのようでした。
その狐の像の左手には先ほどと同じような看板が立てられていたのですが、その矢印の指す先を見て愕然としました。狐を挟んで右、すぐに曲がり角になっていて、首を伸ばしてのぞき込んでみても、今度は頼りになりそうな照明の予感さえなく、鬱蒼とという形容が実にしっくりとくるほどに不気味な静けさで満たされていたのです。
「えー……」
思わずのけぞって外灯を見上てしまいました。昔ながらの裸電球に年代物の傘をかけただけの簡素なその照明には、大きめの蛾が一匹しきりに飛び寄ってきて、球面に頭をぶつけています。
しばらくそれを眺め心を決めました。どの道ここまで来て引き返すという選択肢はありえません。
そもそも看板で示されている正式な順路なのですから、おかしなことなんてあるわけがない。そう勇気を奮い立たせます
ところがほんの数歩進むなり、その勇気がみるみる阻喪してゆきました。
まず道が明らかに悪くなりました。
かろうじて飛び石で舗装がなされているようでしたが、落ち葉や木の実、樹皮などが積み重なっていて、ともすると足を取られそうになります。またそのために、上ってきた時にはあれだけ響かせていたつっかけの音も飲み込まれてしまい、がさがさと自分が立てているのか疑わしくなるような擦り音しか聞こえてきません。
小道を挟む木々も一層背が高くなり、左右がどうなっているのかまるで見通すこともできません。
一度だけ振り返ってみましたが、まださほど歩いていないはずなのに、もう曲がり角の外灯は暗がりに消えてしまっていて、かわりに道の上にまで被さってきていた大振りの枝が、風もないのにゆらりゆらりと振れるのが目に入り、すぐに再度回れ右をいたしました。
暗がりのなかを足を進めます。いっそ大股で歩いていきたかったのですが、積もった落ち葉などが足元を覚束なくさせますし、ほとんど感触のつかめない飛び石の、その合い間には樹木の根や天然の岩が突き出していて、下手に駆けようものなら転倒しかねない。
自然歩みは小さく時間をかけたものになります。
自分でもじれったくなるほどにおそるおそる歩いておりますと、やがて先に曲がり角があり、ぼんやりと明かりが差し込んでいるらしいのが知れました。
やれやれと胸を撫で下ろすと、現金なもので足取りも軽くなりました。
そして明かりの漏れる曲がり角へとたどり着きましたところが、
「え?」
つい声に出してしまいました。
山の中腹に開かれた立派な境内。
そこは御佳初午神社本殿前でした。
あっけにとられて境内に再び入ると、玉砂利を踏みしめて、敷かれた石畳の上へ。カランとつっかけの音が刻まれます。
ぐるりと見まわしてみましても、やはり先だって訪れた境内に違いありません。置かれた石灯籠の数、参道の両側に配置された狛犬、手水舎、そして本殿の威容には覚えがあります。
奥の院の稲荷神社へと向かう看板に従い進んできたはずなのに、ここに戻ってきてしまっているのはどうしたことなのでしょう。
もしかして、暗がりのどこかに、また別の看板か、それとも社殿そのものがあったのを見落としてしまっていたのか。
わけがわからないままに、ほとんど無我夢中で、ぼくはふらふらともう一度、あの石灯籠に薄く照らされた朱文字の看板の指す方へと足を踏み入れていました。
時間を調べてみればまだ十分ほど過ぎたばかりでした。しかし、その分もしっかりと夜は深まっていて、古ぼけた外灯のあたりは、丸く橙色に浮かんでいるように見えました。
裸電球にはやはり蛾が触覚のついた頭を摺り寄せようとしています。
狐の石像脇の「稲荷神社(奥の院)参詣道」という看板にまた従って角を曲がります。
二歩三歩と進むと、ふっと足元がたちまち暗くなり、外灯の明かりの輪から外れたことを知らされました。けど、今度は振り返りません。
かわりに小道の左右に慎重に目をやっていきます。山肌を掘り下げた跡や、密生している木々やその下の藪に人が通るような隙間はないか。もしくは稲荷神社そのもの、お社や鳥居が見えないかを探します。
けれどもそれるようなわき道もありませんし、かろうじて狭い木々の間から暗がりをのぞき込んでも建物らしきものは見当たりません。
それにしましても、夜が忍び寄ってきているからでしょうか、ほんの少し前に通ったばかりだというのに、小道には記憶に触れるものが一切なく、まったく初めて通るようです。
そうして、やはり不意に曲がり角が現れたかと思いますと、いかにも誘うかのようにほのかな明かりがこぼれ出ているのでした。
三度、ぼくは御佳初午神社の本殿前に出ました。
わけがわかりません。
石畳をつっかけで小走りになって、再度朱の字の看板を横目に見て山道へと入ります。
外灯の浮き上がる輪が足を踏むたびに大きくなり、狐の像の待つ曲がり角へとたどりつきます。
傘の下の裸電球には大きな蛾が、しかし、今度は二匹になっていました。
そこでも看板の矢印に従いますと、背後の明かりを振り切るようにして小道を進みます。
せわしなく首を左右に振り、何か見落としがないかを探りますが、結果は変わりません。それどころか、あれだけ慎重に調べていたのに、ぼくを挟む樹林や灌木の姿はまたも初めて目にするようなのです。
その時、風が吹きつけてきました。
生温かい草いきれが腕や首もとを撫でてゆきます。
その風はこれまで静まり返っていた左右の木々をざわめかせはじめます。
枝や葉が擦れ合わされざわざわと掠れた音を発します。それも一か所や二か所じゃありません。右と左の林のそこかしこでの軋りは、響き合わせて、ぼくを囲い込むようです。
そして、意識しなくともいやおうなしに耳に入ってくる枝葉のざわめきは、かえってそれ以外を際立たせました。
断続的に続く微風は、別の物音も運んできたのです。
囁きでした。
内容は聞き取れませんが、二人かそれ以上での話し声のようです。
「…………ぇ……」
「……ゎ…………」
「………………ぃ」
単語の一端か、せめて方向だけでも判断がつかないかと、耳を澄ましたその途端、
――ギャアッ!
悲鳴とも叫びともとれない声が鼓膜を撃ちました。
たまりませんでした。
「うわああああああああああああっ!」
それまで張り詰めていたものがぷつりと切れたように、矢も楯もたまらずぼくは駆け出してしまっていました。
暗い山道を、足もとの危ういつっかけで遮二無二全力疾走です。迫り出した木々をかすめ、木の根や岩にこけつまろびつしそうになりながらも、むしろそのたびごとに恐ろしさが足を速めさせます。
やがて現れた曲がり角を全身を使って折れますと、今度は目の前に、薄ぼんやりとした白いものが立っているじゃありませんか。
「うわあああああああああああああああ!」
「キャアアアアアアアアアアアアアアア!」
「あああああああああああああああああ!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアア!」
「あああああ……えっ?」
明らかにぼくの悲鳴じゃない甲高い声が混じっています。
喉がかれるほどに叫んで、かえって冷静さを取り戻すと、ぼくの目の前にいたのは白い巫女装束に身をまとった女性だと気づきました。年の頃でしたら二十代半ばくらいの、長い髪を後ろで束ねているのもよく似合う清楚な巫女さんですが、今はそんな場合じゃありません。
「な、なんですかあ、こんなところから……! へ、変質者ですか? 変質者ですね!」
ぼんやり白光を放っている手もとには、スマホが握られていました。
「違う! そうじゃない! ストップ! ぼくは道に迷っただけで!」
咄嗟に後ろに飛び退いて、両手を挙げたのは、不審ではありましたが悪い判断ではありませんでした。
「え? あら? その浴衣……、梅観荘のお客さん?」
ありがたいのは老舗の名前と信頼です。
「そう! そうそう! 決してあやしいものじゃないから! OK? アイム・ノット・アブノーマル!」
どうして英語交じりになったのか自分でもわかりませんが、懸命に浴衣と半纏に染め抜かれた泊まっている旅館の屋号をつまみ上げて見せていました。
「んもー、裏道から急に出てくるから、びっくりしちゃったじゃないですかあ」
巫女さんはようやくスマホに近づけていた指を離してくれました。
「そう言われても、ぼくは奥の院に向かおうと思っていただけで……裏道?」
「そうですよ。この境内をぐるりと囲むようになってる細い道です」
これまで小道で最後に曲がった角は社務所脇につながっていたらしく、あわてふためいて駆けていたぼくはちょうど建物から出てきた巫女さんとあやうくぶつかりかけたようでした。
「左右の両側が林になっているだけの?」
「樹木の様子を点検するための道なんです。病気が見つかった時なんかに業者さんがそこから中に入っていく用の」
「電灯がなくて」
「夜に入ることはないですからね」
「道にいっぱい落ち葉や枝が積もってたのは」
「ほとんど使ってませんから」
落ち着けば、田舎町らしい人のよさで巫女さんは、ぼくのつぶやきにひとつひとつ答えてくれました。
なるほど、あの暗い小道がどういうものかはわかりました。
けど、だとしても、どうしてそんなところに迷い込んでしまったのか――しかも三度も、それが今度は謎でした。
「もしかして分かれ道を間違っちゃったんじゃないですか?」
「分かれ道?」
「はい。途中で電灯のつけられた狐の像がありますよね。あそこがお稲荷さんへと向かう道と、この裏道の分岐になっているんです。看板は掛かってるんですけど、たまに間違える人いるんですよね」
巫女さんは、手水舎近くの山道へと入っていく看板まで改めてぼくを誘い、そこから先を手で示してからさらに身振りを交えて説明してくれました。
――ギャアッ!
その途中で、あの悲鳴のような叫びのような声が再び聞こえてきました。
「五位鷺ですねえ」
けど巫女さんは、首を竦めたぼくにこともなげにそうつぶやきました。すると直後に鳥の羽ばたく音が続きました。
「でも分かれ道なんてあったかなあ……」
ひとつひとつの説明は筋が通っているように思えたものの、けれども納得しづらいところもあり首を傾げていましたが、巫女さんの親切を無下にするわけにもいかず、ぼくはもう一度、あのぽつりとともる外灯を頼りに山道を歩くことになりました。
「暗くなってるから見落としたんですよ! 今度は大丈夫です! お探しの方ともお会いになれますから」
巫女さんは励ますように、後ろから声をかけてくれました。
――人を探してるって言ったっけ?
しばらく歩いてから、ふとそんな疑問が浮かびかけた瞬間、あの外灯のもとに人影が差すのが見えたのです。
たまらずまた走り出していました。
その人物は狐の像のあたりに向かって身をかがめているらしいのが、近づいていくにつれてわかってきました。そしてその頃にはしっかりと顔も姿も確認できました。
「師匠!」
「おう、条可君じゃないか!」
「じょうかくんじゃないか、じゃありませんよ。探したんですよ」
師匠の溌剌とした顔と声に、ほっとするやらぐったりするやらで力が抜けそうでした。
「そうだったのかい。そりゃあ苦労かけたな」
感動の再会くらいに思っているぼくと師匠の温度差がひどい。
「でもだとしたら君はお参りはまだだろう」
「いえ、下の本殿に手は合わせてきましたよ」
「おいおい、奥は別みたいなもんだぜ。芸人が縁起をかつぐのをないがしろにしちゃいかんよ。すぐそこだ、行こう」
くるりと師匠は踵を返すと歩きだしています。そうなるとぼくも従わざるをえません。
その時、はっきりと見ました。ぼくが三度も見た看板が、それまでの位置からかなり左に移動して、かわりに狐の像との間に別の道が大きく開けて矢印がそこを指しているのを。
そこからは師匠の言う通り、稲荷神社は目と鼻の先で、本殿と比べるとずっと控えめな、けれども手入れの行き届いているのが夜目にもよくわかるお社が現れました。
とにもかくにもここまで来たのだから、明日からの落語会の成功を祈念しまして、お参りを終えますと、師匠にはさんざんあちこちを探し回ったことを告げました。
「じゃあ君もこれで町を一通りめぐることができたってわけだ」
もっともそれしきで悪びれるような方じゃありません。
「それにしましても、ずっとこちらでお参りされていたんですか」
いくらなんでも長過ぎないかと含みをもたせたのですが、すると師匠は、
「なに、お稲荷様に一席噺を聴いていただいていたのさ」
涼しい顔でそう答えられました。
どうやら稲荷神社に落語を奉納していたということのようです。
先ほどの「芸人が縁起をかつぐのをないがしろにしちゃいけない」というお叱りとも合点がゆきます。
夜の帳が降りゆく中、社殿と向き合って一席披露する姿はとても絵になるように思えました。
おそらく、あの裏道で耳にした囁きは、師匠の噺の途中の掛け合いが風に運ばれてきたのでしょう。
納得しながら、ぼくの頭ではひとつの推理が組み上がっていました。
「なるほど、それでぼくは境内のまわりをぐるぐるすることになったんですね!」
高らかにぼくはそう言い放ちました。
「なんだい、藪から棒に」
「いいえ、藪から看板ですよ」
ちょうどあの外灯の下、今では分かれ道になっていますが、ぼくが見た時には裏道へと誘導するだけになっていた曲がり角に到着しました。
「師匠もかわいいところあるじゃないですか」
自分の推理を頭の中で想像してみますと含み笑いが止まりません。
「お稲荷さんに落語を奉納する際、他の参拝客が来られないよう、この看板を稲荷神社に向かう道に置いたんでしょう! そうすると、夜が近い時間帯だと看板が邪魔をして正式な順路は見えなくなるし、矢印はあちらの小道を指すことになります!」
かんたんなことだったんです。神社内の地理なんて前もって知っているわけはありませんから、案内をずらせばたやすくそらすことができます。
「どの看板を、だって?」
けれども師匠はまったく狼狽した雰囲気もありません。まったく往生際が悪い。
「この看板に決まってるじゃないですか」
「持ち上げてみなよ」
「へ?」
言われるがままに片手で方向指示の書かれた看板を持ち上げようとしますが、思った以上に重く、ぼくの体の方が引き寄せられる有様でした。
「え?」
見てみれば、看板には大きな重石がつけられていますし、鎖で手近の木に括りつけられてもいました。
「え?」
おまけに、外灯の下で照らされている地面には、看板のような重いものを引きずった痕跡はありません。
「おいら達は普段から何百人というお客様の前で座らせていただいているんだ。おまけに神様に聴いていただいているという時にだよ、どうしてたかだか数人の人の目を憚る必要があるっていうんだい」
師匠の声音は静かに、威厳を含んで些かの動じるところもありません。
「え? でも、ついさっき、師匠、後ろ向いてなにかされてましたよね?」
「改めてこのお稲荷様にも挨拶申し上げていたんだ」
あの狐の石像を示します。
「え? えええ? け、けど、ぼくは確かに、ここに看板が立てられているのを見たんですよ?」
この時のぼくは混乱することで、なんとか自分の体験した不思議をごまかそうとしていました。
「さてねえ、案外、お稲荷様がおいらの噺の間は人払いをしてくれたのかもしれないな。そういえば女将が言ってたじゃないか」
「え?」
「この時分は神隠しがあるって。お稲荷様へ向かう道が隠されて行けなくなってたんなら、これも神隠しって言やあ神隠しだろ」
その時、山のあちこちから、数えきれないほどの狐の鳴き声が響き渡りました。
おかげさまで、翌日からの落語会は大盛況でした。
こんな具合に、今でも、もしかしたらあれは狐の仕業だったんじゃないか、と思うような出来事はあるもんです。だから、時代をさかのぼりまして江戸の頃では、それこそ枚挙にいとまのないほどに、あちこちでそんな話が転がっていたものと存じます。
これからお話しいたしますのも、そんな数ある狐の噺のひとつです。
江戸の狐といいますと、これはまず王子ということで相場が決まっております。
東京北区の王子は今でこそ繁華な街並みが広がっておりますが、江戸の当時は見渡す限りの田園地帯という風景でございました……
*
というわけで湊条可の一席目は「王子の狐」につながり、本編も大いに盛り上がった。
もう一方の鳥ッ九の高座、特に「笠碁」はネタ下ろしとはいえ実に堂に入ったもので……[以下略]
落語専門誌月刊『らい・らっく』令和六年十二月号特集記事より抜粋 山本楽志 @ga1k0t2
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