泣きっ面エール

霙座

yell

 フィニッシュ地点の手前の直線沿いでで応援していた私に、ガッツポーズで通り過ぎた父親が無事ゴールした。タイマーは三時間四十五分。フルマラソンが趣味になってから二年目、聞けば五回目のフルマラソンだそうだ。いつの間にそんなに大会に出ていたのだろう。私が応援するのは二回目だ。去年地元で初開催のこの大会で、この場所で手を振った。

 たくさんの人が通り過ぎる。ゴールのアーチを見たり、タイマーを見たり、カメラを見たり、みんな完走間近だからか達成感に満ちた笑顔で走っていく。

 隣で母親がスマホのアプリを開いていた。三十キロ地点にあるバッジを確認している。


「じゃあ、かな、ママこれで行くけど、おばあちゃんと駅前のマルシェ行く?」


 駅前はマラソン大会を共に盛り上げようと大規模なマルシェが展開されていて、飲食店やステージが設営されていた。そういえば去年も父親がゴールした後、祖母と姉と三人でマルシェに出かけてご飯を食べた。あまり気にしていなかったけれど、母は去年も単独行動をしていた。


「んー、今年、お姉ちゃんいないし」


 姉は今年高校の生徒会の募集で、大会のエイドのボランティアとして参加している。講習を受けて、今日はハーフ地点のエイドで給食を配っているはずだ。ひと月前からのぼりばたやうちわの制作をしていた。推し活でうちわを大量生産している姉にとってはささやかな趣味の延長なんだろう。私は、「痛いのは気のせい」と器用に切り抜かれた画用紙と姉を交互に眺めて、生徒会ってなんでもするんだな、と思っていた。

 父は会社のマラソン仲間とそのまま打ち上げに行ってしまう。夕飯は当然別行動。祖母が「かなちゃんどうする?」と聞く。


「ママと一緒に行く」

「え? ママ、コースに応援に戻るんだよ?」

「あたしも応援する」


 答えてから、母は応援に戻るのか、と思った。今三十キロにいるバッチの人を応援するのだ。

 祖母はそれはいい、と喜んだ。私が自分が運動するのはそれなりに好きなのだけれど、人の応援にあまり力が入らない……興味がないことを知っている。


 私が移動する間も、絶え間なく走る人は流れていく。つってしまったのか足を引きずりながら歩いている人も結構多い。秋にしては高い気温で風も強かった。母の後ろを漕ぐ私の自転車も進まない。向かい風には弱いのだ。自転車で移動してきたのは三十五キロ地点の給水所の近くだった。


「ママ、いつもここで応援してるの?」

「そう、去年もここ。場所が変わると見つからないだろうから」

「そのバッチの人?」


 覗き込んだアプリのバッチはさっきよりも進んでいるようだった。


「うん。後輩」

「高校のソフト部の人?」

「前の会社の後輩よ」


 母親は趣味が多くて、身体がよく動く。何年か前、高校時代の部活の人達とソフトボール大会に出ていたことがあったのを思い出したのだけれど、前の会社、というのは初めて聞いた。私が保育園のときに父の転勤の関係で仕事をやめて主婦になったはずだから、引越する前の話だ。


「かな、小さいときに会ったことあるよ。ソフト部のみんなとリレーマラソン出たときに、人が足りなくて呼んだことがある」

「全然覚えてない」


 母親は、それももう五年前か、と言った。


「リレマラ、一周二キロだったけど、二回走らせたら、二回目はもう泣いてた」


 それは鬼上司の命令が断れなかったということでは、と不安になったけれど、母親の笑顔は穏やかなものだった。五年前に二キロで泣いていた人が、もうすぐやってくる。


「あんこー!」


 母親が叫んだ。視線の先で、人混みに紛れて、黒色のキャップの女の人が手を大きく振って応えた。キャップの下で、たぶん化粧も落ちてしまったすっぴんに日焼けと興奮で紅潮した顔を、汗なのか涙なのかぐしょぐしょにして、大きな口をあけて笑っている。せんぱーいと呼ぶ声が開けた田園地帯に響いて沿道の注目を集め、ランナーにも振り返る人までいる。そんな中、母はこぶしを突き上げた。


「えらい! 三十五キロも走ってこれたぞ! ゴールは目の前だ!」

「来れました! わたしえらい! もう少しです!」

「そうだ! もう少しだ!」


 走れと檄が飛んで、彼女は元気に「はい!」と返事した。「かなちゃんもありがとう」と言われてびっくりして背中が伸びた。ペースはもう私が早歩きするのと同じくらいの速度だけど、しっかりと一歩一歩進んでいく。

 彼女の周りの人が彼女の元気に釣られたように顔を上げて走っていく。みんな同じ方向を向いて走っていく。

 母は他の人にも手を振って、手を叩いて、声を掛ける。頷く人、手を振り返してくれる人がいる。思い切って手を伸ばすと、ぱちんとハイタッチされた。真ん中からわざわざコースを変えて走ってきたお兄さんは、ありがとうと言って走っていった。

 すぐそこの第八関門が閉まるまで一時間以上、私と母は夢中になって、走る人たちを見送った。


 田んぼの横の歩道を、少し冷えてきた風に吹かれて自転車を押しながら自宅に帰る途中、着信音がして母が片手をポケットに突っ込んだ。取り出したスマホの画面を見て「お」と呟き、私に向けた。あんこ、と表示された豆大福のアイコンに『ありがとうございました!』と吹き出しが出ている。完走したらしい。


「あんこさん、また泣きながら走ってたね」

「あっはっは、本当だね」


 去年も泣いてたよと母は思い出し笑いした。


「辛いのかな。苦しいのに何で走ってるの?」


 私の疑問に、そうだなあと母は空を仰いだ。青空に蜻蛉が横切る。スマホの画面をちょっとスクロールして戻してからまた見せた。


『去年より練習できてないです。今年はマジでやばいです。七時間です。』

『でも先輩のとこまでは行きます』

『年に一回しか会えないから』


 母の返信は、待ってるよ、だった。私の心臓がどきんと鳴った。一瞬ロボットみたいなぎこちない動きをした私に気付かず、何が理由だろうねえと母は言った。



 *



 第十回大会と書かれたスタート地点のバルーンアーチから一番遠いブロックの入り口ロープを潜る。スタートまで一キロくらいあるんじゃないだろうか。美術館の駐車場に沿って緩やかにカーブした先まで人の波が道路を埋め尽くしている。後ろからもどんどん人が入ってくる。

 これだけの人が、今日一斉に走るのだ。それぞれに生活がある中で練習を重ねて、今日を迎えている。私の口から感嘆の息が漏れた。朝の気温は低めで、息は白く濁る。一万四千人分の目標、一万四千人分の人生。

 それぞれの。

 私の。

 ———私は。


「かなちゃん」


 良く通る明るい声が雲の少ない高い空に撥ね返ってきた。私は歩道を振り返って声の主に返事をして両手を挙げた。


杏子きょうこさん! もー、私スタートブロック一番後ろですよ」


 頬を膨らませる私に、黒のキャップの下で朗らかに笑い、実力者でも初参加だから仕方ない、と杏子さんはいたずらっぽく肩をひょいとすくめた。白のTシャツに付けたビブスにはEの表示。かなり前の方にいる。

 あんこさんの本名が杏子さんだと知ったのは、大学生になってから、競技場で開かれた夜の練習会に一緒に参加したほんの半年前のことだ。杏子さんは年に一回のフルマラソン大会の参加をもう十年続けている。


「大丈夫だよ。五キロくらいでわたしを颯爽と抜いていくと思うよ」


 今日はキロ五分四十秒のペースで固定して、サブ四を目指してみようと思っている。結局本番までに三十キロまでしか走れなかったから、無理しない設定だ。先週、私の完走計画をラインで伝えると杏子さんはすごいなあと苦笑いの顔文字で返信してきた。父は三時間半で走っている。私にもできるはずだ。


「先輩は?」

「お母さんはお姉ちゃんと一緒に、いつもの場所です」


 いつもの場所、と杏子さんは小さく繰り返して、頷いた。それから、頬を上げて目を細めた私の好きな笑顔で顔を上げた。


「がんばって、って元駅伝部に言うことじゃないな。がんばるよ、わたし!」

「なんですか、それ。初参加を励ましてくださいよお」


 冗談めかして笑い合って、杏子さんは「じゃあまたゴールで!」と手を振った。小柄な杏子さんの後ろ姿はたくさんの人に埋もれてすぐに見えなくなってしまう。

 三十五キロ地点で、杏子さんの先輩は今年も待っている。ついでに娘にも全力のエールを送ってくれるだろう。私も杏子さんみたいに全力で応えたい。そして杏子さんの期待どおり、彼女を颯爽と追い抜いて、ゴールの下で、泣きながら駆け込んでくる杏子さんを迎えたい。


 人がひしめき合う中でスタートを待つ。十秒前のアナウンス。ファンランナーの賑やかさと密かな緊張感を肌に受けながら、顔を正面に向けた。視線の先には、まだ影も見ることができないスタートラインがある。

 遠くで、確かに、号砲が鳴る。




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泣きっ面エール 霙座 @mizoreza

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