第41話 サボろう!


 社畜の朝は早い。

 俺は大体7時半ぐらいに家を出ることが多いが、起きた時にはもう彼女はいない。それでいて、帰ってくるのも日付が変わってから。もう絵に描いたようなブラック企業の社員である。

 けれど、彼女がそれを良しとしているのであれば、俺がどうこう言うことも変な話。だから出会ってから今に至るまで、仕事の話でどうこう言った記憶はない。

 でもどこかで、時間の問題だろうと思う自分がいたのも事実だった。佐富士初夏が何を思って線路に飛び込もうとしたのかは、いまだに分からない。ただ、仕事に追われて心が幾らかのダメージを受けていることぐらい、俺にでも分かった。


 そんな彼女は、自らの心に従うように助けを求めてきた。昨夜、あの一瞬だけ。でもきっと、彼女は今日も職場へ向かうのだろう。本音を見せたことすらも、記憶から消してしまって。


「おはようございます」


 朝の5時。リビングでスマホをいじっていると、彼女が部屋から顔を出した。スーツ姿で化粧もしている。同時に俺がいることに気づいたその表情も、ある意味では想定通りだった。まだ少しぼーっとしているのか、体をびくつかせることはなかった。


「な、なんで……?」


 声を絞り出すように彼女は言う。力は無かった。まあこんな朝っぱらから元気良く挨拶をしてくる人の方が珍しい。ただ俺は、いつもとは違った朝だったこともあって、すっかり瞳は覚醒している。


「昨日言ってたじゃないですか。行きたくないって」

「あ、あれはその……本気で言ったわけではなくて」

「嘘ですね。佐富士さんはそんな半端なことは言わない」

「そんなことは……」


 いつもより返答が弱い。なんだか剥き出しになった彼女の心と喋っているみたいで、妙にドキドキしてしまう。

 やはり俺の推察は正しかった。これでいつも通りの時間に起きていれば、きっと彼女はすでに家には居なかっただろう。さすがに始発に乗ることはないだろうと踏んでいたが、朝の5時に家を出るとなればほぼ始発である。マジでどんだけだよ。


「なんでスーツ姿なんですか。今日は休みましょう。顔色だって良くないですし」

「具合は大丈夫ですから」

「ダメです。それに体調が良いとは言わないんですね」


 揚げ足取りのようになったが、事実だから何とも思わない。佐富士初夏は疲れ切った表情で床に座っている俺に視線を送る。無視して玄関に向かわないあたり、その感情は揺れているのだろうか。

 だったら来い。俺のところまで。これまでもきっと、体調が悪くても出社していたのだろう。会社を休んだことがない人間にとっては、休むことが大罪のように見えるのかもしれない。だが世の中には色々な人間がいる。推しに熱愛疑惑が出て休むような人だっているんだ。俺は違うけれど。


「……無理です」

「どうして?」


 問いかけるけど、彼女の返答はない。少し考えているようだったけど、諦めて玄関に向かおうとした。俺は咄嗟に立ち上がって、彼女の手首を掴む。それは、ビックリするぐらいに細かった。


「何してるんですか」

「離してください。仕事に行きます」

「ダメです。昨夜のは、本心ですよね」

「……」

「もっと言えば、仕事はいくらでもあります。固執する必要なんてない」

「アナタに何が分かるの」

「分かりませんよ。だから今まで言わなかったんです。だと思われたくないから」


 離して、なんて言うけれど、彼女はジッと俺に背を向けたまま動かない。振り払おうともしない。今この瞬間、佐富士初夏の本心を読み取ることができれば、どれだけ楽だろうかと考えた。彼女が求める言葉を、求めるタイミングで言ってあげれば、この人は救われるのだろうか。それすらも、今の俺には分からなかった。


「何を言われるのか、分からないの」


 そんな俺の心中を察したのか、先に口を開いたのは彼女だった。ここで良い言葉を掛けられなかった後悔がじわじわと心を侵食していくが、今は彼女の意思を聞くことが大事だと割り切る。


「上司から?」


 問いかけると、彼女は小さく頷いた。


「その……どういう人なんですか」

「私たちを憂さ晴らしの対象でしかみてない。休んだりしたらきっと、私は目のかたきになる」


 なるほど。どこにでも居るんだな。そんなクズ。

 彼女の言い方的に、きっと目を付けられないよう上手く立ち回っているのだろう。であれば、俺の提案は完全に愚策。そんな彼女の日常を壊しかねないアイデアでしかない。


「佐富士さんはどうしたいんですか」

「……」

「今みたいに折れそうになっても、行くというのなら止めません」


 聞こえは良いかもしれないが、果たしてそれで良いのだろうか。

 どうしたいかが分からないから、今こんなことになっている。かと言って『そんなの良いからとにかく休もう!』なんて言って良いものか。

 俺ってこんなに優柔不断だったっけ。相手が今にもになっているのに、その重大な選択を本人にさせてしまうほど、俺は寂しい人間だったかな。


「――いや」


 彼女がどうしたいかではなくて、この場合は俺が……彼女に何をしてあげたいのか。そもそも、佐富士初夏は昨夜の時点で本心を言っているじゃないか。それを差し置いて、何をしたいかなんてあり得ない話だ。

 この手を離してしまえば、彼女はまた苦しいだけの日常に戻ってしまうだろう。そうなれば、どうやったって引き戻すことが出来ない気がする。何のために一緒に暮らしているのか。俺が――1年後も生きていることを見せつけるためだろう。


「やっぱり、ダメです。今日は行かないでおきましょう」

「……どうして」

「佐富士さんには、死んで欲しくないんです」


 そう言ってしまった時には、心の中で何かが落ちる音がした。

 それが何かは、分からない。


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