御出でませ、八十神怪異探偵事務所の中卒陰陽師様!
夢咲蕾花
第1話 反転世界の怪異探偵事務所
「はぁ……マジかよ、この歳でホームレスなんて……笑い話にもならねえって」
財布の中身が尽きるまでに次の仕事を見つけないと、本当にコンビニの廃棄弁当を漁って段ボールハウスを建てる暮らしになる。それはあまりにも惨めで、自分が思い描いていた十七歳の暮らしではない。
世の中の十七歳はごく普通に高校に通っていて、家に帰れば家族が待っていて、あるいは自分の趣味を極めんとしている。あるいは恋人なりがいるだろう。成功を求めてあるいは何かを求めてもがいているかもしれない。既にスポーツや芸術で大きな成果を出しているかもしれない。それに比べ自分は、高校一年の秋に中退してフリーター生活でバイトを転々とし、挙句とうとう、住む場所も連絡先も失った。
というか連絡先がない、住所不定の自分を雇ってくれるところなんて運営実態の怪しい土建屋くらいしかないんじゃないか、という気がしてきた。どんな扱いを受けるかわからない。毎日のように罵声を浴びせられるのも、殴られるのも、犯罪の片棒を担ぐなんてごめんだ。
どん詰まり。まさしく、その状態だ。
床屋に行くのが億劫で伸ばした結果ミディアムヘアになった黒い髪に、茶色の瞳と黄色の肌。典型的な日本人だが、目鼻立ちは意外と、悪くない。もちろんイケメンとかハンサムとか言われるモデルに比べれば遥かに見劣りするが、ブ男と悲観するレベルではなかった。実際、過去には恋人もいた。
「先生」の声が聞きたいな、と思ったが、スマホはもうガラクタだ。いっそ売ってしまった方がいいが、六年も使い込んだ随分な型落ちに、いったいいくらの値がつくだろう。ならいっそ、自分でバラして売った方が高値がつきそうである。携帯などの電子機器のパラジウムや白金などの希少金属は、そういった専門の買取店で買い取ってもらえるだろう。
頼人は夜の街をあてもなく歩く。無料の求人誌を持ち帰っていいラックがある駅かなんかに行こうと思った。
行き来する人々は明るい顔、暗い顔をビルや車のヘッドライトに照らし、夜の街を歩いている。この都市は人口七十七万人。往来は、それなりに多い。本当は求人誌なんかなじゃなくて、ただ人肌恋しくて中区まで来てしまったが、却って惨めな気持ちになってしまった。
人間の悩みの多くは対人関係。内訳は、比較、だ。他人と比較するから、人間は悩み、苦しみ、あるいは慢心し驕り昂る。
こんなはずじゃあなかった……。頼人はいよいよ歩くことすら嫌になってしまう。いっそ隅で座り込んでしまおうか。負け犬には相応しい姿じゃないか。
ふと、数メートル先にさっきまで誰もいなかったように思うが、スーツ姿の若い男が立っていた。やけに目立つ、白い髪。手には、ビラ。だが束はない。最後の一枚だろうか。
通り過ぎよう。どうせ怪しい宗教の勧誘だ。
「お兄さん、僕が見えてるんでしょ」
素通りしようとしたら、テノールの美声で、そう声をかけられた。
振り返ると、子女と言えるほどに容姿の整った美しい白髪――月白、ともいうべき色合いの髪の青年で、彼は微笑みを浮かべてビラを押し付けてきた。
パンツスタイルをやめてタイトスカートを履けば、そのままOLで通るようなほどの美形だ。特にメイクもしていないし、この世にこんな美貌の男がいるのかと純粋に驚きだった。ユニセックス。女装ではない。作り物の両性感ではないのだ。自然な、その美しさ。
思わず見惚れ、慌てて首を振った。
「あの、なんすかこれ。宗教なら俺、間に合ってます」
「宗教じゃあないよ。じゃあ、僕はこれで」
「はあ? なんだよ、これ」
ビラに目を落とすと、「
今の自分には願ってもいない幸運で、ハッとして青年を見たら、そこにはもう誰もいなかった。
高校中退——つまり中卒の自分に手取り二十万はありがたい。休日不定期は気になったが、しかし住み込み可能という文字に、目を輝かせた。
「あのっ」
キョロキョロと辺りを見回しても誰もいない。やはり、さっきの美男子はどこかへ去ったらしい。帰ったというべきか。頼人は目を細め、それからビラに視線を落としてよく見た。下の方には文字化けした住所と思しき文字列と、「興味がある方にお電話おかけします」とあって、そうして軽く絶望した。
電話をもらうためには連絡先を伝える必要がある。だが、自分のスマホはもう契約切れだ。なんだよ、ぬか喜びか。住所だって読めないし、直に行くこともできない。
そう、思っていたら。
「え……」
スマホが鳴った。しかも、全く知らない着信音だ。コンビニなどでよく聞く
充電の減りが早いから電源を落としていたのに、突然。何故鳴った? あるいは自然放電で、とっくに充電は切れているかもしれない。
知らない着信音で。曲自体は知っているが、こんな音楽ダウンロードも、設定もしていない。だが、慌ててチノパンのポケットから携帯を取り出して画面を見る。
するとそこには文字化けしたような奇妙な文字列が映っていて、緑の受話器ボタンが早く押せよ、というふうに震えていた。電波強度はなし。そしてバッテリー切れの表示。
なんだこれは、幻覚を見ているのか? ストレスと不安でおかしくなったのか? というか、怪異探偵事務所、だって? 怪異って、あの怪異か? 八尺様や、口裂け女、トイレの花子さんのような。
すると、突然通話がつながった。
「やあ。君だね、うちのビラを受け取ったのは」
スマホを耳にあて、頼人は思わず聞いてしまった。
「あのっ……これはなんなんですか? 本当に住み込みで雇ってくれるんですか? 手取り二十万って……俺もう家もスマホももうなくて、使えなくて、頼れる人もいなくてやばいんです。来月、いえ、一週間後どうなっているかもわからなくて……マジでなんでもします! 死ぬことと犯罪以外は、なんでもっ——」
「わかった、わかったよ。よほど切羽詰まってるんだねえ」
明らかに怪しい――いや、その方向性が裏社会的なものではなく、オカルト的な妖しさを孕んでいるのに、頼人はとにかくそのことを気にしていた。明日の生活さえままならなくなると、人間はそれがあやしいものにも縋ってしまうと知った。おそらくはそれが、追い詰められた人間が罪を犯す心理なんだろうとも、そう思った。
自分は、卑劣な犯罪者なんかにはなりたくない。真人間……と呼べる人生ではなかったかもしれないが、他人を害してまで利益を貪る真似をしたくなかった。
とにかく――とにかく今は藁にもすがる思いだ。オカルトだろうがなんだろうがいい。この歳でホームレスは嫌だ。生活保護なんて暮らしはもっと嫌だ。あんなのは生きているうちに入らない。家畜以下の扱いではないか。そして犯罪者なんて、もっともっと嫌だ。豚箱で成人式など迎えたくない。自分は真面目に真っ当に稼いで、楽しく自由に暮らしたい。理由なんてないし、必要もない。とにかく幸せになりたい。
「とりあえずうちに来てもらおうか」
「えっ、なんですって? 住所、読めないんですけど、これ。どこですか? 市内?」
「うん、まあ……ハイ、三、二、一」
スマホの向こうでパァン、と手を叩く音が聞こえた。突如、視界がグルンっと大きく回り、景色が二重三重にダブって、少し気分が悪くなって、頼人は見知らぬ部屋に飛ばされていた。
「いてっ」
思わず尻餅をつく。
尾てい骨を強かに打ち付け、頼人はみっともなく涙ぐんだ。背骨にナイフが駆け上がってくるような痛みに、頸椎が焼けそうになる。どうにか立ち上がりながらケツをさすり、涙をジャケットの裾で拭う。
そこは海のような青いライトが点けられた部屋で、視線を上げると美しい顔立ちの——どこか人を食ったような顔をした赤い髪の女性が社長椅子に腰掛けこちらを見下ろしていた。青い光で赤い髪が毒々しく紫色のようにも煌めき、いや、ここは怪異探偵事務所だから所長椅子というべきか? 違う、それは、どちらでもいいことだ。
頼人は立ち上がって、事務所と思しきそこの内を見回した。
応接用のふかふかした革張りのソファに、ちょっとした、来客に茶を振る舞うためであろうキッチンには目隠しカーテンが胸の高さほどのところに垂れている。仕事をするオフィスには机が六つ並べてくっつけられ、上座に所長の席と机。合計七つのスチールテーブルと、良さげなチェアがある。
機械に詳しくない頼人だが、随分とパワーのありそうなPCが組まれており、サーバーマシンまで設置されている。なにか、ちょっとしたSNSでも運営しているんだろうか?
棚には何かの資料やファイリングされたものが差し込まれ、棚のガラス窓には付箋が重ねて貼り付けられている。壁際には大きなテレビモニターが据えられていた。
暑い夏が終わり、十一月も後半。急に冷え込み始めた神奈川の部屋には静かな暖房の音が響いている。
「愉快だね」
女は頼人を見るなりそう言って、笑った。
「何がですか……っていうか、一体……ここは」
「いうほど驚いていない。小さい頃、っていうか今でも
「…………」
「いいよ、採用してあげる。人手にはすごく困っていてね、人の手も借りたいくらいなんだ」
「猫の手じゃないんですね」
「猫は間に合ってるからね」
ひょっとしたら、自分は……まずいことになったんじゃないか? そう思った。
「あの、ここって
箱辺半島は、真鶴市から東に向かって伸びる半島だ。そこに、溟月市はある。
「うん。その、反転世界。
「…………外を、見ても?」
「やっぱり驚いてないじゃないか。……どうぞ」
頼人は窓辺に寄って、ブラインドに指を差し込んで開いた。バリバリ、と音を立てて蛇腹のそれが上下に開く。
すると外は、まるで宇宙空間のような光景であり、その中にいくつもの浮遊する岩場や巨大な氷柱、ビルのようなものが漂っている。
岩場には森があったり、湖からはとめどなく滝のように水が流れていたり、かと思えばそれは空間の穴から垂れ落ちて湖に注がれ循環している。
「砕かれた街が……ステンドグラスのように宇宙に散りばめられてる」
「詩的な表現だね。好きだよ」
「どうも……これは高度なプロジェクションマッピング?」
「なわけないでしょう。令和七年現代にはまだそこまでの技術はない。いくら人間にもまだ無理だ。無論、VRだとかARを窓に投影しているわけじゃない。空気は普通にあるけど、あんまり外には行かないようにね。迷うと探すの大変だから」
好んであんなところに行くわけがない。奇妙な場所だ。熟知していたとしても、喜んでこの反転――幽世に出て行ったりしないだろう。
とまれ、頼人は女に向き直った。姿勢を正し、
「橘川頼人です。これからよろしくお願いいたします」
「所長の
日本の年間行方不明者数は、二年前の段階でおよそ九万人。帰ってくることもあれば、帰ってこないこともある。犯罪、事故、あるいは自発的な蒸発。
しかしその中の何割かには、怪異、と呼ばれる現象が絡んでいる。
人智の及ばぬ異質な何かが人間を、さまざまな理由で神隠しし、気まぐれに連れ去ったり帰したりする。
禁足地で見られる、奇妙な失踪事件もその類だ。数日もの間見つからないのに、そこからある日思い出したようにひょっこり帰ってきて、その時のことを硬く口を閉ざし、語らない。
「語らないというより覚えてないか、我々のような存在が硬く口止めするんだけれどね。……怪異の原因は様々だ。私たちはそれを探り、
「そんな恐ろしいものと、俺は……どう探偵すれば」
「ははは、妖怪も怪異も可愛いもんさ。本当に怖いのは人間だよ、陰陽師君」
麗蘭はそう言った。頼人はうん? と思い、聞き返す。さっきから聞いてばかりだな、と思いながら。
「陰陽師ってなんですか」
「君は橘氏の陰陽師の血を引く遠い子孫だよ。見ればわかる。ヒトを見る目は上司の必須スキルだからね」
「……冗談ですよね」
「じゃあどうしてあのビラを受け取り、電源の入っていない、回線切れのスマホに連絡が? 君に霊力があったから竜胆を見れたし、私の霊力通信にも応じられたんだ」
専門用語が飛び交い、頼人はモゴモゴと、言葉を探る。だが、思い当たる節は小さい頃からいくつもあって、否定する材料が出てこなかった。
幽霊のようなものが見えていたし、会話もできて、ときどき襲われそうになったり、なんなら自分がその行方不明の被害で数日、奇妙な藍色の鳥居の神社のような場所にいたこともある。そこには妖怪が山のようにいて、人間臭く暮らしていた――気がする。
頼人は麗蘭を見た。彼女の燃えるように赤い目を、真っ直ぐに。
「あの……その。ありがとうございます。本当にもう、終わった、って思ってしまっていたので。よかった。本当に……」
「そう簡単に人生は終わらないよ。終わって貯まるものか。もしそうなら、人類の天下なんて、とっくに終わっていただろう。やつらは、口では色々いうが、結局しぶとく生きる。だから私たちは、彼らを愛し、守るんだ」
麗蘭は席を立ち、こちらに歩んできた。立たれるとわかるが、背がスラリと高く、スレンダーだ。隣に立ち、とん、と背中を叩く。
「少しにおうよ。シャワーでも浴びてきなさい。着替えはこっちで用意するから、今日はもう休むんだ。いいね」
「はい……」
いざそう言われると、自分がひどく疲れていることを実感した。体が重くなった気がして、頼人は麗蘭に案内されながら、シャワー室へ向かうのだった。
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