小蝿

※この話には虫表現が多くあります。苦手な方は注意してください。


 気付けば一気に夜の時間が伸びる頃のことです。その日も私はお風呂に入り、髪の毛を乾かし、温かい玄米茶を用意した上で読書をしようと、部屋に備え付けられたカウンター机に向かっていました。窓を開けて少し冷える中で、温かい飲み物を飲みながら読書をするこの時間が、私にとっては春と秋だけの特別に楽しみな時間でした。その日読もうと思っていたのは一冊のホラー小説です。誰のものかもよく覚えていないような、どこにでもありそうな文庫本。どんな内容なのかすら、今となってはよく覚えていません。ただ、虫が関係するようなものだった気がします。

 読書の度に付けている読書ノートを開き、筆記用具を準備したところで明かりをつけた時、本のページの隙間から一匹の小蝿が飛んで出てきました。出てきた小蝿は許しもなく顔の近くを右へ左へ、そして上へ下へと飛び回ります。飛ぶのは百歩譲って良いでしょう。でも、わざわざ私の近くを飛び回るこの虫に、その日の私はよほど神経を逆撫でされました。機嫌が悪かったのではなく、単純に気になってしまったからでしょう。気付かなければ何が飛んでいようともこれほどに怒り狂うことはありませんし、気になってしまわなければ苛立つこともなかったでしょうから。

 気づいた時には、ぱんっと音を立て、両手で小蝿を潰してしまったのです。一瞬のことでした。恐る恐るくっついた両手を開くと、真っ黒な血を撒きながらひしゃげた小蝿の足が見えました。本当は血は赤かったのかもしれません。透明だったのかもしれません。ただ、私の目に映るそれは真っ黒でした。真っ黒な血など聞いたこともありません。これは、本当に血なのでしょうか。あまりの不可解さでしたので、即座に近くのティッシュを一枚取り、念入りに手を拭きました。ごしごしと拭われていく手の平をよくみると、何度かその黒さを滲ませてから薄くなっていくように見えました。最後には手の平の白身がかった肌色だけになりました。血を拭うにしては、なんだかどこかで見たことのあるような。そんな違和感だけが残りましたが、もう血は拭われてしまったのです。気にしても仕方ないと本を改めて開きました。

 図書館で借りてきた古臭い文庫本は、あらゆるところが黄ばんでおります。花を近づけて思いっきり空気を吸い込めばそのまま耐えがたいむず痒さにくしゃみを飛ばしてしまいそうなほど古臭い本です。なんでこんな古い本を借りてきたのか、自分でもわけがわかりません。しかし借りたからには読み切らねばとの思いでしばらくそこに書かれた文字を追いかけているうちに、視界の端に小さな黒い点が見えました。それは、先ほど潰したのと同じ小蝿でした。

 奴は私が見ていることに気づいたのでしょう。音も立てずに視界から逃げるように飛んで行きました。賢明な判断です。顔の近くで飛び回らないのであれば、無闇矢鱈に命を奪うこともないでしょう。私はまた目線を本に向けます。特に面白くもない、三流のホラー小説ですから、記憶に残ることもありません。ただ、目を滑らせるように読んでいるだけです。少しだけ冷めた玄米茶を口に含みながら、だらだらと読み進めます。

 ふと、自分の左手の甲に、なんだかもぞもぞと動く気配を感じました。なんだかむず痒いのです。そう、まるで、左手の上に何かが這いまわっているように。寝間着の袖に擦れてくすぐったいだけかとも思いましたが、なぜだかいつまでも何かが動いているのを感じます。ですので、視線は本に向けたまま、右手で左手の甲を掻こうとしました。

 がりがり。がりがり。爪の先が肌の上を這い回ると、途端に気持ちよさが広がります。痛みとは違う、異物を知らせる警告が爪によってその役目を終えるからだとどこかで読みました。何かが肌に擦れているのは間違いがないのでしょう。何度か肌を掻いているうちに痒みがなくなったのを感じました。そうなれば右手と左手が一緒になっている意味はありません。なので、本を支えるためにも、右手を戻そうとしたのです。本を横切るその瞬間、自分と本のちょうど中心に右手が来た時、指先に黒い何かがついているのを見ました。ぴたりと指が止まります。私と本のちょうど中心に浮いた指の先には、一匹の小蝿の死骸がついていたのです。跳ね上げた足が潰れた体から飛び出して、指先には黒い血がついていました。視線を死骸から外すことなくティッシュを持ってそれを拭うと、やはり何度か左右に滲んでから血は消えました。

 この時点で、私はどうにもおかしいと思いました。というのも、私の部屋には小蝿が次々と湧いて出てくるような原因は存在しないからです。一匹なら窓の外から入ってきたのだろうと思えます。しかし、二匹も三匹も入ってくることがあるでしょうか?このホラー小説を開いてから、どうも何かがおかしい。

 なんだか湧き上がって来る気味の悪さから逃れるために本から視線を外して玄米茶を飲もうとティーカップを傾けた時、緑の液体の中に黒い点が二つあるのを見ました。それは言わずもがな、小蝿の死骸でした。溺死のくせに、それは黒い染みを広げていました。

 この小蝿は何かがおかしい。何が起きている?私が事態の究明に動き出した時、胸の中央、ちょうど心臓に近い胸のあたりで何かが蠢いているような痒みを覚えました。これは、小蝿だ。潰したら黒い血が垂れ流される小蝿だ。潰しても潰してもどこからか湧いて出てくる小蝿だ。私は視線を下に向けることすらできなくなりました。下に向けてその姿を直視するのがなぜだか怖かったからです。必然的に視界は本に釘付けになります。やはり面白くもない三流のホラー小説です。視線を滑らせるものの、胸上で這い回る小蝿の感覚が本物のそれ以上に鮮明に感じられて、そちらに気を取られるがあまり内容など一才頭に入ってきません。

 その時、本から一匹の小蝿がポトリ、と落ちてきました。瞬きを急いで二度、三度としますが、やはり本から落ちてきたとしか思えない位置に小蝿がおり、光に照らされてその影はこちらに伸びてきています。

この本には、何かがいる。

そう思った途端、この本を持っているのが恐ろしくなり、かろうじて本を支えていた左手を震えさせながら離すと、バランスを崩しゆらめきながらぱん、と音を立てて本は倒れました。それと合わせて、数え切れないほどの小蝿が本の中から出てきたのです。まるで封印が解かれた途端に悪霊が沢山飛び出したかのような、昔映画で見た光景のようでした。一気に出てきたかと思えば、開かれ慣れて癖のついた本の表紙が上下にぴらぴらと揺れて、そして本の紙の隙間が盛り上がるように持ち上がったその隙間からは尚も小蝿がこちらに向かって這い出してきます。卵から虫が孵るような光景でした。

 奴らはしばらく本を中心に円を描くようにして集まっていました。子供の頃に、カレーパンを放置して虫を集らせてしまった時と何一つ変わらない、虫の群れが一つの生き物のように一つの意思を持っているように見えました。むしろ、それらは何か一つの意思から生まれた生き物のようにも見えます。何か、一つの意思をもってして統制されているかのような。人間でいうところの、そんな理性のようなものを感じ取らざるを得ないほど奴らはおとなしくしていました。どの小蝿も勝手に飛び出さない、ある意味で人間よりも統率の取れた集団に見えました。

 ここから立ち上がって逃げればいいはずなのに、体は硬直して動かないし、椅子を引こうにもカーペットに邪魔されて上手く引けません。カウンター机に手を突こうとしてももう手の届くような場所は無数の小蝿に埋め尽くされています。彼らの中に手を埋め、真っ黒な血で手を染めながら逃げ出すのは、小蝿を一匹や二匹潰すのとは比べ物にならないほどの勇気が必要な行為でした。ですから私は逃げることもできず、力の抜けた体で小蝿が円を作るのを見守る他にありませんでした。

 しばらくは円が大きくなるのを見ているだけでした。これは夢だ、これは夢だと思い込むことで少しでも気を楽にしようとしました。でも、小蝿の影や形、古臭い本の匂いはどう考えても本物です。私の妄想と言い切るには、あまりにも現実的でした。如何に恐怖に支配されていようと、比較的冷静な私がいたがために、私にはこの光景を夢だとか妄想だとか幻覚だとか、そのような不確かなものだと思い込むことはできませんでした。

この小蝿は一体どこから出てきたのか。

この小蝿は現実のものなのか。

何よりも、この小蝿が肌に触れるのが気持ち悪く、恐ろしい。

 そのような私の思考を知っていたのでしょう。既に私の胸の上に這いまわっていた小蝿が突然飛び上がり、寝間着の襟を抜けて額に張り付きました。やはり奴は小さな虫でした。でもその一匹の動きを待っていたのだと言わんばかりに、奴らは突然私の方に向かって這い出したのです。小蝿のほとんどは私の方に向かってきましたが、途中で綺麗に別れた少数の小蝿はティーカップの方へ向かっていきました。水の中に溺れることが目的だと言わんばかりに、黄緑色の茶を真っ黒で埋め尽くしたのです。何匹も、何十匹も、奴らは水の中に飛び込んで行きます。

本隊の方も、羽のある虫だというのに、奴らはこぞって机を這い、寝巻きの上を這い、そして襟の近くから首に触れ、顔を目指して一心不乱に奴らは這いまわったのです。空いた空間には次々と新たな小蝿が本から湧いてきます。奴らはまるで一つの大きな生き物の腕となり、そしてその腕で私の顔を掴むべく、行進していました。

 その時になって、ようやく冷静な頭より恐怖心が上回ったのでしょう。本能的な乱暴さのままに袖口で首をぬぐい、服についた小蝿を潰しました。奴らはただの虫のくせに、その数の多さで私の灰色の寝間着を一瞬にして黒く染め上げました。まるで黒いインクか墨汁を直接垂らしたような色合いでした。数多の死骸が袖口につき、そして地面に落ちていきます。何匹も、何十匹もこの一瞬で潰したというのに、まだ机の上には大量の小蝿が円をなしており、隊列を組んで寝間着を登ってきます。登って来るのを見ては潰す、登って来るのを見ては潰すというのを繰り返すうちに、奴らの中の大いなる意思は学んだのでしょう。腰のあたりを背中に向けて左右から這い回る何かを感じました。きっとこれも小蝿の軍隊です。その統率を活かして、ありとあらゆる所から顔を目指して登り始めたのです。

 こうなってはもう、私の二本しかない腕では対処が追いつきません。視界の端にあったはずのティーカップには、容積を超えて死骸が山のようになってもまだ虫が集まっていました。まるで、これを飲めと、これを見ろと言わんばかりに私の視界に入ってきます。それを無視し、体の前面にいる小蝿を腕で潰して払い、背中を登ろうとする小蝿を椅子の背もたれで潰し、とにかく奴らの意思を邪魔し続けていました。心のどこかでそれが無駄であることを知りながらです。

 そしてある瞬間、髪をかき分けるようにして一匹の小蝿がとうとう私の額に辿りついたのを感じました。そいつに連なるように、二匹、三匹と顔に張り付き出します。彼らは非常に高度に訓練された軍隊です。であれば、一匹が目標を達成できれば、百匹の目標は達成されたも等しいのです。一匹の失敗は場合によっては戦況を悪化させる全体の失敗になり得るだけですが、その反対の一匹の成功は戦況をかなり好転させる全体の成功です。

 つまるところ、奴らの進撃はもはや止めることのできないものとなっていました。あっという間に抵抗も虚しく、顔中を、首中を小蝿が覆い隠しました。奴らの血で真っ黒になった私の顔からは古い本のカビ臭い匂いがします。奴らが張り付いていないのはもはや眼球と唇だけでした。開けられた目の視界の端には奴らが黒光しているのが映っているし、視界の中央には行進をやめた虫の軍隊が大きな円を作っています。少しだけ見えるティーカップは側面でさえも真っ黒に染め上げられ、その表面はデスクライトに照らされて黒光りしています。顔を覆い隠したことに奴らは満足したのでしょうか、そのまましばらくは動くこともなく、ひしめき合ってるだけでした。奴らの中の共通意識が私の今のこの顔面を舐め回すように見ているのでしょう。顔面中に感じる足の感覚がこそばゆく、そして何よりも恐ろしく感じました。

 不意に何か小さいものが下唇に張り付きました。そしてそれは隙間を縫うよう唇を進み、口の中に落ちてきたのです。舌先に何かがぴとりと触れる感覚がして、それは一才の動きを止めたのです。それはどう考えても顔を覆い尽くす小蝿の一匹で、何となく指揮を任された例の一匹ではないかと直感しました。思わず舌先を跳ね上げて上顎と舌でぶちりと潰しました。奴は抵抗を一切しませんでした。味がするほど大きくもないくせに、まるで傷んだ紙を口に突っ込んだ時のような、あるいは古い本に印刷された文字のインクのような、そんな味がした気がしました。

 私が舌先で虫を潰すのを待っていたのでしょう。口付近の虫が唇を分け入ろうとし始めました。それらは顔中をくすぐるようにして何とか唇を開けさせようとしています。でもあんまりにも私が口を開かないからでしょうか。鼻の穴にまで奴らは入り始めました。思わず鼻の奥をくすぐられる不快感に口を開けてしまったが最後、たくさんの小蝿が口の中に落ちてきました。奴らは口の中を這い回ることなく、舌に張り付き、そして私に潰されることを望んでいる様でした。身を這い回る不快感に舌を跳ね上げるたび、多くの小蝿を潰し、そして真っ黒であろう血がこびりつきました。どうにも血ですらボールペンのインクの様な味がします。次々と入ってくる奴らを吐き出すことも出来なかったので、何度も虫の死骸と真っ黒な血を嚥下し、それでも満足がいかない虫どもを何度も舌で潰しました。潰れる音はしませんでした。

 そうして何度目だったか、喉からごくりと音を立ててその死骸と血を飲み下した時、一瞬にして虫の感覚が消え去りました。顔を這い回る感覚もない。舌に張り付く気配もない。そして視界には小蝿の軍団が円をなしていることもない。ティーカップですらいつもの白さと薄紫の模様を見せています。

 あれは、あれは幻覚だったのか。あれほどまでに現実に肉薄した感覚を持たせる幻覚など存在するのだろうか。幻覚だったのだと頭で理解する一方で、心臓が大きな音を立てて、あの感覚がいかに現実の切迫感を持ったものだったのかを示していました。

 そうだ、現実にあんなに大量の小蝿が、軍隊のように優れた統制を受けて私に食べられることを望むはずがない。でも、あれは現実だった。虫が這い回る感覚も、虫を潰す感覚も、拭ったのに一度では拭き取れない粘着質な血をティッシュで擦って拭った感覚も、全てが本物の経験としか言いようがない。

私はどちらの言い分が正しいのかもわからないほどに混乱しきっていました。どちらの私の言い分も真実だからです。両者ともに真実でありながら矛盾している場合の問題をうまく解決できるほど、私は優秀ではありませんでした。説明ができる方がいるのであれば、その方に泣いて縋りつき教えを乞いたいほどに怯えきっていました。それまでに見たことがないほど立ちきった鳥肌こそが私の今の本心そのものです。恐怖とは不理解でもあります。そして不理解とは苛立ちにつながるものでもありました。

 もう姿も見たくない、明日図書館に返却してやる。こんな本のせいで、私は。という苛立ちが案の定募り、大きな爆発を起こしかねない勢いのままに、虫が先程まで湧いて出てきた、三流のホラー小説だと心の中で馬鹿にしていた小説を鞄の中に放り投げようとしました。その時に初めてまともにその題名を見ました。

『虫の味』

もう私は、本をもう一度開く気にはなれませんでした。もう一度あの幻覚を見るのではないかという恐れが苛立ちを一瞬にして冷え込ませたのです。同時に喉の奥が嚥下を拒む様にきゅうと締まるのを感じました。小蝿が喉の奥にまだいるかのような、そして這いまわっているかのような痒みを覚えるほどの強烈な締め付けが蘇ってきたのです。締め付けは全身に及びました。腕が何か大きな化け物に握られているかのように動かせないので本を鞄に投げ込むこともできず、古ぼけて題名の印刷すら読みにくい本の表紙と向かいあったまま固まってしまいました。

 弾かれたように手を伸ばしてティーカップを掴みました。まるでこの動作をすることだけは化け物に許されているかのように、締め付けもなく軽く手が動きました。視線は相変わらず本の表紙から外せませんが、できることがあるというだけで気持ちは多少和らぎました。

玄米茶を飲めば、飲み馴染んだものを飲めば、多少なりとも緊張は和らぐのでは。

微かな期待を込めて玄米茶を一口啜ると、やはり知っている味がします。随分冷え切ってはいますが、インクの様な味はしませんでした。少しの安心感によってようやく拘束を解かれたので、視線を動かしてティーカップを見ると、そこには一匹の小蝿が溺れて死んでいました。

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幻覚 海先星奈 @Sehgers8140

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