第5話
4月12日 水曜日
今日も気分は暗い。
そして、体育館には行かない。
佐藤先輩からのメッセージには返信できないまま。
下校しようとすると。
「お疲れ様」
下駄箱で声をかけられた。
石川が立っていた。
「明日から、練習に来て」
いつもの通り、はっきりとした口調。
「見学でもいい。でも、来て」
断ろうとした時。
「山田先生から聞いたわ」
その言葉に、息が止まる。
「みんなに話したわけじゃないけど」
石川の声が少し優しくなる。
「辞めたいって思ってるの、知ってる」
逃げ出したくなる。
けれど、石川の眼差しから目を逸らせない。
「でも、あなたにはコートに戻ってきてほしい」
「私には...」
言葉が喉まで出かかったところで。
「キャプテン!」
後輩たちの声。
一年生が数人、後ろから駆けてきた。
「練習、そろそろ始まりますよ」
その声に振り向いた時、
廊下の向こうから加藤さんの姿が見えた。
一瞬、目が合う。
加藤さんは立ち止まって、こちらを見ている。
石川の視線が、私と加藤さんの間を行き来する。
「あなた、最近美術室にいるって聞いたけど」
そう。
石川は何でも把握している。
この学年のことは、ほとんど知っているはず。
「キャプテン?」
後輩たちが不思議そうな顔。
私を見る目が、心配そうに変わる。
その場の空気が、
どこか重たくなっていく。
「キャプテン、早く行かないと!」
後輩たちが、空気を読むように石川の腕を引っ張る。
「...また、後で」
石川は一瞬、加藤さんの方をちらりと見て、
後輩たちと共に体育館へと消えていった。
ため息が漏れる。
やっと、張り詰めた空気から解放された気がする。
でも、まだ加藤さんが立っている。
私と石川のやり取りを、どこまで見ていたんだろう。
気になって仕方ない。
「伊藤さん」
背後から加藤さんの声。
振り向く勇気が出ない。
私が返事もできないまま、
遠くでバレーボールの音が響いてきた。
体育館からだろうか。
昔は、あの音が心地よかったはずなのに。
「私、バレー部なんです」
突然、そんな言葉が口をついて出た。
「知ってます」
加藤さんは静かに答える。
「伊藤さんがエースだって、有名でしたから」
エース。
その言葉が、どこか遠い過去のもののように聞こえる。
「でも、今は...」
「無理して説明しなくていいですよ」
加藤さんの声が、優しく重なる。
ふと顔を上げると、
廊下の窓から差し込む夕陽に、
加藤さんの横顔が柔らかく染まっていた。
「今日も、描いてもいいですか?」
さり気なく、いつもの日常を差し出してくれる。
この人は、きっと気付いているのに。
階段を上がりながら、
二人の足音だけが響く。
午後の日差しで、影が長く伸びている。
「私も、昔やめたいものがありました」
突然、加藤さんがポツリと言う。
立ち止まる。
振り向くと、加藤さんは窓の外を見ていた。
「ピアノです」
懐かしむような声色。
「コンクールに出るくらい、真剣に」
夕陽に照らされた加藤さんの横顔が、
どこか寂しそうに見えた。
「でも、中学の時に出会ったんです。絵を描くことに」
「...」
「ピアノをやめた時、周りはすごく残念がりました」
その言葉に、胸が締め付けられる。
今の私と、重なって見えた。
「でも、私は絵を選んで。それが今の私です」
加藤さんが、こちらを向いて微笑む。
美術室のドアの前で、加藤さんが立ち止まった。
夕日に染まる廊下で、二人の影が重なる。
「伊藤さんの選択が、きっと正しいはず」
囁くような声。
「どうして...」
「だって、伊藤さんの目」
加藤さんが、真っ直ぐに私を見つめる。
「バレー部の話をする時と、今とでは、全然違うから」
その言葉に、心が揺れる。
今まで誰も、そんな風に言ってくれなかった。
「美術室にいる伊藤さんは、自然な笑顔なんです」
加藤さんの手が、そっとドアノブに掛かる。
「私は、その笑顔が好きです」
顔が熱くなって、視線を逸らしてしまう。
ドアが開く音だけが、静かに響く。
顔が熱くなる。
慌てて視線を逸らす。
カチャリ、とドアが開く音。
夕暮れの美術室に、オレンジ色の光が差し込んでくる。
机やイーゼルの影が、床に長く伸びている。
絵の具の匂いが、ふわりと漂ってきた。
加藤さんが中に入っていくのが、背中越しに見えるだけ。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
頬の熱が、なかなか引かない。
「伊藤さん?」
振り返ると、加藤さんが首を傾げて立っている。
「大丈夫?顔、赤いけど」」
「疲れてるんじゃない?」
加藤さんが、心配そうに近づいてくる。
一歩、また一歩。
その距離が縮まるたびに、心臓の鼓動が大きくなっていく。
「少し休みましょうか?」
目の前で、加藤さんの制服のリボンが揺れる。
かすかに漂う石鹸の香り。
「だ、大丈夫です」
声が上ずる。
後ずさりしようとして、机に背中が当たる。
「本当に?」
加藤さんの手が、そっと肩に触れる。
「熱があるみたい」
違うの、と言いたいのに。
加藤さんの優しい眼差しに、言葉が詰まってしまう。
「加藤さん!」
後輩の声に、慌てて離れる。
「あ...」
入ってきた一年生の女の子が、私たちを交互に見て、
「ごめんなさい、邪魔しました...」
「違うの、田中さん」
加藤さんが、いつもの冷静な声で。
でも、耳まで赤くなっているのが見えた。
「今日の部活のこと、聞きに来たんですけど...」
田中さんの目が、意味ありげに私を見る。
慌てて引き返そうとする田中さんを、加藤さんが呼び止める。
「待って。今からミーティングでしょ」
私は、その場に立ち尽くしたまま。
さっきまでの距離の近さが、まだ身体に残っている。
「じゃあ、ミーティング始めましょう」
加藤さんが、いつもの落ち着いた声に戻っている。
次々と美術部の仲間が集まってきて、教室の空気が変わっていく。
私は窓際の椅子に座ったまま。
「文化祭の展示について...」
加藤さんが話し始める。
真剣な横顔に、目が釘付けになる。
普段見せない、部長としての顔。
みんなの意見を上手くまとめていく様子に、なんだか見とれてしまう。
「人物画の展示コーナーは...」
ふと私の方をちらりと見る。
目が合って、慌てて俯く。
でも、また視線は自然と加藤さんに戻る。
夕陽に照らされた横顔。
真っ直ぐな瞳。
優しい口元。
気が付くと、私の手が動いていた。
机の上に置いてあったスケッチブックに、鉛筆が走っている。
真剣な横顔。
下ろしたまつ毛。
夕陽で柔らかく照らされた輪郭。
いつも私を描いてくれる加藤さんを、今度は私が描いている。
「えっと、次は...」
加藤さんの声が続いているのに、
私の耳には、鉛筆の擦れる音しか聞こえない。
手が、自然と動く。
まるで、見慣れた風景を描くように。
でも、こんなに誰かを描きたいと思ったのは、初めて。
「あ」
小さな声が漏れる。
気付けば、スケッチブックいっぱいに、加藤さんの横顔が描かれていた。
「すごい!」
後ろの子の声に、心臓が止まりそうになる。
ミーティングの声が途切れる。
みんなの視線が、一斉にこちらに集まった。
「藤井さん、どうかした?」
加藤さんも振り向く。
慌ててスケッチブックを閉じようとするけれど、
後ろの藤井さんが、
「加藤さん、見て見て!伊藤さんの絵!」
顔が熱くなる。
心臓が早鐘のように打つ。
でも、もう遅かった。
「私が、モデル...?」
加藤さんが、スケッチブックを覗き込む。
シーンとした教室に、
夕暮れの光が差し込んでくる。
時間が止まったみたいに、誰も動かない。
「申し訳ありません」
椅子を引く音が、やけに大きく響く。
教室を飛び出す。
後ろから誰かの声がする。
でも、振り返れない。
廊下を走る。
夕陽が窓から差し込んで、
影が追いかけてくる。
「伊藤さん!」
加藤さんの声。
なのに、足が止まらない。
「待って!」
腕を掴まれた。
夕暮れの廊下で、二人の息遣いだけが響く。
「どうして謝るの?」
加藤さんの声が、少し切なそう。
「私、嬉しかったのに」
振り向くと、夕陽に照らされた加藤さんの瞳が、潤んでいた。
「加藤...さん?」
涙。
私のせいで、泣かせてしまった。
「伊藤さんの絵...とても綺麗でした」
声が震えている。
「私の知らない私が、描かれていて」
掴んでいた腕を離して、加藤さんが目元を拭う。
「ごめんなさい、なんか変ですよね」
「違います!」
思わず声が出る。
「私の方こそ、勝手に描いてしまって...」
「違うの」
加藤さんが、真っ直ぐに私を見つめる。
「伊藤さんの目に映る私が、知りたかった」
加藤さんが、一歩近づいてくる。
後ずさる私の背中が、窓に触れる。
夕陽が廊下いっぱいに広がって、二人の影を長く伸ばしている。
「伊藤さん」
加藤さんの声が、いつもより低く響く。
制服のリボンが、オレンジ色に染まって揺れる。
甘い香りが、近づいてくる。
「私のこと、どう見えてるの?」
囁くような声。
吐息が頬をかすめる。
息を飲む。
心臓が、今にも飛び出しそう。
このまま時間が止まればいいのに。
部活帰りの声が、階段から聞こえ始める。
慌てて距離を取る。
でも、足がもつれそう。
「お疲れ様でしたー!」
「今日も暑かったね」
バレー部の声。
石川や美咲たちだ。
加藤さんが、さっと私の前に立つ。
夕陽に染まった後ろ姿が、何かを守るように見えた。
階段を上がってくる足音。
制服に着替えた部員たちが、廊下の角を曲がってくる。
「あ...」
美咲の声。
みんなの足が止まる。
その視線が、私と加藤さんの間を行ったり来たりする。
「梨奈、今からみんなでラーメン行くんだけど」
美咲の声が、無理に明るい。
「練習頑張った後のラーメン、久しぶりじゃない?」
私の方に一歩踏み出してくる美咲。
でも、加藤さんの後ろ姿が、まだそこにある。
温かくて、どこか心強い。
一年生たちも期待するような目。
石川は腕を組んで、じっと見ている。
「ごめん...」
か細い声しか出ない。
「今日は...」
「あ、そういえば伊藤さん」
加藤さんが振り返る。
「原画の続き、今日中に終わらせないと」
私の代わりに、さらりと断ってくれる。
でも、その声には何か、感情が込められていた。
「文化祭の準備で」
加藤さんが付け加える。
バレー部の視線が一斉に加藤さんに集中する。
「文化祭って、まだ先でしょ」
石川の冷たい声が、廊下に響く。
リーダーとしての威厳を纏った声。
バレー部の部員たちの表情が、一瞬で引き締まる。
「みんなは毎日練習してるのに」
美咲も、つられたように強めの口調。
「梨奈だけ、どうして...」
「伊藤さんは」
加藤さんの声が、静かに、でもはっきりと。
「自分の道を...」
「決めるのは、伊藤自身でしょ」
石川が遮る。
「周りが、勝手に誘導するものじゃない」
その言葉は、加藤さんにも、美咲にも、そして私にも向けられていた。
「私、バレー部を...」
震える声。
でも、言わなきゃいけない気がして。
「今は何も言わなくていい」
石川の声が、私の言葉を遮る。
意外なほど、優しい口調。
「自分の気持ちが、整理できてから」
廊下の空気が、少しだけ和らぐ。
「焦らなくていい」
その言葉に、肩の力が抜けていく。
加藤さんの後ろ姿も、ほんの少し緩む。
「みんな、行くわよ」
石川がバレー部のみんなを促す。
美咲は何か言いかけて、でも呑み込んだ。
すれ違いざま、
「明日の朝、体育館で待ってる」
石川の静かな声が、私だけに届く。
バレー部の足音が、階段を下りていく。
遠ざかっていく声。
それなのに、涙が零れ落ちる。
止めようとしても、止まらない。
加藤さんが、そっと肩に手を置く。
温かい。
「私、どうすれば...」
声が震える。
「私に何を...」
夕陽が廊下の端まで伸びて、二人の影を壁に映している。
時間が、ゆっくりと流れていく。
加藤さんは何も言わない。
ただ、そこにいてくれる。
その存在が、今は一番の支えになる。
「美術室に戻りましょう」
加藤さんの声が、優しく響く。
そうだ、スケッチブック。
私の描いた加藤さんの横顔が、まだあそこに...。
顔を拭って、頷く。
加藤さんの手が、そっと離れる。
肩が、少し寂しい。
夕暮れの廊下を、今度は並んで歩く。
さっきまでとは違う沈黙。
でも、落ち着く空気。
美術室のドアを開けると、誰もいない教室に、真っ赤な夕陽が差し込んでいた。
机の上のスケッチブック。
開いたままのページには、加藤さんの横顔が、夕陽に照らされている。
「このスケッチ...もらってもいいですか?」
加藤さんが、少し恥ずかしそうに。
「私の宝物にしたくて」
その言葉に、また頬が熱くなる。
でも今度は、嬉しさで。
「でも、下手なのに...」
「違います」
加藤さんが、静かに首を振る。
「誰より私を見てくれていた証だから」
そっと切り取ったページを、大切そうに鞄にしまう加藤さんを見ながら、
胸の奥が温かくなる。
夕暮れの帰り道。
二人の影が、オレンジ色の道に長く伸びていく。
再始動のポリフォニー モロモロ @mondaru
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