記録者A

しろおび

本編

 世界は数多の軸に分離する。


 その軸は無数に存在し、果てしなく広がっている。人はもちろん、犬や猫、植物、そしてドラゴンに至るまで、あらゆる生物がその軸の一つ一つを刻んでいる。選択という形で、目には見えぬ無数の可能性が積み重なり、やがて一つの現実を形作るのだ。目の前に広がるこの現実も、ほんの一つの軸に過ぎない。


 ワタシの記録を読んでいる、そこの貴方にも言えることだ。この一瞬でさえ、別の選択肢があったかもしれない。もしもこの記録を手に取らず、別のことをしていたとしたらどうだろうか。気まぐれに散歩に出て、思いがけない風景に出会ったかもしれない。あるいは、大切な人とふとした会話を交わし、思わぬ幸福を手にしていたかもしれない。それとも、何か危険な出来事に巻き込まれ、不運な結果を迎えていたかもしれない。


 しかし、この記録を今、貴方は読んでいる。そしてこの一文を目にした瞬間、貴方の心の奥に何かが触れたことを、ワタシは願っている。些細なことであっても、これが貴方の感性を刺激し、いつか人生を変える小さなきっかけとなってくれることを。


 ワタシはそう願って、この記録をここに公開する。



 ♢♢♢



 記録その1


 夕暮れの公園、柔らかなオレンジの光が木々の間をすり抜け、遊具や地面に影を落としていた。公園の片隅では、数人の子供たちが笑い声を響かせながらボールを追いかけていた。その中に、一人の少女がいた。


 楽しそうにボールを蹴り返し、笑顔で友達と遊んでいた彼女の瞳は、純粋な喜びで輝いている。けれど、次の瞬間、思わぬ方向に弾んだボールが、ゆっくりと道路の方へと転がっていく。


「あっ…!」


 少女の心臓が、一瞬強く鼓動した。ボールは、あっという間に車道の真ん中へと転がっていく。そのまま置いていけないという一心で、少女は無意識のうちに足を踏み出していた。周りの音も友達の声も、一瞬で遠のいていく。


 しかし、次の瞬間、眩しいヘッドライトの光が少女の視界を貫いた。反射的に体が硬直し、咄嗟に逃げることさえできない。迫りくる車の音が耳をつんざき、恐怖が彼女の全身を支配する。


 そして、その瞬間──少女は車にひかれ、静寂が訪れた。



 ♢♢♢



 記録その2


 風の冷たい夜、薄暗い路地裏で一人の男が電話を握りしめていた。男はスーツ姿で、少し乱れたネクタイを直しながら、不安そうに辺りを見回している。その視線には、どこか焦燥感と隠しきれない怯えがあった。


「…本当に、やるのか?」


 電話越しの声は低く冷静で、男の動揺を少しも意に介していないようだった。


「やるかやらないかじゃない。もう逃げ道なんてないんだ」


 その言葉に、男はぐっと息を飲んだ。自分の心臓の鼓動が、まるで鼓のように早まっていくのを感じた。これまで、平凡な日常を送ってきた男にとって、こんな状況に陥るなど考えたこともなかった。けれど、ある夜からすべてが変わったのだ。小さな借金が膨らみ、見知らぬ人たちとの関わりが増えていく中で、気がつけばこの闇の世界へと足を踏み入れていた。


「…わかっている」


 男は、震える手で電話を切ると、深呼吸をして自分を落ち着かせようとした。しかし、吐き出す息はかすかに震え、心の奥に巣食った不安は消え去ることなく、ただ彼の中に重く残り続けている。


 遠くから車のエンジン音が近づき、路地裏にヘッドライトが差し込む。その光が男の顔を照らし出し、彼はその光に向かって歩み寄る決心を固めた。後戻りなど、もうできない。明日を迎えることさえわからない夜だったが、彼は静かに車へと乗り込んだ。



 ♢♢♢



 記録その3


 夕暮れ時、東京タワーはその美しさをさらに増し、まるで都会のシンボルのように堂々とそびえ立っていた。空はオレンジ色から紫色へとゆっくりと色を変え、薄暗くなるにつれて、タワーに灯るライトが一層輝きを増していく。


 街を見下ろすタワーの鋼鉄の骨組みは、夕焼けの柔らかな光に染まり、日中の姿とはまた違った温かみを感じさせる。細部まで丁寧に作られたその構造が、夕暮れの光に包まれて浮かび上がり、訪れる人々を静かに迎え入れていた。


 そこへ一匹のドラゴンが──いや、この記録はやめにしよう。この話はワタシは嫌いだ。



 ♢♢♢



 記録その4


 気がつくと、青年は見知らぬ大地に立っていた。目の前には広がる広大な草原、遠くにはそびえ立つ険しい山脈が視界の端に映る。澄んだ空気、自然の香り、そして何より、目の前の風景が現実のものとは思えないほど美しく、どこか異様な気配が漂っていた。


「ここは……どこだ?」


 戸惑いながら辺りを見回していると、頭の中に聞き覚えのない声が響く。


「ようこそ、異世界の勇者よ。お前には使命がある──この世界を救うため、魔王を倒すのだ。」


 その声は淡々としていたが、確かな威圧感があり、青年は一瞬にしてこの状況がただの夢や幻ではないことを悟った。何の前触れもなく、彼は突然この異世界に転生させられたのだ。そして、どうやら魔王を倒すという、巨大な使命が与えられているらしい。


 自分にはそんな力などない、と一瞬ためらう青年だったが、ふと胸の奥に不思議な感覚が芽生え始める。ここでなら、自分も何かを変えられるのかもしれない──この新しい世界で、今までとは違う自分になれるかもしれないという希望が、彼の心に静かに灯った。


 魔王が支配するというその影響は、村や町に影を落とし、多くの人々が恐怖と不安の中で生活していた。彼は各地を旅しながら、仲間を集め、剣術を学び、少しずつ自分の力を磨いていった。かつてはただの青年だった彼も、今では数々の戦いをくぐり抜け、心身ともに成長を遂げていた。


 そして、ついにその日が訪れた。魔王が潜むという暗黒の城にたどり着いた彼は、これまでの旅路で出会った人々や仲間の思いを胸に、強く剣を握りしめる。闇に包まれた城の中で待ち受ける魔王の姿は、想像を絶するほどに巨大で、圧倒的な力を放っていた。


「ここまで来たのか。だが、お前ごときがこの私を倒せると思うなよ。」


 魔王の言葉が響くと同時に、激しい闘いが幕を開けた。剣を振るう彼の動きは、これまでの経験を生かした鋭さと力強さが備わっていた。魔王の一撃一撃に苦しみながらも、彼は諦めることなく立ち向かい、仲間たちの支えもあって徐々にその巨悪に一矢報いることができるようになっていった。


 最後の一撃を決めた瞬間、彼は自分が使命を果たしたことを実感する。倒れゆく魔王の影が消え去ると、あたりには静寂が訪れ、薄暗い城が一気に光に包まれた。


 青年は使命を果たし、再び自分の世界へ戻るか、この地で新たな生活を始めるかの選択を迫られた。迷うこともあったが、この世界で得た仲間や絆を忘れることはできず、彼は異世界で新たな人生を歩むことを選んだのだった。



 ♢♢♢



 数多の世界が、果てしなく広がり続ける。その日、その人が、その生物が、たったひとつの行動を起こすことで、世界は新たな可能性の枝を伸ばし続けていく。その選択は小さくとも、その積み重ねが無数の世界を形作り、そしてまた新たな世界を生み出していく。


 けれど、広がり続けるこの世界にも限界が訪れる。果てなき可能性の海はやがて飽和し、どこまでも膨らみ続けた風船が弾ける寸前のように、世界は収縮を始める。すべてが引き寄せられ、ひとつに収束していく。かつて広がっていた無数の選択肢が、再びひとつの源へと戻っていくのだ。


 しかし、その収束さえも、永遠ではない。限界点に到達した瞬間、再び新たな命が芽生え、再び世界は膨らみ始める。収縮と拡大、誕生と崩壊──それを繰り返しながら、世界は永遠に生まれては死に、そしてまた生まれ、無限の輪を描いていく。


 こうして、世界は常に変わり続ける。一瞬一瞬が次の世界を創り、その循環が絶え間なく繰り返される。それがこの宇宙の本質であり、そこに生きる私たちの存在もまた、その一部に過ぎない。


 え? ワタシはなぜ世界が死んでいるのに生きているのか?


 ワタシは記録者だから。名前も持たない、ただの記号で呼ばれる記録者A。ただそれだけの存在。


 ワタシは、世界の【はっぴーえんど】を望む。

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記録者A しろおび @attowaku

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