階段落とし

翡翠

 

 私の名前は愛花あいか。多分、誰もが良い子と評してくれるはず。成績も悪くないし、先生の手伝いも進んで行う。


 周りには笑顔を絶やさないようにしているし、どんな会話にも心から楽しそうに見えるよう、細心さいしんの注意を払っている。


 でも、本当の私は違う。心の底に、目覚めてはいけない感情がある。時々、ほんの些細なきっかけで目を覚まし、私の手を借りて存在を証明しようとする。


 あの日もそうだった。教室で友達と話をしていた時、クラスメートの紗凪さなが私に向かってこう言った。



「愛花ってさ、正直優等生ぶってるけど、裏では何考えてるのか分かんないよね。目の奥が見えないというか」



 その一言は、私の中で何かを刺激する。ああ、紗凪は私のことを分かってないんだ。この世で私の本当の姿を理解している人なんて誰もいないけど、それが、とても不快に思う。



「そんなことないよ、普通に話してるじゃん」



 笑顔で返したけれど、引き攣っていなかっただろうか。その心の奥底には静かな衝動が渦巻く。


 あの穏やかな私が薄くなり、内側からあの感情が広がっていく。これが自分の中に広がり切るまで、もう待ちきれない。




 放課後、紗凪を待っていたのは、夕暮れの光の筋が見える中央階段の踊り場。


 私は、彼女が部活を終えて階段を下りてくるのを物陰からじっと見つめた。ゆっくりと歩いてくる彼女の姿をながめながら、私は静かに前に進む。



「お疲れ様、紗凪」



 振り返った彼女は、ハッと驚いたように目を見開く。そして、私はこれ迄になく口角を上げて微笑む。友達らしい気軽さを装い、彼女の肩にそっと手を添えた。


 添えた手を私は体制を整えて背中に押し付ける。ほんの些細な圧力だったけど、紗凪の体はフッと前に傾きバランスを崩して、階段を転がる。


 鈍い音がいくつも響き、彼女が踊り場に崩れるように倒れ込んだのを少しだけ見下ろす。



「紗凪大丈夫?」



 私は駆け寄り、心配そうに声をかけた。他の生徒もすぐに集まってきて、騒然そうぜんとしている。


 誰もが事故だと思い込んだ。まさか、私が突き落としたとは夢にも思わないのだろう。


 私の心の中に広がる満足感。それを周りには決して見せない。ただ冷静に、淡々と、誰もが思う優しい愛花の顔を保っていた。




 このような出来事は、実は何度か繰り返している。相手が私を不快にさせる一言を口にするたびに、私はその人をてきた。処理とか言うと復讐じみてて嫌だから私にとっては。その程度のことでしかない。


 ある日も、クラスメートの和也が廊下で一人でいるのを見つけた。彼は数日前、私の前で無神経に、女なんて見かけが良ければいいなんて言った。


 まるで私を表面だけだと軽んじるような物言いで、心底腹が立つ。


 この時は、何も言わずに和也に近づき、彼が階段を下りようとするタイミングを見計らって、背中をそっと押した。彼が無防備むぼうびなまま階段を転げ落ちていくのを、私はまたしらけた目で見つめる。


 彼が階段の下でうめき声を上げた頃、私は何食わぬ顔で他の生徒と一緒に駆け寄り、心配そうに声をかける。



「大丈夫?和也くん」



 周りの目を一切気にすることなく、私はいつもの愛花として振舞う。この私こそが、みんなが知っている愛花だと信じて疑わないのだから。


 だけど、本当の私はこのような行動を何とも思っていない。ただ、それが私にとって自然で、正しい行いだと感じる。




 私のによって被害に遭う生徒が増えていく。しかし、私を疑う者はいなかった。私の無垢で柔和な表情が、私を守っている。


 だけど、そんな平穏な日常が少しずつ崩れ始めていると感じるようになった。



「最近、事故多くない?特に階段での怪我が増えてるって」


「…愛花ちゃんも、毎回事故現場にいるでしょ?」



 心臓が一瞬、大きく跳ねるのを感じたが、私は何事もないように話を続ける。



「偶然だよ、たまたまその場にいただけ。本当にビックリしたんだから」



 そう自分に聞かせるように深く息を吸う。しかし、彼女らの視線の中に、僅かな疑問があることを感じた。私の完璧な仮面にヒビが入り始めているのだろうか。




 それでも、私は止められなかった。止める理由も意味も私にはない。怒りに触れる一言を言われれば、私は手を動かしてしまう。


 それは、もはや癖となり、私の一部に溶け込んでいる衝動だった。




 そして、私は友人の沙也加と屋上で話をしていた。彼女が何気なく、言葉を投げかける。



「愛花って前から思ってたんだけど、何か怖いところあるよね!なんていうか」



 その一言が、冷たい湖面に波紋を広げた。その波紋は私の全身に広がり、視界がほんの一瞬だけグラつく。


 私は、ただ真っ直ぐ彼女を見つめた。無言で一歩、近づく。彼女が何かを感じ取って身を引きたかったのだろう。


 でももう遅い。私は彼女の肩にそっと手を置き、優しい声でささやく。



「怖い?そんなことないよ」



 その言葉と共に、私は彼女を静かに押し出した。

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階段落とし 翡翠 @hisui_may5

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