第5話 雨の天使

 数年間、貯まりに貯まった雨は、留まる事を知らずに、大雨となり村を襲った。先程まであんなに騒がしていた火事もとっくに消え、家は瓦礫と化していた。


 村人達は、何年かぶりの雨の再来に歓喜の声をあげた。


 雨は、枯れた村を潤し、枯れた村人達の心をも潤していく。


 しかし、リヴには何かが欠けていた。幸せと言うのには、何かが足りない気がする。


 レイン?


 そっとその名を呼んでみるが、答えはない。

 急に不安を覚えたリヴは、いつしか自分でも気付かない内に、雑木林の中を駆けていた。


 彼の仕業なのだろうか。「レイン」という名前は、「雨」を意味する。


 両手を前に出さずに走った為、何度も木にぶつかり、木の根っこに躓き、転んだ。顔や手足、体中に雨に濡れた土がまとわりつく。


 それでも、その度に起きあがった。


 あの時、レインは言ったのだ。リヴが幸せになったら、天使の羽根と共に消えると。


 まだ天使の羽根は舞い降りて来ないが、リヴの心は騒いだ。その時のレインの声が、悲しみの色を帯びていたから。


 何度も何度も逃げる魚を捕まえようとするレイン。本当は、何を捕まえたかったのだろうか。


 たくさんの不幸な人の話を聞いた。レインは、彼らが幸せになる度、一体どんな思いで天使の羽根を降らせたのだろうか。


 突然、視界が開けて、素足に砂の感触がした。いつしか雨は降り止んで、目の前に青く広い海が広がっている。レインと初めて出会った、あの海だ。


 リヴの瞳に、海が太陽の光を反射し、キラキラと輝いているのが映る。


「目が、目が見える……!」


 虚ろだったリヴの瞳に、生が宿る。


『海が見たい』


 初めてレインと会った時、リヴはそう言ったのだ。


「なによ、目が見えない事を、不幸の理由には出来ないって……そう言ってたのに!」


 確かに、今、リヴの瞳は生きていた。しかし、リヴには、目が見えた事も、初めて見る景色も、ずっと見たいと思っていた海の全てがどうでもよかった。


 今、リヴが見たいのは、レインなのだ。


 その時、ふわり、と白い雪がリヴの頭上から舞い降りた。リヴがそれを手の平に乗せて見ると、それは雪ではなく、一枚の天使の羽根だった。


 ――天使の羽根は、別れの合図――


 死んだ母を想い、涙するリヴをずっと抱きしめていてくれた。目が見えなくても幸せになれる事、諦めない事を教えてくれた。優しい天使の記憶が、全て無くなってしまう。


(そんなの、嫌だ!)


 リヴは、無心で海へ飛び込んだ。涙で濡れる頬を波が打つ。そして、海中へと沈んだ。


 海面が明るく光っているのを見ながら、リヴはただ願った。私の幸せは、レインといる事だ、と。


 しかし、レインは現れない。心から誰かを必要としている人の元に現れるのが天使だと、そう言っていたのに。


 リヴは、いつしか息苦しさに、右手を海面の方へと伸ばしていた。そして、その宛先もなく伸ばされた腕を、誰かが海上から掴んだ。


 リヴの体が、海上へと引っ張り上げられる。


 そして次の瞬間、リヴの体は誰かの暖かな腕に抱かれ、宙に浮いていた。


 それは、夢を見ているのかと錯覚する程の心地良さだった。その感覚を、リヴは前にも一度、味わった事がある。


 雪のように真っ白な羽根。太陽の光を反射して煌めく黄金の髪。悲しみの色を帯びた青碧の瞳。そして、心に優しく響く声。


「バカだな! 俺が来なかったらどうするつもりだったんだ?」


 言葉では怒っていても、その声は震えている。


「死んだら、本当の天使になれるんでしょう?」


 そう悪戯っぽく笑い、レインと一緒、と付け加えた。


 呆れて何も言えないでいるレインの頬を、リヴが両手で優しく包む。


「あなたを幸せにさせてあげる」


 レインの青碧の瞳から涙が零れた。それは、長く辛い輪廻からの解放の言葉。〝束縛の有刺鉄線〟を断ち切る程の威力を持つ。


「駄目だと言っても無駄よ。諦めない事を教えてくれたのは、レインなんだから」


 これは厄介な事を教えてしまった、とレインが笑う。


 そして、二人は静かに唇を重ねた。



 * * *



 天使が人間と恋に落ちる事を、神様はお許しにはならなかった。


 もしも、そのような事が起きた場合、天使は、長寿と力の源である翼を取り上げられる。


 そして、翼を持たぬ天使は、もはや天使ではなく、天界を追放され、一人の人間として地上に堕とされるのだ。


 天界では、新たな伝説が生まれた。人間と恋に落ちた一人の天使が、天界を追放され、人間界で一人の少女と結ばれた、と。


 その名は、レイン。



 -END-

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【短編】天使の羽根 風雅ありす@鬼姫完結しました! @N-caerulea

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