悪魔の囁き

武市真広

悪魔の囁き


 僕の中には悪魔がいる。一体いつから悪魔が棲みついたのか。悪魔と出会うなんて衝撃的なことだと思うけど、出会った日のことなんて覚えてはいない。僕の悪魔はメフィストフェレスのように来訪したわけではない。気がつけば居着いていたのだ。そして、何かの拍子━━揶揄われたり、馬鹿にされたりした時に奥底から悪魔が飛び出してきて何もかもをメチャクチャにする。悪魔が僕を支配してしまうのだ。そうやって僕は何人もの人を傷つけて孤独になった。


 悪魔は決まってこう反論する。

「お前を揶揄ったり馬鹿にしたりする奴が悪いのだ。お前は誰も傷つけようとはしないのに、周りの人間はお前を傷つけようとする」

 本当に守ってくれているなら、どうして僕はこうも寂しいのだろう。揶揄ったり、馬鹿にしたり。そういうことにはウンザリしている。でも、それを理由に周りの人を罵って殴ったり叩いたり蹴ったりしていいことにはならないはずだ。全てが終わった後に残るのはいつも寂しい気持ちだった。

 どうすれば他人とうまく共存できるのか。どうせ僕にはできない。いっそ一人でひっそりと生きていくことができればいいのに。


 虫を殺すのが好きだったけど、動物を殺す奴の気が知れなかった。小学生の頃、公園で遊ぶといつも蟻を探した。見つけてすぐに指先で潰して遊んだ。ある時父親がそれを見咎めて僕を叩いたことがある。僕が蟻を潰すのと大人が子供を殴ることに何の違いがあるのか。僕は親に隠れて今でも虫を殺している。イライラした時は何度も執拗に叩き潰すと気分が楽になる。悪魔もその時ばかりは鳴りを潜める。


 僕には両親と姉がいる。家族と言っても血のつながった赤の他人だ。僕の中に居る悪魔を信じない。その意味で家族もそうでない人も大差ない。悪魔はこう囁く。

「家族と言っても煩わしい存在だよ。お前の気持ちを汲もうとせずに面倒ごとを押し付けてくる」

 悪魔は僕の代弁者だ。臆病な自分の代わりに僕の本音を言ってくれる。悪魔の声を無視しようとした時期もあったけれど、今では彼の声に耳を傾ける。時折相槌を打つこともある。周りの人にはそれが理解できないらしい。誰だって独り言ぐらい言うだろうに。

 姉は不気味そうにこう言った。

「あなたの独り言は声が大きいのよ」

「でも、そうじゃないと伝わらないんだ」

 姉はいつも僕に軽蔑の目を向ける。いや、姉ばかりじゃない。僕の周りにいる女はみんな僕を軽蔑している。だから僕も女を軽蔑するのだ。


 悪魔の仕業か自分の意思か判然としない時がある。象徴的な出来事。思春期を迎えたある日のことだ。学校から帰った僕は、疲れてベッドに横になった。そして、一人で妄想の世界に浸った。悪魔が描いて色を塗った世界だ。その世界の中の自分はもはや無敵だった。誰も僕を止めることはできない。嫌いな奴はぶっ殺した。首をへし折ったり、腹を引き裂いたり、頭をライフルで撃ち抜いたりした。残酷漫画の一節のような光景が一通り繰り広げられると満足した。それから僕を軽蔑するクラスの女どもを次々に犯した。犯すとはどういうことか。その時の僕は既に知っていた。普段僕を貶す女も、親切にしてくれる女も次々に犯した。女どもは無抵抗で、陰茎を突き上げるたびに嬌声を上げて身体をくねらせる。開拓と同時に憎悪が芽生えて僕は女どもは首を絞めた。押し寄せる快感に頭の中が真っ白になった。……気がつけば射精していた。


 肉欲に目覚めた自分が、それを姉に向けるのに時間は掛からなかった。自分の姿態に頓着しない姉は、些細なことで悪魔を刺激した。コーヒーを飲む姿、髪をかき上げる姿、靴を履く姿ですら悪魔は下衆な笑みを浮かべた。悪魔は囁いた。

「お前の姉は無頓着すぎる。他人の中に潜む性欲がどんな視線を向けているかまるで気づいていないぞ」

 そもそも肉親に邪な欲を向ける者自体いないはずだ。僕だって姉をそんな目で見たくない。姉は僕を軽蔑しているが、僕は姉に親切にしたいのだ。姉を愛しているから。愛している?

「それは家族として? それとも女として?」

 自分は家族として愛していると即答することができなかった。

 姉は僕を軽蔑している。自分のストレスの捌け口にしようと僕を詰り見下した。悪魔は沸々と憎悪の炎に燃料を放り込んだ。

「誰もお前を理解しないし、愛さない。だからお前も理解する必要などないし、愛する必要はない」

 憎悪はさらに燃え上がり、自分の中の良心の声は悪魔によってかき消された。

「何が良心か! そんなものの言うことを聞いても苦しいだけだ。モラルに従ったおかげで得をしたことなんて何もなかったはずだぞ。モラルはいつもお前を苦しめる。こうあるべきという世間の規範がお前を縛り付けて自由を奪っているのだ。お前はもっと欲望に正直になればいい」

 憎悪の炎はいつしか肉欲に変じていた。


 ……私は姉を犯した。いや犯した? 犯そうとした。僕を侮辱するあの口に自分の最も穢らわしいものを突っ込んでやりたい衝動に駆られた。部屋を飛び出してリビングでくつろぐ姉を押し倒した。両親はまだ帰っていない。抵抗する姉の両腕と足を押さえつける。口ほどにもない。あれだけ強がったことを言っていた癖に! 


 ……我に返ると姉は目を閉じて腕をダラリと垂れていた。肩をビクビクと痙攣させ、嗚咽する声が漏れる。一筋の涙が蛍光灯の白色を反射しながら頬を流れていった。舐めるようにゆっくり視線を顔から身体へ下ろしていく。自分が姉を汚したという確たる証拠を認識した時、なんとも言えぬ悦びが腹の底から湧いてきた。僕は姉を犯した。

「……殺して」

 絞り出すような微かな声で姉は呟いた。

 疲れた僕はそれを拒否して自分のベッドに戻って眠りに落ちた。死にたいなら自分で死ねばいい。僕が死にたい時、姉は僕を殺さなかったのだから。


 犯した。僕は姉を犯した。あの忌まわしい女を。犯した? 曖昧な感覚だ。本当のようでいて、全て嘘のような気がする。嘘? もし嘘なら悪魔が見せた嘘だ。

 夜中に目が覚めた。トイレへ行く途中、リビングの前を通ると姉の姿がなかった。姉は死を選んだのか? それとも生きることにしたのか? 急に吐き気を覚えてトイレへ駆け込んだ。真っ白い便器が茶色の吐瀉物で汚れた。この汚物の臭いは? これも嘘か? 鼻先に纏わりつく酸い臭い。これが嘘だと到底思えない。リビングに戻って時計を見ると深夜二時を回った頃だった。

 玄関の戸を静かに開ける。そっと外へ出た。これが現実なのだ。これこそが現実なのだ。夜の街は寝静まっている。等間隔に並んだ街灯は白い光を夜道に投げかけている。その下を僕はゆっくりと歩いた。眠気が残っていることもあって悪魔は現れない。ああ、なんと恐ろしい夢なのだろうか。僕は姉を傷つけたいのではない。姉に親切にしたい。例え理解されなくてもいいから。一言でいい。姉に良くやったと褒められたい。頭を撫でられたい。それだけでいいのだ。

 これまでの自分の振る舞いを思い返すとそれは望めないことだと思った。僕は好き好んで人に嫌われているわけじゃない。気がつけば上手くいかなくなっているのだ。なぜいつもこうなるのか? 悪魔の仕業だ。対人関係が上手くいかないのも、現実と妄想が交錯して区別が付かなくなっているのも。全て悪魔のせいなのだ。


 月のない夜だ。まるで出口がない。街の中をあてもなく歩く。道に迷う。帰る方法が分からない。このまま夜が明けなければいい。永遠の夜の中で、僕はずっと彷徨い続ければいい。今は悪魔が居ないから、このまま悪魔が出て来ないようにするために、ずっと彷徨っているしかない。……自殺する勇気があれば、僕はとっくに死んでいる。学校にいじめられて、家族にも理解されない。もし死ぬ勇気があれば、僕は迷うことなく死んでいただろう。勇気がないのは決して悪魔のせいではない。

 公園を見つけた。ベンチに横たわった。星空は雲に覆われていて見えない。ふと視線を変えると一匹の黒猫が見えた。不吉な猫だ。悪魔が姿を変えているのではないか。そう思うと急に笑えてきた。猫は警戒しているのか近寄ろうとはせず、ジッと視線を向けている。精神異常者の中には動物を殺す奴が居るらしい。深層心理を見抜かれて怖いのだろうか? あの黒猫は僕の心を見抜いている。悪魔の正体も見抜いているだろう。嫌なことから目を背けて、プライドばかり肥大化する僕にはできないことだ。黒猫は無言のまま立ち去っていった。


 秋も深まってすっかり寒くなった。もう帰ろう。随分長いこと歩いた気がするが、日が昇る気配はない。本当にこのままずっと夜が続けばいいのに。僕はまた歩き出した。


 悪魔は僕なのだ。そんなことは分かりきっている。誰もが心の中に悪魔を飼っている。僕の場合は飼っているのではなく支配されているのだ。欲望を悪魔は使いこなす。僕はさらにその悪魔を使いこなさないといけない。悪魔を言い訳にしてはならない。


 ……良心の声より悪魔の声の方が心地よい。


 悪魔よ、悪魔。

 私を苦しめて、私を滅ぼす者よ。

 世界を滅ぼす力がないならば、私を滅ぼせばいい。


 終

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