第40話 佐富士さん


 3月とは言え、夜はまだまだ冷える。あまりにも風が強かったから、俺は東西線の改札口まで降りていた。腕時計に目をやると、日付が変わっていた。それでも多くのスーツ姿の人が改札口をくぐっているのだから、この世界は誰かの仕事で成り立っていると感慨深くなる。俺も彼らと同じスーツ姿だが、酒を飲んでいたので浮かれ気分である。

 温かいスープでも飲みたい気分だ。もっと言えば、心がポカポカになる味噌汁みそしるが飲みたい。


「――あつっ!」


 スマホに目線を落としていると、右頬への刺激で反射的に顔を上げた。

 目の前には、何故か不満げな表情をしている彼女が立っている。その左手にはホットの缶コーヒーが握られていた。


「あ、おかえりなさい」


 反射的に言う。ただいま、おかえりは言う約束だったし。


「どうしてここに居るんですか」

「そこは『ただいま』でしょう」

「まだ家じゃないですし。当然でしょう」

「へいへい。そうでしたね」


 呆れたように笑ってみせると、佐富士初夏は何も言わず視線を逸らした。

 俺が問いかけた『いつ帰ってくるのか』というメッセージに、彼女は『いつも通り終電です』と返してきた。SUNAMOの中で適当に飯を食っていた俺にとって、その知らせはひどくものだった。

 自分の中でどうしてそんな感情が湧き出たのかはよく分かっていない。


「はい」


 そんな俺を知ってか知らずか、彼女は先ほどの缶コーヒーを差し出してきた。そこにどんな意味があるのかも分からない。ただ妙に自分が気持ち悪くもあった。


「なんですかこれ」

「缶コーヒーです。見て分かりませんか」

「いや、そういうことじゃなくて」

「どうしてかってことですか?」

「そうです」

「私はいらないので処理をお願いしたくて」

「そこは『寒空の中待ってくれてたから』とか、もっとあるでしょう」

「酔っ払っている人が何を言ってるんですか。さっきまで暖かいところにいたくせによく言えますね。さっきまで仕事をしていた人間に対する仕打ちですか? 本当に人でなしですよ」

「いや普通にオーバーキルですって。もう少し酔ってたら泣いてましたよ」


 俺としては少し揶揄っただけである。ところが、彼女は缶コーヒーを差し出してプイッと歩き出した。隣に並ぼうとすると加速する。まるで『一緒に歩きたくない』と言われている気がして妙に腹立たしくなった。

 なんだよ、せっかく待っていたのに――なんて愚痴を言いたくなる。待っていたのは俺の勝手だし、俺に彼女を責める筋合いはない。ただ……どことなく八つ当たりを受けた気がしたから、素直に受け止めきれないのが本音だった。

 階段を上がって地上に出ると、先ほどよりも冷たくなった風が当たる。彼女は俺の少し先を歩いている。薄手のコートを羽織ってはいるが、その冷気が響くようで、細い指に自分の息を掛けているように見えた。


 缶コーヒーが必要なのはどっちだよ、本当に。



 そんなに大きな声は出していない。住宅街が近づくにつれ、俺たちの周りには誰も居なくなったからだ。

 だから、俺の声はハッキリと彼女の耳に届いた。その証拠に、佐富士初夏はゆっくりと減速して、やがて立ち止まった。

 俺はそれを確認して、近くにあった自動販売機でコーンスープを買う。彼女に駆け寄ったタイミングで振り返られたから、少し恥ずかしくなった。


「そんなこと言って、寒いんでしょ? 飲みながら帰りましょう。コーンスープなら飲めるんじゃないですか?」


 外灯に輝く黄色のラベルコーンスープを差し出す。彼女と目が合って、思わず目線を背けてしまった。


「――ってなんで受け取らないんですか」


 数秒待っても彼女の手は伸びてこない。視線を戻して問いかけると、綺麗だけどどこか虚ろな目が俺を捉えていた。


「あの……?」


 それでも何も言わないから、恐る恐る問いかける。すると彼女は、そっと俺が差し出したコーンスープに手を伸ばしてきた。


「そうやって名前を呼ばれたのは、いつぶりでしょうか」

「え……?」

「……いえ。何でもありません」


 あまりにも突飛な発言だったこともあって、俺は少し考えてしまった。やがてその言葉の意味を理解するが、それでも頭に浮かぶのは疑問だけである。

 確かに言われてみれば、彼女のことを名前で呼んだ記憶があまりない。いつもは主語佐富士初夏をすっ飛ばして話しかけている。本当に言われるまで全く気づかなかった。

 それよりも、どうして今になってを言い出したのかが分からなかった。


「佐富士さん」

「……なんですか急に」

「いやその……名前を呼んで欲しいのかなって」

「私を子どもだと思ってます?」

「まあ、若干――って痛い!」


 コーンスープに伸びていたその細い指が、俺の手の甲をつねり上げる。普通に痛いからやめて欲しかったけど、せっかく買ったスープが落ちそうだったからなんとか耐えて見せた。


「私の言葉には、別にそんな深い意味はありません」

「そうですか。なら俺の考えすぎですかね」

「ええそうです。スープはありがたく受け取りますが」


 そこでようやく離す。指先がかなり熱を帯びていて、抓られた部分とは違う痛みがある。でも別に悪い気はしなかった。


「それを言えば、俺だって随分ヒドイ扱いじゃないですか?」

「適当さんは適当さんではないですか」

「否定はしませんが、ちょっと『申し訳ないなぁ』とか思いません?」

「思わないです」

「ですよね。分かってましたよ」


 ため息を吐いて、彼女がくれた缶コーヒーを開ける。もうすっかり冷たくなっていたが、アルコールで火照った体にはちょうど良かった。


「毒とか入ってないですよね?」

「しつこいです。本当に入れますよ」

「もう言わないので許してください」


 口づけると、あの苦みが口内に広がる。これが美味しいとは思わないけど、どこか止められない。冷静に考えると非常に不思議な味をしている。


「聞いても、良いですか」


 ――なんてどうでも良いことを考えていると、彼女がポツリと呟く。そんなことを言われた記憶がなかったから、思わず立ち止まってしまう。

 佐富士初夏は、俺よりも2、3歩後ろに立っていた。スーツに薄手のコート。薄化粧が取れ掛かって、疲れのオーラに飲み込まれそうになっている彼女がそこにはいた。


「なんですか?」

「適当さんは、どうして私を見捨てないんですか」


 いや、だってそれはアナタが言ったからだろう。

 俺だって、無責任とか言われたまま引き下がるつもりはない。そんなつもりで――助けたわけじゃないから。無闇に命を捨てようとする人間を見捨てることこそ、俺にはできっこない。


「ずっと言ってるじゃないですか」

「……」

「まあ……うん」


 目を伏せる彼女を見て、やっぱり恥ずかしくなる。この人、黙っていれば本当に綺麗だからなあ。そんな人が自ら死を選ぼうとした事実は、これから先もずっと消えないと思う。


「早く帰りましょう。明日もあります」


 ゆっくり歩き出す。今日は月曜日で一週間が始まったばかりだ。お互いに疲れているし、もう日付も変わっている。明日のことを考えると、ここで立ち尽くしていても仕方ない。


「行きたくないと言えば、アナタはどうしてくれますか」

「え?」

「私が、子どもみたいにそんなこと言ったら……」


 振り返る。彼女は俯いたままそんなことを言う。声は震えている。決して、俺を揶揄っているとかじゃない。

 あぁ、この人は本当に限界なんだ。もう、一刻の猶予もないぐらいに、心の奥底まで追い詰められている。


「助けますよ。もう一度」


 不愉快な社会に挑むのは、悪い気はしない。

 きっとこうすることで、俺はもう後には引けない。佐富士初夏の人生に大きく関わることになるのだから。



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40話目でした。社畜解放宣言!

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