第4話

やっと落ち着いてきたので、保健室を抜け出して、図書館へ。

誰もいない本棚の間は、いつもより静かに感じる。


奥の窓際の席。

いつの間にか、ここが落ち着く場所になっていた。


「あ」


声が漏れる。

加藤さんが、美術の本を抱えて立っていた。


「伊藤さん...」


優しい声。

制服の襟元から漂う香りが、ふわりと近づいてくる。


「具合悪そう?」


心配そうに覗き込まれて、

動悸が激しくなる。


「大丈夫...です」


慌てて視線を逸らす。

でも、加藤さんは隣の席に座った。


「ここ、私の好きな場所なの」


午後の陽が差し込む窓辺で、

加藤さんが本を開く。

その横顔に、目が釘付けになる。


「伊藤さん、絵のモデルになってくれない?」


突然の言葉に、心臓が跳ねる。


「美術部で、人物画を描くことになって」


加藤さんが、持っていた画集を見せてくれる。

肖像画がたくさん載っている。


「私、伊藤さんの横顔が好きで」


さらりと言われて、

頬が熱くなる。


「細くて、繊細な感じがして」


加藤さんの指が、

画集の上でゆっくりと線を描く。


「でも、強さもある」

「え...」

「だから、ずっと描きたいなって」


図書館の静寂の中で、

自分の鼓動が響くように感じる。

断る理由なんて、見つからなかった。


「放課後の美術室で、どう?」


加藤さんの声に、現実が重なる。


バレー部の練習。

山田先生との約束。

みんなの期待。


でも、今はこの穏やかな空気が、

心地よくて仕方ない。


「あ、でも部活が...」

「伊藤さん、今日は休むんでしょ?」


加藤さんは私の顔を覗き込んで。


「具合悪そうだもん」


優しい声に、胸が締め付けられる。

でも、それは苦しい感じじゃない。


「じゃあ...」

「うん」


加藤さんの笑顔が、

午後の光にきらきらと輝いていた。


ここにいれば、

あの息苦しい空気から、

少しだけ逃れられる気がした。


放課後、誰もいない廊下を美術室まで、加藤さんとそっと二人で歩く。


美術室に向かう途中、バレー部の後輩たちとすれ違う。

気まずい空気が流れる中、加藤さんが自然に会話を逸らしてくれる。


美術室のドアを開けると、既に数人の美術部員がいて、私を見る目が気になる。


でも、加藤さんが隣に座ってくれる。

イーゼルと画板の前で、

その柔らかな視線に包まれる。


「リラックスして」


低い声が、背中に心地よく響く。


「伊藤さんの好きなように、自然体でいて」


微笑む横顔を見つめながら、

何だかドキドキしてくる。


カーテン越しに差し込む夕日。

赤みがかったオレンジ色の光が、

加藤さんの白いキャンバスを染める。


筆を走らせる音。

かすかな鉛筆の擦れる音。

美術室に漂う、絵の具と紙の香り。


全部が心地よくて、

ここにいる時間が永遠に続けばいいのに、

そんな風に思ってしまう。


「伊藤さん、ちょっと休憩しよう」


ふと我に返ると、

もう外は夕焼けが消えかかっていた。


「ありがとう、今日は」


加藤さんが、嬉しそうに微笑む。


「また、続きをお願いしてもいい?」


「はい...」


言葉が自然と零れる。


「伊藤さん、笑顔だ」


言われて、頬が緩んでいるのに気づく。


「とっても、綺麗」


夕暮れの美術室で、

私たちは向かい合って微笑んだ。


帰り道。

夕闇に浮かび上がる街灯の明かりが、

いつもより優しく感じる。


スマホを見ると、未読メッセージがたくさん。

バレー部の連絡先ばかり。

でも今は、ゆっくり歩きたくて。


家に着くと、妹が出迎えてくれた。


「お姉ちゃん、遅かったね」


心配そうな顔。

でも、私は精一杯の笑顔を見せる。


「ただいま」


夕食の席で、

久しぶりに美味しく食べられた気がする。

母と妹の会話に、素直に笑顔で応えられる。


「楽しそうだね、梨奈」


母が嬉しそうに言う。


「何かいいことあった?」


「うん...」


箸を置いて、ちょっと考える。


「絵を、描いてもらってたの」

「そうなんだ。そういえば、梨奈って美術得意だったよね」


母が思い出したように言う。


「中学の時の作品、まだ取ってあるわ」


中学の時。

バレー一筋だった頃とは、違う自分。


「今度、見せて?」


妹が目を輝かせて言う。


「お姉ちゃんの絵、見たい!」


笑顔が、自然と零れる。


部屋に戻ると、机の上に置きっぱなしだった

バレーボールが目に入る。


手に取ってみる。

ざらついた表面。

独特の重み。


でも今は、

违和感しか感じられない。


そっとボールを引き出しにしまう。

代わりに、スケッチブックと鉛筆を取り出した。


真っ白なページを開く。

鉛筆を走らせる。


線を重ねていくうちに、

加藤さんの横顔が浮かび上がってくる。


「...」


無意識に微笑んでいる自分に気づく。


カーテンを開ければ、

夜空に輝く星が見える。


いつの間にか、涙が止まっていた。


新しいページを開いて、

星空を描き始める。


今はただ、

このときめきを大切にしたい。

自分の心に、正直でいたい。


明日への不安は、

きっとまだ残っているけれど。


今はこの瞬間を、

しっかりと描きとめておきたくて。


鉛筆を動かす手が、

夜更けまで止まらなかった。

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