悪魔
クオ・ヴァディスとルドルフがイメディオの町に到着した時、町は不気味に静まり返り、辺りに充満する錆びた鉄のような臭いでむせそうになる。血の臭いだ。少し間を置いて、吐き気を催すような悪臭が鼻腔を突く。何度も嗅いだことのある臭いだが、どうしても慣れない。
「死臭だ。人の気配もあまり感じられない。完全に無人というわけではなさそうだが……少なくとも帝国軍はもう先に進んでいるのだろう」
徒歩で後から追いかけているクオ・ヴァディス達が間に合うわけがないことは分かっていた。軍の部隊を相手に二人で挑んで町を守るなんて芸当もできるわけがないことも分かっていた。だが、実際にイメディオのような大きな町すらも滅ぼされた現実を前にして、怒りと無力感が同時に湧いてくる。
「おっさん、こんなに大きな町なら生き残りもいるかもしれねえ」
ルドルフが手を強く握りしめるクオ・ヴァディスに声をかける。生存者を探そうと提案することで、気持ちを落ち着かせようとしている。彼自身も、同じく強い怒りと無力感に苛まれていた。
「そうだな。また不死者が現れるかもしれないから、警戒は怠るなよ」
握った手の力を緩め、ルドルフと共に歩き出す。町は想像以上に酷い有様だ。ホルド村では村人達の亡骸は集積されたり布をかけられたりしていたが、ここでは道のあちこちで無造作に打ち捨てられた遺体が腐り落ちる時を待っている。
「帝国のやつら、面倒になったんかな」
「いや、恐らく進軍を急いだのだろう。ホルド村で君を逃したから、もう王国軍が防衛準備を始めているだろうと踏んでいるんだ。攻める側としては敵に準備の時間を与えれば与えるほど攻略が難しくなるからね」
敵の立場になって考えれば、それが最善の行動ではなかろうとも少しでも早く目標としている地点まで進軍していきたいところだろう。モンスターを使役するような連中だ、単純な兵力で測ることもできない。そもそも現状の帝国軍兵力がクオ・ヴァディスには分からない。これだけの進軍速度を発揮する以上、相当な戦力を持っているのは間違いないが、それは兵数の多さを意味しない。一騎当千の強者が、比喩ではなく現実に存在するのだから。
「あっちには確か広場があったな。行ってみよう」
開けた場所に生存者がいるとも思えないが、敵の守備兵がいるかもしれない。それを仕留めてしまえば生存者が新たに殺される危険は減少する。そして広場に近づくと、そこに何者かがいる気配を感じた。
「誰かいるぞ」
そう言って剣を抜くと、ルドルフも戦斧を構える。町の生存者である可能性も無くはないが、敵である可能性の方が遥かに高いのだ。警戒しながら広場に入ると、中央部にある噴水の前にその人物はいた。帝国軍の鎧に身を包んだ、金髪の若い剣士である。よく見覚えのある顔だった。
「アニキ!」
ルドルフにとっては、否、二人ともにとって予想外の展開だった。目の前に現れたロイは、見たところ大きな傷もなく二本の足で地面を踏みしめ、堂々と立っていたのだ。もう命を失い、不死者にされているかもしれないと思っていた。だがどう見てもこのロイは生者だ。ただ、こんな場所で帝国軍の鎧を着ているという事実がクオ・ヴァディスの脳裏に強い警鐘を鳴らしていた。
構えた戦斧を降ろし、駆け寄っていくルドルフを止めようとするよりも早く、ロイが口を開いた。
「まだ生き残りがいたか」
刹那、ルドルフの表情が驚愕に変わり素早く動かしていた足で地面を強く蹴った。今まで進んでいた方向と逆へ、つまりロイから距離を取るように飛び退いたのだ。この男が自分の知る兄であったなら、絶対にその口からは出てこない言葉が発せられたのだ。理性よりも速く、本能からもたらされる警告に従って身体が動いた。ルドルフが頭で考え始めたのは飛び退いてクオ・ヴァディスの横まで下がってからだ。
「誰だ……アニキ……じゃないのか……?」
戦斧をまた構え、ロイの姿をした男に問いかけた。クオ・ヴァディスは何があっても対応できるように剣を構えて様子をうかがっている。
「死ね、『孤狼斬』!」
男の口から聞き慣れた言葉が出ると同時に、ルドルフからはその姿が掻き消えるように見えた。突然大きな金属音が響き、いつの間にか尻もちをついていた。その眼前で、ロイの姿をした男が振り下ろす剣をクオ・ヴァディスの剣が受け止めている。どんな攻防が繰り広げられたのかも認識できなかったが、ルドルフにははっきりと分かる。分かってしまう。今しがた繰り出された技は、大好きな兄が得意としていた武技だということを。
武技は女神から授けられる特別な技だ。同じ武技を使う人間は二人といないのが常識だ。使い手の特性に合わせた世界で一つの技をレガリスの裁定で振り分けられるのだ。信じたくないのに、疑うことができなかった。
兄が、自分を殺そうとしたことを。
「逃げてください!」
突然、ルドルフには聞き覚えのない女性の声が耳に届いた。一瞬目の前にいるクオ・ヴァディスの顔が歪んだように見えたが、すぐに体当たりをしてロイの身体を遠ざける。
「『パルース』!」
広場に呪文が朗々と響くと、ロイの足元にあった石畳が泥に変わり、腰の辺りまで沈み込んだ。目標の動きを制限する魔法だとすぐに理解した二人は、女性の声がした方へ走り出す。
「こっちへ!」
二人の前に、大きな眼鏡をかけベレー帽を被りバトルジャケットを着た若い女性が姿を現すと、逃走方向を指で指し示しながら先導する。しばらく二人は無言で女性の後についていき、とある茂みの中にあった穴から隠し部屋へと案内された。
「ここなら安全です。危ないところでしたね」
その女性――インソニアが親しげな態度でクオ・ヴァディスに声をかけるのを見て、ルドルフは二人が知り合いなのだと理解した。だが彼女の次の言葉にまた驚きの表情を見せるのだった。
「まさかこんなところでお会いできるとは思いませんでした、パルミーノ様」
「ええっ?」
パルミーノという名前を知らない王国民はいない。今までずっとおっさん呼ばわりしてきたクオ・ヴァディスの正体が英雄パルミーノであるということは、学のないルドルフにもすぐに理解できた。道理でやたらと強いわけだ、とむしろ腹落ちした風情である。
「インソニア……今の私はクオ・ヴァディスと名乗っているんだ。分かるだろう?」
軽くため息をつきながら、かつての部下でもあったインソニアに事情を察してくれと頼む。追放された人間が国内にとどまっているのだ。本来あってはならないことだ。
「分かりました、クオ様とお呼びすればいいのですね」
「せめて〝さん〟付けぐらいにしてくれるとありがたいんだが」
「はい、クオさん……ですね」
ルドルフはインソニアの顔が一瞬だらしなく緩んだように見えたが、すぐに真剣な表情で話し始めたので見間違いだと思うことにした。
「あの人物ですが、悪魔に身体を奪われています」
「悪魔だって?」
驚きの声を上げたのはクオ・ヴァディスだ。不死者の次は悪魔ときた。帝国は邪悪な存在を気軽に使うような国なのかという驚き、そして悪魔という存在の脅威を思い起こして。
「どんな悪魔がアニキの身体を乗っ取ってるんだ?」
ルドルフは、少し落ち着いた態度で問いかけた。悪魔に身体を奪われたというなら、奪い返せば兄を取り戻すことができるのではないか。ここにきて希望が生まれたのだ。
「あれはクレヴォーという名の悪魔です。身体を奪った人間の能力を使うことができる、ということ以外は私も知らないのです」
「なるほどな。確かに正体を知らずに戦っていたら危なかった。だが悪魔と分かっていれば、やりようはあるさ」
クオ・ヴァディスはインソニアの話を聞き、不敵な笑みを浮かべるのだった。
無尽のフィデリタス ~王国最強の忠臣だったけど無能な二世に追放されたので隠居しようと思いましたが、この国に対する忠誠は変わらないようです~ 寿甘 @aderans
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