張世平の奇貨

三島千廣

張世平の奇貨

 ――追い詰められたな。


 幽州の中山では一、二と謳われた馬商人の張世平は丈の長い叢に身を潜めながら、腰に佩いている剣の柄を握った。

 今年で四十五になる張世平は濃い髭と頑丈な顎を持つ骨太な体躯の持ち主だった。八尺を超える巨躯を持ち、若年のころから威風があった。


 平静では声を荒げることもまるでなく、温厚で知られていた張世平であるが、この時ばかりは違った。瞳が怒りで燃えている。殺意が放射され赤々と全身からたぎっていた。無理もない。張世平が十四の歳に天下一の商人になると誓いを立て、それから幾星霜。人生のほとんどを費やし、心血を注いで築き上げた財はすべて、目前に迫った賊どもに奪われた。


 ――いや違う。奪われたのは金ではない。おれの誇りよ。

 金穀や財物などいくらでもくれてやる。張世平は、我が命さえあれば、この世界にある金子などというものはいくらでも手に入れられる自信があった。


 が、賊どもは張世平が決して金で購えぬものを、あっさりと奪っていった。張世平が二十歳の時に生まれた長子。手塩に育て、おのれがあとを継がせるために、精魂込めて育て上げたひとり息子と、生まれたばかり孫娘を賊によって殺されていたのだ。当然ながら、長年連れ添った妻も殺されていた。一族はほとんど根絶やしとなった言ってよい。


 憎んでも憎み切れぬ。

 その賊の名は――。

 黄巾賊という。

 漢の中平元年(一八四年)のことである。

 後漢の天下は腐敗政治が極まり民衆の怒りが爆発した。


  蒼天已死 漢の天下はすでに死んだ

 黄天當立 黄巾の勢力は決起し立ち上がろう

 歳在甲子 時は革命を告げる甲子の歳にある

 天下大吉 天下は平らかになるだろう


 このスローガンを掲げて、後漢末期の世に漢王朝の転覆を狙い天下に立った男がいた。

 その名は張角という。


 自らを大賢良師と名乗り太平道という道教の流れを汲む新興宗教を設立した張角は異形の人である。

 張角は弟である張宝と張梁を従え、数十万の信徒を十数年で獲得し、天下取りの為に兵を挙げた。


 だが、彼らに従う兵のほとんどは、漢朝の腐敗した政治の犠牲者であり、大部分が農民だった。食うや食わずの農民たちが、まず狙うのは地方にいる豪商だった。黄巾賊は装備が充分で手強い官兵ではなく、日ごろから恨んでいた富裕層に向けて溜まりに溜まった怒りを爆発させた。


「張世平! 本当に勝てるんだろうな!」


 同じ馬商人である蘇双が叢に跪きながら喚いた。戦う前から怯え切っている。蘇双は張世平と同郷で商売は上々。相当に羽振りが良かったが、そこを黄巾賊につけ込まれて、家族を殺された。恨みの程度は同じであるが、蘇双は張世平と違い小男で、腕力もなく押し出しも貧相だ。その代わりに、商人にとっては命といえる算術に長けていたが、戦場では役に立ちそうもなかった。蘇双は目の前から迫りくる賊の兵数にただ、怯えていた。


「勝つよな! なあ、そうだろう?」

「勝つさ。勝たなくてはならない」


 黄巾賊の兵は一千余だ。

 対する張世平と蘇双が地に伏せさせている兵は百に満たない。

 唯一、張世平たちが賊に優っているのは馬を持っていることであった。数千を誇る馬と幾つもの牧場を持っていた張世平であったが、それらもすべては荒れ狂った賊たちに焼かれた。失ううものはなにもない。


 ――ここで我も死ぬやもしれぬな。


 膂力に優れていた張世平であったが、武芸の嗜みがあるわけでもない。それでも貧相な農民兵の五人や六人は斬り伏せてやるつもりだった。そうでもなければ、なんら咎なく殺されていった子や孫に地下でなんと言って顔を合わせればいいのだろうか。


 充分に黄巾賊の歩兵が迫ったところで、張世平は控えていた下男に赤い旗を振らせた。

 途端に、武器を手にして迫っていた黄巾賊たちの足並みが乱れた。


「いまだ、皆の者! 賊どもを残らず打ち殺して、泉下の家族に詫びさせろ!」


 張世平の号令が戦場に響き渡った。率いる兵も、皆が商人や小作人ばかりであったが、彼らは幽州では良民であり他州からわざわざやってきて、この地の平穏を乱した流民とは違う。さらには、家族を無意味に殺された人々の怒りは凄まじかった。まず、張世平が剣を手に斬りこんでゆくと、皆がそれに続いた。


 ――我が最後の財が利いたか。


 張世平は、事前に黄巾賊の一部と接触して、金穀を分け与え、開戦と同時に裏切るよう仕向けていた。張世平は音に聞こえた豪商だ。その名声と弁舌は智慧の回らない賊をたばかるなど造作もなかった。


 たっぷりな前金に釣られて、賊たちは同士討ちを始めたのだ。いくらか暴れた後は離脱するように言い含めていた。戦術家でもない戦闘のド素人である張世平の策など、これが精一杯であった。


 ――あとは、天に加護を祈って最後まで戦い抜くだけよ。


 張世平に戦勘などはないが、突如として生まれた混乱の影響は大きかった。雑兵の集合体である黄巾賊は陣の乱れを立て直せなかった。

 平地ひらち戦は兵数で決まるといわれている。

 普通ならば数の差は容易に覆らない。後は気迫で埋めるしかないだろう。


 ひとり、ふたり斬り伏せる。思ったほどの手ごたえはなかった。草地に横倒しになった黄巾賊は頭に黄色い布を巻いているというだけで、身体は痩せて貧弱である。張世平が想像していたような強さは、実際、彼らになかった。


 ――このような者たちに我は恐れを抱いていたというのか。


 戦闘は呆気なく決着がついたかに見えた。

 最初の激突で賊の指揮官がすぐ死んだのもツキがあった。

 黄巾賊はほぼ総崩れに陥っていた。


「やあ、なんだ張世平よ。意外にも勝てそうではないか。戦など思ったよりもたいしたことはなかったな」


 先ほど叢で頭を抱え込み縮こまっていた男とは思えないほどの陽気さだ。降ってわいたような勝ち戦に、蘇双は特徴的な前歯を光らせて意気揚々と叫んでいる。


「というわけでもなさそうだ。なにしろ、敵は十倍だ。押し返されれば、こちらもしまいよ。さあ、来たぞ」

「わっ」


 凄まじい勢いで矢が飛来した。張世平は蘇双の首根っこを掴むと、えいやとばかりに引き倒す。ギリギリを矢が掠めて地に刺さった。

「うわっ」

 蘇双は顔を土塗れにして喘いでいる。どうやら張世平の読みが当たったらしい。そう上手くことは運ばないのだ。


 ――黄巾賊の中にも骨があるやつがいるということか。


 矛を手にして男が突っ込んで来た。まだ、若い。ちょうど、張世平が失った息子と同年くらいであった。戦場に在ってはためらいが死を招く。張世平は体躯を活かした斬撃で突っ込んで来た男の矛を半ばから斬り落とした。態勢を崩して前のめりになった賊兵の首筋を払った。ザッと、赤い雨が降る。張世平は顔から血を浴びた。剣の柄がぬるりと血ですべる。呼吸が荒い、剣を取り落としそうになった。


 ――あとひと息。


 もうひとつだけ、欲しい。最後の押しが。

 なにか敵陣を乱す策があれば張世平たちの勝利はゆるがないものになるはずだ。


 後方を見た。離れた場所に馬が隠してある。その数は百頭だ。全盛期からすれば笑ってしまうような、貧弱な数だが、この世界で馬は貴族や力のある富裕層のみが持ちえることができる権力の象徴だ。騎馬は扱いが難しい。数を揃えればこれほど強大無比な武器はないというのに、張世平は人生でもっとも重要な瞬間に馬を使いこなせていなかった。


 瞬間、風が吹いた。

 強固でゆるがない頑とした風だ。

 白い風が舞い降りた。


 それは全身に強い気を纏った青年だった。青年は剣を振り上げながら、一隊を指揮していた。数は少ない。青年を含めてたった四騎。たった四騎でしかない青年たちはなんらためらいを見せずに、黄巾賊の横合いから突っ込んだ。二、三十程度の歩兵を連れている。歩兵たちも先頭を切る青年と同じく、ひとつに固まると強固な錐のように変質して陣に突き刺さった。青年が連れているふたりの大男。特にすさまじい働きだった。それぞれが扱う戟と矛が動くと、まとめて十数名の黄巾賊が天に舞い上がった。


「新手の官軍だ!」

「逃げろ!」


 恐怖が恐怖を呼ぶ。黄巾賊は幻の官軍に怯えて、今度こそ決定的な敗走を見せた。張世平は目の前にいた黄巾の兵を真正面から斬り落とすと、額に浮いた滝のような汗を袖口でぬぐった。


 ――勝ったか。


 黄巾の兵は元からいなかったかのように散り散りになって逃げ失せた。後に残るは幾多の骸と打ち捨てていった、漢王朝転覆を願って記した語句が染め抜かれた旗だけである。妻と子と孫の仇を討った。それは間違いない。


 しかし張世平は、まだなにも終わっていないと思った。天下における真の苦しみはここから始まるのだと、半ば確信していた。






「なるほど。あなた方は幽州では知らぬ者がいないとされる、かの大商人の張世平殿と蘇双殿でしたか」


 数十人の義兵を率いていた男が言った。

 男の名は劉備玄徳。


 幽州涿郡琢県出身で黄巾の反乱に義憤を覚え、兵を挙げて各地を転戦する若き将であった。劉備の左右に控える偉丈夫は関羽雲長と張飛益徳と名乗った。


 関羽は劉備と同年齢程度、張飛は筋骨たくましく豪傑そのものと言った風であるが、まだ若く、やっと十代半ばの少年と言ってもよい齢だった。


 場所は幽州のとある県城である。かつては豪商で鳴らした張世平は街の世話役にも顔が利き、劉備たちの為に山海の珍味を集めていた。


「まあ、玄徳よ。あいさつはそのくらいにして。ここは張世平殿との蘇双殿の奢りだ。威勢よくやっつけなければ、逆に非礼というものだ」


 戦場ではさしたる活躍をしなかったものの、如才なく宴会の場を仕切る男は簡雍と名乗った。武人そのものである関羽や張飛などよりもこの男のほうが自分たちに近い、と張世平は思った。簡雍は飄々としていて、とても礼儀云々を言える態度ではなかったが、それをもってして人を不快にさせない独特の気風があった。さらに、劉備たちのそばで細々と世話を焼く小さな少年は田豫という子が張世平の眼を引いた。ほとんど口を利かない少年であるが、目には鋭い知性のきらめきがあり、強く劉備を慕っていることが理解できた。


「劉備殿。簡雍殿が言うように、今日は私に奢らせてください。あなた方に助けられなければ、私も蘇双も命を落としていました」

「そんなことは――」

「義兄者! 張世平殿の言うとおりだぜ。とっとと飲んで食わねぇと折角の酒と料理がみんな冷めちまうわ」


 先ほどまで黙って酒の壺をジッと睨んでいた張飛が言った。


「益徳! 張世平殿。義弟の張飛はまだ子供でして。ご無礼は代わりにこの私が詫びますので、お気を悪くしないでもらいたい」


 関羽というみごとな長い顎鬚を持つ青年が席を立って、大きな身体を折り曲げ詫びた。


「なんでえ、雲長の野郎。自分だって酒好きの癖して、格好つけやがって」

「益徳、もうそのくらいにしておくのだ」


 劉備が強めに窘めると、張飛は自慢の虎髭を指先でこすりながら、渋々黙った。


「長兄が言うなら、俺は黙ってますよ」

「ははっ。仲がよろしいですな。結構結構。いや、若者はそのくらいでなければ将来使い物にはなりません。張飛殿。今夜は存分に酒を干してください。私も、今日は久方ぶりに酔いたくなりました。さ、劉備殿。乾杯の音頭を」


 長幼の序を守る劉備は張世平の勧めを頑なに断ったが、とうとう諦めたのか自ら音頭を取った。


「それでは、張世平殿の健康と漢の天下に――乾杯」

「待ってました!」


 張飛が両手で酒壺を逆さに持ち、一気に飲み干した。これには、宴席にいた仲間の兵士たちも立ち上がって喝采を送る。関羽は巨大な掌で自分の棗のような赤い顔を隠しながら張飛の態度に困り切っていた。劉備は、童子の悪戯を見るような優しい目で張飛を見ていた。若い三人の間に流れる強い情は、初老といえる張世平にはひたすらまぶしく、そして好ましかった。


「それにしても張世平殿。此度は災難でしたな。お気持ちはお察しします」

「いえ、仕方がありませんよ、劉備殿。このようなことは漢の天下が始まって以来の蜂起でありますが、秦の最後のような大きなものには繋がらないでしょう」

「ほう、すると?」


 張世平が言っているのは、秦帝国の歴史だった。

 かつて戦国時代の末期に中国大陸の六カ国を滅ぼした秦帝国は政治の不信から大沢郷に集まった陳勝と呉広の乱を招き、屋台骨をぐらつかせた。結果としてそれがキッカケで秦王朝は滅びたのであるが、張世平は漢王朝はそうならない――つまりは黄巾の乱はやがて鎮圧されるということを述べていた。


「漢朝が衰えたのは宦官が汚職の猛威を振るった結果であると、この国の人間ならば誰もが知っていることです。しかし、張角という黄巾の頭領が始めた乱は、所詮は食い詰めた人々の自暴自棄による暴発なのです。漢は衰えたとはいえ、いまだ強力な力を持っています。有能な人材もまだいます。やがて、お上によって優れた将軍に討伐命令が下されれば、武装も資金も足りない黄巾賊は数年で滅ぶか、あるいは壊滅同然になるでしょうな」


「けれど――」

「あなたは黙って見ていられない。そうでしょう。だから、あなたは私を助けた。正直、多少賢い者ならば、私どもに味方するより、戦のどさくさに紛れて後方の馬を奪ってしまったほうが効率が良いと考え、即座に実行していたでしょう。だが、あなたはそれをしなかった。劉備殿、あなたはわずかな利よりも義を優先した。そのようなあなただからこそ、私はこの宴にあなたを招いたのです」


「私を――?」

「はい、私も蘇双も馬商人です。戦が続き長引けば、やがては馬の値も上がり私どもが失った財などたやすく取り戻せるでしょう。普通ならば、そういったわずかな利に目が眩む。けれど、私は違います。劉備殿、あなたにお願いがあるのです。是非とも聞き届けていただけませんか?」


「なんでしょうか、張世平殿」

「ここに、私と蘇双が隠しておいた馬百頭と多少の金穀があります。これを軍資金にして劉備殿は世にはびこる黄巾の賊どもを退治していただきたい。いかがか」


「これは――望外な。しかし、私はまだなにごとを成したこともないただの若造です。とてもではありませんが、張世平殿のご期待に沿える活躍など不可能でございます」


「それは謙遜というもの。あなたが騎馬を率いて部隊を進退させ、千余を超える黄巾賊を追い払った手際は、私からすれば白昼に龍が天を駆けてゆくのを目の当たりにしたようなものなのです。蘇双とよく話をした上での決定です。この県城も強固に見えましょうが、いずれは多数の賊どもに襲われるでしょう。その時に、私が北方の烏丸から集めた名馬たちも、やつらの者となってしまいまえば、まさしく仇を太らせるようなもの。それならば、ここで劉備殿に使ってもらい、後日に利子をつけて返却していただいたほうが、よほど利口というものですよ」


「しかし、張世平殿、それは過分すぎるお話で」

「いえ、遠慮しないでいただきたい。劉備殿、難しく考える必要はありません。これは言うなれば、投資なのですよ。私から劉備殿の先を思ってのことなのです。私は、人相身もやりますが、あなたの相は並々ならぬものだ。あなたのような人間は、おそらく数百年に一度しか現れない奇相の持ち主なのです」


「はあ、人相ですか。私は、あまりよくわからないのですが」

「劉備殿には、強烈なツキがある。断言できます。あなたは、これから先、さまざまに激しい人生を歩むでしょうが、どんな時でも強烈な運があなたを救うのです。そして、最後まで諦めずに戦った末、必ず天下に名を馳せる時が来るでしょう。これは、商人としての私の確信です」


 劉備が無言で張世平を見返して来る。息が詰まるような、重たげな気が張世平にのしかかって来た。これはとても、二十歳そこそこの男が持つ者ではない。万人にひとりの宿星を背負うものだけが持つ、運命のようなものだった。


「意地ですか。張世平殿、あなたは頑固ですね」

「そうですか? 私は、信じ、確かめ、実行しているだけです」

「ならば、そのお申し出有難く受け取ることにします。ただし――」

「ただし?」

「馬も金もしばらく借り受けるだけです。いずれ、私が功成り名を上げた時に、利子をつけて返させていただきますよ」


 ――劉備は我が奇貨なり。


 奇貨とはかつて秦の商人呂不韋が趙の人質になっていた秦の王子である子楚を助けて恩を売り、後日莫大な利を得ようとした故事のことである。

 張世平は卓に置いてあった酒杯を手に取ると、一気に飲み干した。カッと熱い火が下腹に回って来る。酒杯を置いた。目の前の劉備が巨大になった気がした。久方ぶりに心地良い、酔いだった。






 ――あれから三十五年の月日が経過した。


 まだ、生きている。

 漢の建安二十五年(二二〇年)

 張世平は八十歳になっていた。相棒であり、長らく共に商いをしていた蘇双も没し、張世平は晩年にできた娘と共に、幽州のあばら家で平穏な暮らしを営んでいた。


 ――思えばいろいろあった。


 黄巾の乱ですべてを失い、再起を誓った張世平は乱世の荒波に揉まれながら、それでも今日まで必死に生き抜いてきた。八十を超えるというのに、張世平は未だ、小さな牧場を経営し、娘と共に馬の世話を行っていた。その規模は、かつては万余を超える馬を扱っていたとは思われないほど、質素なものであった。


 馬の世話をするのは、もはや張世平の生活の一部であり、決して切り離せないものであった。

 思えば、建安二十五年は前後四百年もの間存続した漢王朝は、魏の文帝曹丕によって称号を簒奪され、その勢力圏内である幽州も魏帝国の一部として組み込まれていた。年号も黄初と変えられ、もはや漢の天下を思い出す者も少ない。だが、張世平の中には、いつもひとりの男の名があった。劉備玄徳という名だ。


 劉備は不思議な男だった。張世平は馬を投資したという形で、常に劉備の消息に注視し、あらゆる情報を集めて、彼の活躍に一喜一憂した。

 太守の陶謙から徐州を禅譲されたと聞けば、蘇双と祝杯を挙げ、呂布に城を奪われたと聞けば、嘆息し、曹操に追われ袁紹のもとに参じた時などは、密かに軍資金や馬を送って慰めた。


 さらには、曹操によって中原から駆逐され、荊州で安穏と暮らしていると聞けば、よかったと胸を撫で下ろし、赤壁で孫権と共に劉備が曹操を大破したと聞けば破顔して、年甲斐もなく馬を一昼夜飛ばし、蘇双をはじめとした家人に大いに窘められた。


「さすがは玄徳殿だ。あっという間に、益州を落として、これで二州の主とは、さすがの曹操も青息吐息よ。なあ、蘇双。我らの見る眼は間違いなかったな。劉玄徳こそ、漢の高祖の生まれ変わり、蓋世の英雄よ!」

「また、その話か世平よ。おまえの劉備好きにも困ったものだな」


 蘇双はそう言いながらも、劉備が活躍した時の張世平が行う定番の酒宴を呆れてはいても、決して嫌がることなく、常につき合ってくれた。


 ――その蘇双も死んだ。大往生というやつだな。


 張世平の人生は常に劉備とあった、現代風に言うならば、劉備は張世平にとって生涯をかけての推しであり、すべてであった。そこには私心などなく、ただひたすら劉備が世界というおもちゃ箱を好き放題にかき回すのを愉しむさまを見る、ひとりの観客のようなものだった。


 ――しかし、困ったな。


 冬に近づくと、張世平の頭を悩ますあることが起こった。一般的に老人の心配事といえば健康問題以外にないのだろうが、張世平は不思議と八十を超えても身体は頑健そのものだった。床についたのは娘なのだ。


 まだ、十代後半の娘は生まれつき身体が弱く、ちょっとした風邪でも体調を崩しやすく、そのせいもあってか嫁に出すこともできなかった。

 また、この時の張世平は全盛期には考えられないほど経済的に困窮しており、馬をすべて売り払ったとしても、娘の薬代や日々の費えを考えればいささか心もとなかった。


 この年、秋には珍しい雨が降っていた。

 酷く、冷たく、長い雨だ。

 張世平は娘の世話を任せている家人に様子を聞いた。


「娘の具合はどうだ」

「それが、どうも――」

 あまりよくないらしい。張世平は、娘と、若く先に逝ってしまった妻のことを思った。


 情けない話だが、六十過ぎた張世平が小間使いであった女に手を出したのは、本当に気の迷いだった。女は、寡黙であったが見眼麗しかった。学がなく、賢いとはいえなかったが、とにかく従順で明るい女だった。


「お父さま、わたしのことはお気になさらず」


 病床を見舞うと、娘は熱っぽい身体で着替えて、必ずきちんと礼を失することがなかった。ひ孫と言っていいほどの年齢の娘だ。ロクな医者にも見せられず、薬すら調達できぬ、老いた身の上が恨めしかった。


 鬱々として楽しまぬ日々が続いたある日、張世平はこの近くに賊が出没して民家を襲うという話を聞いて愕然とした。文帝である曹丕の統治はまずまずで、幽州の治安はそれほど悪くはなかったが、僻地ゆえに目の届かないところがあるのだろうか。


 ――若いころならともかく、弱り目に祟り目とはこのことよ。


 冬が近づくと、賊徒の動きが激しくなった。どうやら、越冬のために異民族が多い賊は、積極的に官の監視をすり抜け、凶暴さを増しているらしい。


 そんなある日、張世平がいつも通りに馬の世話をしてから床に着くと、かなり近くで争い合う、その昔戦場でよく聞いた声や音が響いて来た。張世平は、部屋の隅に置いてあった剣を取ると、かくしゃくとした動きで娘の部屋にゆき、家人たちには部屋の前を守らせた。


「お父さま、怖い」

「心配ない。私がついている。おまえには指一本触れさせぬ」


 熱っぽい娘の吐息を嗅ぎながら張世平は久方ぶりに血が滾るのを感じた。


 ――年老いても、我が気は萎えぬ。一矢報いてやるわ。


 だが、夜明けを待たずして軍馬の響きや、人の争う声は止んだ。もしや、官軍の討伐が成功したのか、と思っていると、徐々に津波のような巨大な馬の群れの蹄の音が轟き渡った。これは、百や二百どころではない。


 驚きながら、張世平が外に出ると、夜明け間近の水色の世界で、はるか遠くの地平に驚くほどの数の馬が、多数の人間と共に並んでいた。


「どういうことだ」

 無数の馬を引き連れた人々の中から、装束からしてもっとも地位の高そうな武人が白馬に跨りゆっくりと近づいて来る。


「お久しぶりですな、張世平殿。わたしのことを覚えてらっしゃるでしょうか」

「あなたは……?」


 どこか見覚えのある顔だった。それがいつだったのか、どこだったのか。朝日を跳ねのけながら男は穏やかな笑みを絶やさない。脳裏の奥に、一瞬だけ、劉備のそばにいた小さな少年の顔が浮かび上がった。三十五年という歳月が流れても、面影が残っている。


「田豫です。張世平殿。あの時以来で。ロクに礼もできず失礼いたした」

「ああ! あの時、劉玄徳と一緒にいた少年が! なぜ?」

「劉玄徳。その名も懐かしいですね」


 壮年の将の名は田豫だった。

 あの時の、無垢な少年は、いまでは曹魏政権に仕える名高い武将であり護烏桓校尉という職を拝命しているとのことだった。

 聞けば、田豫は早い時期に老いた母親の看病もあって、劉備から離れたらしい。政治的に見れば、田豫と劉備は敵同士なのだ。

 しかし、田豫の言葉は表向きは突き放すような言葉であったが、劉備のことを語る顔つきは、どこかあたたかいものが満ちていた。


「ええ、北方の異民族を討伐するのがいまのわたしの役目で。張世平殿、このあたりを襲っていた賊どもは、すでに一掃しました。もはや、この地の民は賊に怯えることはないでしょう」

「しかし、それはわかるが。この軍馬の数は? 数百どころではない、数千はいるぞ」

「ああ、これは、あなたは覚えているかはわかりませんが、かの劉備がいまさらながらと利子をつけて送って寄越した返済物ですよ」

「返済――まさか?」

「そうです。かつてあなたが私や劉備に貸し与えてくれた、黄巾賊退治のための軍馬や軍資金を、利息をつけて返しにきた、そういうことです。私は、益州で蜀皇帝を名乗った劉備を知らないわけでもなく、また、当事者のひとりなのでして。国同士の正式なものなので、後で咎められることもありません。とにかく、受け取っていただきますよ」


 ゴロゴロと音を立て、多数の人夫が何百という車両を押しながら、張世平の家の前につけている。ムシロがかぶせて覆ってあるが、端から覗くそれは貴重な価値を持つ蜀錦の束であることはよくわかった。馬の数はちょうど三千余頭。送られた財物と合わせれば、充分過ぎる利息だった。


「ああ――」

 もはや、なにかに心を動かすことはないと思っていたのだが。


 張世平は、その場に膝を突くと、片手で顔を覆った。すぐさま田豫は下馬すると、張世平の肩をしっかり抱き、起こしてくれた。


「さすがは我らの劉備玄徳、ですな」


 兵の手前もあったであろうが、田豫が耳元で囁いた。

 張世平は、どこか笑い出したいような気持ちで立ち上がると、遥か西方に向けて、かの英雄に感謝の祈りを捧げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

張世平の奇貨 三島千廣 @mkshimachihiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ