紫煙けぶる

みつまめ つぼみ

紫煙けぶる

 しとしと、しとしと。今日は良く降るなぁ。もう終電も終わったってのに一日中振ってないか?


 俺は雨の中、狭い喫煙スペースで一人、煙草を味わっていた。


 二十年吸ってきた銘柄はもう、自分じゃ匂いも良く分からない。それでもなんとなく、落ち着く香りが鼻をくすぐる。


 今日は何とか報告書を書き上げたけど、週明けには残った課題に取り組まないと。


 同僚の尻拭いとか、いつになったらやめられるんだか。


 ――おし、あと一本吸ったら帰るか。


 吸殻を灰皿に押し付け、新しい一本を取り出そうとすると、夜の町にカツカツという足音が響いてきた。


 ハイヒール? 傘を忘れた人が走ってるのか?


 その足音が近づいてきて、同時に人影があらわになる。


 ネイビーのジャケットに白いブラウス、グレーのパンツを穿いた女性だ。


 雨に濡れた女性は喫煙所に駆け込むと、長い髪をかき上げて一息ついた。


「――はぁ、酷い雨ね」


 俺に言ったのか?


「はぁ、そうですね」


 女性の切れ長の瞳が俺を見て告げる。


「悪いんだけど、一本もらえる?」


 彼女の指が二本差し出され、俺に煙草を要求してきた。


 こういう時に融通しあうのがヤニ・コミュニティ。だけど――


「俺の銘柄、きついけど大丈夫か?」


「別にいいわ。今はとにかく一本吸いたいの」


 俺は煙草の箱を胸ポケットから取り出し、中から吸い口を取り出しやすいようにトントンと底を叩いてから差し出した。


「ありがと」


 女性は一本つまみだしながら、銘柄を確認して眉をひそめる。


「やだ、ずいぶん強いの吸ってるのね」


「悪いか? 気が付いたらどんどん強くなってた。今じゃ軽い奴は空気吸ってる気分にしかならん」


「アハハ! 救えないわ!」


 女性が煙草をくわえるのと同時に俺はポケットからライターを取り出し、火をつけてやる。


 彼女が軽く吸い込んでから肺に煙を送り出し、煙と共に深く息を吐きだした。


「……強いわね。くらくらするわ」


「いつもは何を?」


「――よ。知ってる?」


「ああ、あの長い奴ね」


 メンソールで軽い、女性に人気の銘柄だ。なんで女性はメンソールを好むのかね。


「それじゃあ、こいつはきついだろ」


「いいのよ、たまには悪くない」


 女性が再び煙草をくゆらせ、夜の喫煙所に小さな赤い花が咲いた。


 俺も一本取り出し、火をつけてから思い切り吸い込み、肺の奥から煙を押し出す。


「なんで傘を持ってないんだ?」


 余計なセリフだったかな?


「……まぁいいじゃない、そんな小さいこと」


 小さいか? だって朝から降ってるんだぞ?


 だけど聞くなと言われると、それ以上は何も言えない。


 俺たちは交互に煙草の先に赤い花を咲かせながら、夜の喫煙所を白く染めていった。


「……私って、魅力ないかな」


 唐突だな。女性の思考回路は理解が難しい。


「そんなことはないと思うが」


 女性が自嘲するかのような笑みを浮かべた。


「さっきさ、私振られて来たんだよね」


 ……まぁ、そういう夜もあるよな。


 俺が黙って煙草の煙を一吸いすると、女性が再び口を開く。


「あなた、このあと暇?」


「まぁ、あとは帰って寝るだけだし」


「じゃあさ、これからちょっと飲みに行かない?」


「はぁ?! これから?! 終電終わってるんだぞ? あんたは帰れるのか?」


 女性がニヤリと俺に流し目を寄越して告げる。


「男が細かいことを気にするんじゃないわよ」


 どことなくとろんとした目付き、赤みのさした頬。これは――


「……あんた、さてはもう酔っぱらってるな?」


「ふふ、ちょっとだけよ。ビールをジョッキでほんの五杯」


「充分だろう?! まだ飲むのか?!」


「飲み足りないのよ――ほら、吸い終わったなら早く傘を差して。相合傘しましょう!」


 バシンと背中を叩かれ、俺は吸殻を灰皿に突っ込むと渋々傘を広げた。


「どこに行くんだ? 週末のこの時間じゃ、どこも混んでるぞ」


「どこでもいいわよ。あなた、この辺詳しいんでしょ?」


「そうでもない。けど歩きながら店を探してみるか」


 俺の差した傘に、女性が入り込んでくる。肩をくっつけるようにしてくる女性からは、たばこの香りと酒の匂いがした。


「……やっぱ飲み過ぎじゃねーか?」


「だから、飲み足りないの! ついでに愚痴に付き合いなさい!」


 彼女の手が俺の背中を押し、俺たちは前に歩きだした。


 確か、飲み屋街はあっちだったな。


 俺たちは飲める場所を探して、雨の中を歩いて行った。





****


 混みあった居酒屋の狭い二人席で、俺たちはグラスをかちあわせた。


 俺がお通しのおひたしに箸をつけていると、女性は早速グラスのビールを飲み干した。


「店員さーん! ビールお代わりー!」


「よろこんでー!」


 店員の声が遠くから響く。


 俺は呆れながらハイボールに口をつけ、彼女に尋ねる。


「あんた、ビール好きなのか?」


「女がビールを好きじゃ悪いの? 甘いお酒を飲んで『キャー美味しー!』とかはしゃげって? ハッ! 私をいくつだと思ってるのよ。二十七よ? 二十七!」


 俺は苦笑を浮かべながら応える。


「充分わけぇよ。俺はもう四十を過ぎた。こんなおっさんと飲んでいい年齢じゃないだろ」


 女性の目が俺の服を見てるようだった。


「……あんた、サラリーマン?」


「そういうあんたも、OLじゃないのか?」


「質問に質問で応えない!」


「あーはいはい、サラリーマンだよ。コンピューター関係」


 女性がお通しに箸を付けながら告げる。


「くたびれてるわねぇ……そんなに忙しいの?」


「今ちょっと案件が立て込んでてね。おかげさまで終電帰りだ」


 新しいビールが届き、女性がそれを一口飲んでから告げる。


「――ふぅ。あたしはね、アパレル系。わかる?」


 俺は肩をすくめて応える。


「さっぱりだ。他業種の事は専門外でね」


「なによあんた、彼女とか奥さんとか居ないの?」


「昔は居たが、今は居ない。付き合っても長続きしねーんだ」


 女性がジロリと睨んできた。


「なんで? 振るの? 振られたの?」


 ん? 『女を振る男』に敏感になってんのか?


 俺はフッと笑って応える。


「俺が振られるんだよ。『仕事に構い過ぎだ』とか『もっと自分を構え』ってな」


「そう……あんたも仕事人間なんだ。実は私もなんだよねー。仕事が楽しくてさー」


 グイッとグラスを半分開け、女性が酒臭い息を吐きだした。


「ま、その気持ちは理解する。俺にとっちゃ仕事は自分の半身みたいなもんだ。それをおろそかにはできないからな」


 ダン、と女性がテーブルに拳を叩きつけた。


「そうなのよ! 特に私はキャリアの大事な時期なの! 男にばっかり構ってられないのよ!」


「……それで恋人に愛想をつかされて荒れてるのか。そりゃあ縁がなかったと思って諦めろ。男の見る目がなかったんだろ」


 女性がジト目で俺を見つめてきた。


「何よ、慰めてくれんの?」


「あんたは良い女だよ。そうやって自棄を起こして、失敗するなよ? 俺みたいなどうしようもない人生になるぞ」


 女性がクスリと笑った――笑うと可愛い表情になるんだな。


「やだ、なにそれ。自分がどうしようもないって思ってるの?」


「実際にどうしようもないからな。あとはもう、こうして年を取るだけだ。恋愛をする年齢も過ぎた」


 そして孤独に死んでいく――そんな人間が、これから多いんだろうな。


 俺がハイボールを味わってると、女性が俺にぽつりと告げる。


「やっぱり恋愛って、年齢で終わっちゃうのかな。若い女には勝てない?」


「なんだよ、若い女に寝取られたのか」


「ストレートに言い過ぎよ――でもそうね、そういうことだと思う」


 ビールのグラスを空けながら、女性が何かを考えていた。


 俺は煮物を口に放り込みながら、この女性をどう家に帰すかを考え始めた。


 電車は終わり、雨の日の週末じゃタクシーも来るかはわからない。それでも歩かせるよりはマシか。


「あんたは年齢を気にしてるみたいだが、二十七なんて全然若い。まだまだ気にする年齢じゃねーよ」


 はぁ、と女性がため息をついた。


「だといいんだけどね……あ! 店員さーん! 鶏のから揚げ一つー!」


「よろこんでー!」


 店員の声が再び木霊した。


 この調子じゃ、何時に帰れるかもわからねーな。どんだけ飲む気だ?



 俺はそうして彼女の愚痴に相槌を打ちながら、ハイボールを三杯空けていった。





****


 鳥のさえずりで目が覚める。なんだか身体が重たい。


 寝ぼけた頭でぼんやりと昨晩のことを思い出した。ああ、女と出会って、酒を飲んで、それから――


 俺は慌てて起き上がり、横で寝ている女性を見下ろした。


 一糸まとわぬ姿で俺に抱き着いている彼女――確か、涼花とかいったか。


 ……やらかした。酒の勢いで彼女に一晩の過ちを犯させちまった。


 自分の浅慮に自己嫌悪に陥りながら、彼女に布団をかぶせたあと、俺はシャワーを浴びに浴室に入った。





 シャワーから上がり頭を拭きながら浴室から出ると、涼花はベッドの上でぼんやりと天井を眺めていた。


「起きたのか? 水、飲むか?」


「……うん」


 コップに水道水を注いで彼女に渡す――彼女は羞恥心も見せずに布団から起き上がり、そのままコップを受け取った。


 水を飲む彼女に俺は告げる。


「せめて隠せ」


「昨日の夜、さんざん見てたでしょ。今さらよ」


 ま、そりゃそうなんだが。


 俺はローテーブルの上に散らばる酒盛りの跡を片付けながら告げる。


「昨日の事は忘れちまえ。犬にでも噛まれたと思っておけよ。お互い酔い過ぎた」


 げ、ビール缶が全部空いてやがる。十本買ってきて全部飲んだのか。


 涼花がコップの水を飲み干してから俺に告げる。


「何よ、責任逃れする気?」


「そんなつもりはないが。あんたにとって俺は荷物にしかならねーだろ」


「……そうでもないんじゃない? お互い仕事人間で、負担になるような相手じゃないし」


 俺は台所に洗い物を片し、空き缶を開き袋に詰め込むと涼花に向き合う。


「やめておけ。今のお前は情緒不安定で、誰でもいいから心の隙間を埋めて欲しいだけだ」


 涼花は目を伏せながら応える。


「わかってるわよ、そのくらい。でもじゃあ、安定するまでは相手をしてよ」


 俺はベッドの上に腰を下ろして、改めて涼花の顔を見た。


 後悔……してるわけじゃないな。


 こりゃ振られた後の喪失感だ。


 俺はため息をついてから応える。


「わかった。その条件でいいなら飲み友達になってやる。だけど早めに見切りを付けろよ。あんたはまだ若いってことを忘れるな」


「ん」


「シャワー浴びて来いよ。そのままだと気持ち悪いだろ。タオルは用意してある」


「ん」


 布団から起き上がった涼花は、男らしく何も隠さないまま浴室に入り、ドアを閉めた。


 あいつ、俺より男らしくねーか?



 涼花がシャワーを浴びてる間に飯の用意をして、テーブルの上に並べておく。


 ついでに散乱する服を拾い集め、整えてベッドの上に置いておいた。


 シャワーから上がった涼花が「服は?」と聞くので「ベッドの上」と応えた。


 髪を拭きながらベッドに近寄り、手早く下着を付けて行く。


 下着姿の涼花がテーブルの上の料理を見て「食べて良い?」と聞いてきた。


「大したもんじゃないが、食えるなら食っとけ」


「ん」


 肉野菜炒めを頬張り、みそ汁を飲む。そんな涼花の姿を、俺も飯を食いながら眺めていた。


「……食事をしてる姿が、そんなに面白いの?」


「美味そうに飯を食う姿も、魅力的に見えるもんだ。あんたにもそのうちわかるさ」


「ふーん」


 食い終わった涼花はブラウスを着てロングパンツを穿き、ジャケットを着込んで告げる。


「連絡先を交換しましょう。また飲みたくなったらメッセするから」


「はいはい」


 スマホを取り出して連絡先を交換すると、涼花が時計を確認した。


「……もう電車は動いてるわよね」


「まぁ、七時だからな」


「……引き留めよう、とかは思わない訳?」


「帰りたければ帰ればいい。残りたいなら、あんたの分の食材も買って来ないとならん。決めるなら早くしてくれ」


 涼花がクスリと笑みを浮かべた。


「残ってもいいんだ?」


「ここまで来たら気にする事でもねーだろ。今夜も酒盛りして、愚痴り合うか?」


「……そんなに昨晩は楽しかった?」


「……まぁ、それなりにな」


「じゃあ休みだし、昼間から飲みましょう」


 俺は思わずジト目で涼花を見てしまった。


「昼間からかよ……底なしか?」


「飲み足りないのよ……それだけ」


 心の隙間が埋まらない、そういうことか。


「はいはい、酒を仕入れて来ればいいんだな? 他に欲しいものは?」


「自分で買ってくるわ。合鍵ある?」


「んーちょっと待ってろ」


 俺は戸棚から合鍵を取り出し、涼花に渡した。


「返したくなったら郵便受けにでも突っ込んどいてくれ」


 涼花がクスリと微笑んだ。


「そうするわ――それじゃ、また後で」


 そう言い残し、涼花は部屋を出て行った。


 ……嵐のような奴だったな。


 まぁ、こんな風に女と付き合うのも初めてじゃない。こういう関係は、えてしてあっさり終わるもんだ。


 俺は二人分の食材と酒か。重たいから車を……いや、酒気が残ってるとまずいから自転車にするか。


 俺は自転車の鍵を手に取り、部屋を出た。





 結局涼花とは、週末の二日間を共に過ごした。


 朝から晩まで飲みながら、お互いの身の上を少しずつ話していく。


 愚痴に共感してやりながら、俺は静かに酒を身体に流し込んでいた。


 そういえば、なぜか涼花は週末の間、俺の煙草を吸いたがった。


 自分の銘柄を買ってくればいいのに、忘れたんだろうか。


 ――まさか、付き合う男で銘柄が変わるタイプか? まさかな。あいつは男に依存するタイプに見えねぇ。



 日曜日の夜、涼花が玄関で俺に告げる。


「悪かったわね、付き合わせて」


「たまには悪くないさ。だが毎週だと破産する」


「じゃあ今度は私がお酒を買ってくるわよ」


「そうしてくれ――気を付けて帰れよ」


「そうね、そうするわ」


 パタン、と閉まったドアが、妙に胸に寂しかった。


 静まり返った部屋を眺めた俺は、ため息をついてからベッドに座り込んだ。


 ふと部屋の隅に目をやると、彼女が残した化粧品類が置いてあった。


 ……『今度は』か。ばっちり来る気満々じゃねぇか。


 次はいつ会えるかねぇ。


 俺は煙草を一本取ると、静かに火をつけ、紫煙を吐いた。

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