第一章: 光と温もりの減退
僕の名前は港和秋、22歳。高校時代には、明るい未来が待っていると信じていた。問題なく大学を卒業し、理想の仕事に就いて穏やかな生活を送る…そんな幻想を抱いていた。しかし、現実に足を踏み入れた途端、それがどれほど違うものかを思い知らされた。責任、仕事、逃れられない日々のルーティンが、重くのしかかり、疲労の輪の中で僕を縛っている。
叔父のアニメ会社でCTOとして働くのは夢だったが、それが悪夢になり得ることは思いもよらなかった。毎日、会議から会議へと駆け回り、迫りくる期限に追われ、絶え間ない問題と向き合う日々。そして、まだ22歳でありながら、まるでこの世の重荷を一人で背負っているかのような感覚に襲われることもある。
夢見がちで戸惑っていた学生が、終わりなき責任を負う存在に変わってしまったかのようだ。どの仕事をこなしても、何かが失われていく感覚がある。自分の人生が運命によって決められているように、選択の自由を感じることができない。この変化は、僕の人生のどこにも記されていなかったはずだ。これが大人の生活というものなのだろうか?
日々の騒がしさの中で、僕はすべてがシンプルだった頃を懐かしく思う。ゲームに夢中になり、アニメを見て、責任の重さを感じることなく過ごしたあの頃の記憶は、今となってはかけがえのないものだと感じる。
しかし、今日の僕は違う。果てしない疲労が肩に重くのしかかり、自分に少しの休息を許すことにした。帰り道、南京町 (Nankin-Machi) の三宮 (Sannomiya) で一息つくことにした。この場所はいつも僕を子供の頃の思い出に連れ戻してくれる。屋台の食べ物の香りや人々の賑わいが、あの楽しい日々を思い出させてくれる。
車を駐車し、周りを見渡すと、街の景色が心を和ませてくれることにほっとする。「この町の雰囲気って、本当にいいな…」と、僕は小さく呟きながらあくびをした。子供たちの楽しそうな声や、美味しそうなたこ焼きの香りが僕を微笑ませる。
少し気分転換をしてみようか?それとも千夏さんの働くカフェに寄ってみようか…と思案する。
夕方の空が薄暗くなる中で、僕は千夏さんのいるカフェに向かうことにした。夕暮れになると、心にぽっかりと空いた空虚な感覚が訪れることが多い。医者はそれが仕事のストレスによるものだと言っていたが、おそらくその通りだろう。僕は、終わりのないように働くプログラムされた機械のように感じる。
幼い頃から、夕暮れの時間帯に不思議な違和感を覚えていた。何かに制限されているような、解き放たれない記憶が僕を縛っているようだった。しかし、夜になると、またエネルギーが蘇るのだ。たぶん、一日が終わり、すべての重荷が消え去るからだろう。
カフェの前に到着すると、外の古い木製のベンチに腰掛けている千夏さんの姿が目に入った。彼女は物思いにふけっているようで、手にはゆっくりと燃えるタバコが握られており、その煙が冷たくなり始めた夜の空気に溶け込んでいく。
千夏…彼女は僕が言葉を覚える前から知っている存在だ。彼女は隣人であり、両親が忙しい間に僕を面倒見てくれた幼馴染だった。今、彼女に何か異変があるように感じる。彼女の瞳に宿る空虚な表情と、緊張した面持ちが、僕に不安をもたらしていた。彼女が何かと戦っていることはわかるが、それが何なのかはわからない。
僕は一歩彼女に近づき、タバコを取り上げるつもりで手を伸ばした。「千夏さん、これはあなたにとって良くありませんよ、特に今の状況では…」と言いかけたが、彼女の異様な表情に言葉を失った。
千夏は、自分自身の感情と格闘しているようで、僕たちの間には見えない緊張が漂っていた。何も言わずに、僕はタバコを取り上げ、足元で消した。
しばらくの間、沈黙が僕たちの間に流れた。お互いに何を言えばいいのか、僕にも彼女にも分からないような空気が漂っている。でも、僕は自分の気持ちを抑えて彼女に尋ねた。「千夏さん、どうしてタバコなんか…?」
千夏は静かに目を細め、僕をちらっと見て、ため息をついた。「あんたって、消えそうやな…透き通ったみたいに。」
「僕を幽霊か何かとでも思っているのか?ただ少し休息が必要なだけだよ。それに、君だって疲れているようだし…話を逸らすのはやめて、健康のためにもタバコはやめてくれ!」
彼女は僕を一瞬見つめ、疲れた笑みを浮かべてつぶやいた。「なんや、あんた。ぬくもりが消えてもうた時って、ただ落ちるだけなんやな、全部。」
何も言えず、僕はただ彼女の言葉に胸を刺された気がした。その言葉は、ただのタバコについてだけでなく、彼女が何かもっと深いことを語っているように思えた。そして、それは僕が知っている千夏とはどこか違っていた。
「仕事が終わるまで待っているよ。家まで送るから」と、僕は彼女に気遣いの言葉をかけることにした。
•────✦❀✦────•
夜が更け、僕はカフェの前で古びたセダンに座り、千夏が出てくるのを待っていた。冷たい夜風が吹いていたが、心の中では彼女のために小さな灯火を灯そうとしていた。しばらくして、千夏がカフェから姿を現した。彼女の顔には少し落ち着きが戻ったように見えたが、目には疲れが残っていた。
道中、僕たちはほとんど話をしなかった。重苦しい空気が漂い、何かが爆発しそうな気配さえ感じた。彼女はただ窓の外に目を向け、ちらちらと輝く街の灯りを見つめていた。僕も口を開こうとしたが、言葉が喉に詰まってしまった。
やがて、彼女の家の前に到着すると、そこで事態は一変した。僕たちの目の前に、夫の西原美春 が車から降りてきた。しかし、彼は一人ではなかった。その隣には、若い女性が立っていた。僕と同じくらいの年齢か、それよりも若く、まるで学生のようだった。
千夏の息が止まったのを感じた。彼女の手が膝の上でぎゅっと握りしめられていて、瞬時にこれから何が起こるのかがわかった。彼女は車のドアを開け、二人に向かって速足で歩いていった。
美春は驚いたようだが、逃げようともしなかった。千夏は彼の前に立ち、怒りの表情が顔に浮かんでいた。彼女は手を挙げ、彼を打とうとしたが、途中で止まった。僕には、彼女の中で何かが壊れてしまったのがわかった。それはもはや修復できないものだった。
何も言わずに、彼女は結婚指輪をつかみ、人差し指から抜き取り、それを美春の前に落とした。「もう、充分やわ…」と、静かに、ほとんどささやくように言った。僕たちだけに聞こえるようなかすかな声だった。
千夏は家に戻り、迷うことなく荷物をまとめ始めた。僕はその場に立ち尽くし、ただ黙って見ているしかなかった。美春は僕の幼い頃からの兄のような存在で、でも今目の前にいるのは言葉で説明できない破壊されたものだった。
「美春さん…」僕は小さな声でつぶやいた。目の前の出来事が信じられなかった。
その隣にいる若い女性はますます目立っていた。彼女の髪はバサバサで、フード付きのパーカーの下で顔を隠すようにしていた。彼女は震えながら息を切らしているようで、呼吸が苦しそうだった。僕は思わず、「大丈夫か?」と聞こうとしたが、言葉が喉で止まった。代わりに、僕がいつも持ち歩いている吸入器を差し出した。
彼女は震える手でそれを受け取ろうとしたが、吸入器が手から滑り落ちてしまった。僕はすぐに拾い上げ、慎重に彼女に手渡し、今回はしっかりと握れるように確認した。
その時、突然千夏が家から出てきて、いくつかの荷物を抱えていた。その中でも一際目立っていたのは星を見るための望遠鏡と、いくつかの宇宙学の本だった。彼女の趣味を知っている僕には、それがとても千夏らしいものだと感じた。
千夏は何も言わず、僕の手を引いた。「行こか、和くん。ここ離れよ」と、冷静ながらも辛そうな声で言った。
一瞬、僕はどうにかして事態を収拾しようと考えた。「千夏さん、できれば一度話し合ったほうが—」
「港和明、うちを連れて行って」と、彼女は低く、しかし確信に満ちた声で言った。
僕は動揺していたが、何も言えなかった。目の前にいるのは、幼い頃から姉のように慕ってきた千夏だった。しかし、彼女の夫であり、僕にとっても兄のような存在だった美春が、すべてを壊してしまった。僕は話し合いたかったし、どうにかしたかったけれど、妊娠中でありながらもこんなに辛そうな千夏を見て、他に選択肢はなかった。
僕は小さく頷き、車に乗り込みエンジンをかけた。何も言わず、僕たちはその家を、そしてすべての偽りを後にした。
「行き先はどこにしますか?」僕は少し緊張しながら、車を走らせている間に尋ねた。頭の中には無数の疑問が浮かんでいたが、今は多くを聞くべきではないと感じた。
「いつもの公園でええわ」と、彼女は振り向かずに答えた。声には軽さがあったが、その内には何かが蠢いているように感じた。
「公園…?」僕は少し困惑した。こんな夜中に、あの公園で何をしようとしているのだろう?それでも、これ以上は何も聞かず、彼女の望みに従うことにした。
両手でハンドルを握りながらも、僕の思考はぐるぐると回り続けていた。彼女が抱える痛みに対しての思いと、もう一度その笑顔を見たいという願いの狭間で、心が彷徨っている。彼女が心を開いてくれたらと思うが、それを押し付けることはできない。
公園に着くと、夜の涼しい空気が僕たちを包んだ。何を言えばいいのか、何をすればいいのか、迷いが胸を締め付ける。隣の千夏さんは一見落ち着いているように見えたが、その目にはどこか虚ろな影が見えた。彼女は双眼鏡を取り出し、星を見上げた。
「見てみぃ、カズくん。今夜の星、めっちゃ綺麗やねん」と、まるで何事もなかったかのように微笑みかけた。その笑顔の裏に隠された何かを感じたが、彼女は精一杯取り繕っているように見えた。
「うむ…確かに美しいのぅ」と、僕も返したが、心は重かった。何か言いたかったが、その言葉は唇の上で途切れてしまう。今の彼女に、どう問いかけることができるのだろうか?
彼女は星々をじっと見つめ続け、僕はただ隣に座って、二人の間に流れる緊張を感じ取った。彼女はまるで何か答えを夜空に探しているかのようだった。しかし、その内側で傷ついていることを僕は知っている。それなのに、どうして僕は彼女を助ける術を知らないのだろう。
「千夏さん、そなたは…」と僕が口を開きかけると、声が途切れてしまった。彼女を見つめ、続ける勇気を探していた。
「うち、大丈夫やで、カズくん」と、彼女は即座に応えた。まるで僕が何を尋ねたかったかを知っていたかのように。彼女は微笑んだが、その微笑みは目にまで届いていない。「ただ、この夜を楽しもうとしてるだけや」
その夜は長く感じられ、二人は沈黙に包まれたまま。僕もまた、彼女に何かを伝えたくても、口をつぐんでしまう自分がもどかしかった。
公園のベンチに座り、夜のそよ風だけが僕たちに寄り添っていた。千夏さんは再び双眼鏡を覗き込み、僕はただ隣に座って、どう声をかけるべきか分からずにいる。
すると、彼女は星について語り出した。彼女の声は柔らかく、情熱に満ちていて、まるで今の思いから逃れようとしているかのようだった。僕はただ静かに耳を傾け、少しでも彼女に近づきたかった。
「こういう夜、うちはほんま好きやねん」と、彼女は言った。その声には、どこか懐かしさが漂っていた。「星が見えて、心が静まるから」
「うむ、確かに星は心を和ませるのぅ」と、僕は返答したが、自分の言葉が空虚に思えた。
再び沈黙が訪れ、彼女の隣にいながら、自分がどんどん遠くにいるように感じた。千夏さんは、表向きは平気そうに見えるが、心の中で戦っているのは明らかだった。それなのに、彼女が心を開かない限り、僕には何もできなかった。
しばらくして、彼女は双眼鏡から顔を上げ、僕に向かって微かに笑った。「カズくん、星、見てみぃや。心が和らぐで」
「お、我か?」少し戸惑いながら、後頭部を掻いた。「そ、そんなに星とか詳しくないんだが…」
「気にせんと、やってみぃや」と、彼女は軽く笑いかけ、空気を和らげようとしているようだった。
「ああ、分かった…かもしれぬな」と、僕は答えたが、自分でもどういう気持ちでそう言ったのかよく分からなかった。
彼女の笑顔が、不思議と僕の心を落ち着かせてくれた。「さぁ、これで星を見てみぃや。今夜は美しい星がたくさんやで」
僕は頷き、彼女の勧めに従った。そっと双眼鏡を空に向け、彼女が指し示した星座を探してみた。
「あそこにオリオンがあるのぅ」と、彼女が指差す。「それから、あれは…たぶんカニス・マヨルやな」
「う、うむ、見えたぞ!」僕は星の美しさに一瞬驚かされた。心が重いままではあるが、夜空の輝きに少しだけ気が晴れる気がした。
「ええやろ?」彼女は問いかけ、ほんの一瞬、その笑顔は本物のように見えた。「星はいつでもそこにあるんや。たとえ見えへん時も」
「星は…美しいのぅ」と、僕は短く答えたが、ぎこちなく感じた。双眼鏡を下ろ、彼女にそれを返した。
彼女は微笑んでそれを受け取り、「そうやな。星を見るのは心が安らぐで。なんや、独りじゃない気がするんや」と言った。
僕はただ静かに頷くしかできなかった。心の中で彼女が何を考えているのか気になりつつも、尋ねる勇気がなかった。今は、適切な時ではないのだろう。
しばらくして、僕たちは混沌とした思いを抱えたまま、車に戻った。エンジンをかけたが、二人の間の沈黙をどう埋めるべきか分からなかった。わずかな距離にもかかわらず、見えない隔たりが感じられた。
「カズくん…」突然、千夏さんの声が沈黙を破った。
僕は彼女に顔を向け、続けるのを待った。
「うち、あんたのとこに…数日間泊めてくれへん?」彼女は控えめに尋ね、道路に視線を落とし、僕と目を合わせようとはしなかった。
驚きのあまり、僕は反応に困った。「え、えっ? 僕の…その、アパートに?」
彼女は静かに頷いた。「うち…実家には戻りたくないねん。何があったか、親に知られたくないから。お父ちゃんは心臓弱いし…ショック受けさせたくないんや」
「あ…そうか」と、僕は唇を噛み、彼女の心情を理解しようと努めた。確かに、それは彼女にとって苦しい状況だ。「もちろんだ、千夏さん。いつでも僕のアパートに来ても良い」
「ありがとう、カズくん…」彼女の声はほっとしたようでありながらも、まだその裏に悲しみが滲んでいた。再び静寂が訪れ、僕はただ前方を見つめ、混乱した思考を整理しようとした。
心の中で渦巻く感情と共に、僕はアパートへと車を走らせた。すべてが現実のものとは信じがたかった。
夏の花歌 kmykei @kamiyakei_hzk
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