第3話

4月8日 土曜日


まだ暗い外を歩く。

この時間、いつもは寝てる時間。


誰もいない体育館。

自分の足音だけが響く。

更衣室で制服を脱ぐ手が、また震える。


早すぎたみたい。

体育館の隅で、佐藤先輩を待つ。

ボールを握る手が汗ばむ。


暗かった外が、少しずつ明るくなってきた。

体育館の窓から差し込む光が、床を染めていく。


「おはよう」


先輩の声に飛び上がりそうになる。


「早かったね」


照明が点けられ、体育館が明るくなる。


「じゃあ、まずは基本的なフォームから」


コツンコツンという音を立てながら、レシーブの練習。

きちんとフォームを作って。

ゆっくりでいい。


「その調子」


先輩が優しく声をかけてくれる。

1時間ほど二人きりの練習。

そのとき、体育館の扉が開く音。


「おはようございまーす!」


元気な声と共に、部員たちが入ってきた。


体が強張る。

ボールが手から零れ落ちる。


「あれ、梨奈先輩?」

「佐藤先輩も!」

「えー、二人で何してたの?」


好奇心いっぱいの視線。

みんなの声が重なって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


佐藤先輩が『ごめん、もう終わろうか』と言ってくれた時、

キャプテンの石川涼子が入ってきた。


「あら、佐藤先輩。珍しいですね、朝練に」


やけに明るい声。


「私たち、梨奈のこと心配で心配で」

「あ、いや、私から梨奈ちゃんに提案したの」

「へぇ...そうなんですか」


その言葉の裏に、何かが見える。

更衣室に戻ると、後輩たちの小声での話し声。


「梨奈先輩って、佐藤先輩と仲良かったっけ?」

「キャプテン、ちょっと怒ってたよね」

「だって、相談するなら先にキャプテンでしょ?」


制服に着替える手が止まる。

美咲も、珍しく黙ったまま。


帰りの昇降口で、キャプテンに呼び止められた。

夕暮れの廊下に、二人きり。


「梨奈」


いつもの明るい声は、どこか違う。


「チームのことは私に任せて?」


差し込む夕日に、キャプテンの横顔が赤く染まる。


「佐藤先輩のことは、私からちゃんと話しておくから」


言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。


「あ、でも...」


「みんな、梨奈のこと心配してるの」


優しく、でもはっきりと。


「特別扱いされて浮いちゃわないように、私が責任持つから」


その言葉の重みが、肩にのしかかる。


4月9日 日曜日


何もする気が起きない。

佐藤先輩の好意が酷くいわれるのは何故?

私達は悪いことをしてた訳でもないのに。


4月10日 月曜日


翌朝。

体育館に向かう途中、美咲が待っていた。

いつもの待ち合わせ場所。

でも、表情が曇っている。


「やっぱり今日も佐藤先輩と練習するの?」

「うん...」

「私たちで練習すれば良かったのに」


俯いたまま、静かな声で。


「親友なのに」


その言葉に、どう応えていいかわからない。


昼休み、手を洗おうとトイレに入った時。

個室から先輩たちの声が聞こえた。


「佐藤さん、最近おかしくない?」

「引退した人が偉そうにさ」

「まだ練習来てるの、目立ちたいだけでしょ」


手を伸ばした蛇口に触れたまま、動けなくなる。


「キャプテンも困ってるよね」

「それな。伊藤のこと囲い込んじゃって」

「あ、でも伊藤も伊藤よね」

「そう。事故を理由に甘えてる感じ」

「前から調子乗ってたけど、今度のは図が外れてる」


冷たい水が、手の平を流れていく。

止めなきゃいけないのに、体が言うことを聞かない。


「あんな大変な事故に遭ったのに、佐藤先輩と朝練とか」

「チームのみんなより、引退した先輩と仲良くなりたいわけ?」

「キャプテンが気を遣ってるのに、空気読めてないよね」


個室のドアが開く音。

慌てて蛇口を閉める。

先輩たちと目が合わないよう、うつむいたまま。


午後の授業も終わり、下駄箱に向かおうとした時。

スマホが震えた。


佐藤先輩からのメッセージ。


『明日から朝練、やめておいた方がいいかも。ごめんね』


立ち止まる。

画面を見つめたまま、動けない。


『キャプテンと話したの。私が余計なことしちゃったみたい』

『チームのみんなで、梨奈ちゃんのこと支えてあげられるって』

『私が口出すことじゃなかったね』


先輩の優しさも、キャプテンの気遣いも、重たくて、息が詰まりそう。


誰かが下駄箱の前を通り過ぎていく。

女子たちの楽しそうな話し声。

バレー部の声も混ざっている。


でも、私には遠すぎる音。


玄関を開けた時から、言うべきか迷っていた。

夕食も、ほとんど手をつけられなかった。


「お姉ちゃん、また残すの?」


と妹に言われても、

頷くことしかできない。


夜。

リビングのテレビの音が消えて、

母が片付けを始める気配。


「ねぇ、お母さん」


キッチンに立つ後ろ姿に、

声をかける。


「バレー部...辞めたい」


震える声。


母の手が止まる。

シンクの水の音だけが響く。


「どうして?」


振り向いた母の表情が、優しすぎて。


「みんなが優しすぎて...」


涙が零れる。


「でも、私には...」


その先の言葉が出てこない。


母の腕が、そっと背中に回る。

温かい。


堰を切ったように、涙が溢れ出す。

ごめんね、って言いたいのに、

声にならない。


母は何も言わず、

ただ、ずっと抱きしめていてくれた。

シンクの水が止まった台所で、

私の嗚咽だけが響く。


制服の肩が、涙で濡れていく。

でも、母は離してくれない。


この優しさの前では、

強がることも、

笑顔を作ることも、

できなかった。


階段を上がる足が重い。

母に背中を押されるようにして、自室のドアを開ける。


制服のまま、布団に潜り込む。

枕に顔を埋めても、涙が止まらない。


バレー部での思い出が、

走馬灯のように浮かんでは消える。

でも、それは誰かの思い出で、

私のものじゃない気がして。


スマホの画面が光る。

佐藤先輩、美咲、キャプテン。

たくさんの未読メッセージ。


でも、今は見る勇気がない。

画面を伏せて、また枕に顔を埋める。


明日、どんな顔をして教室に入ればいいんだろう。

みんなに、何て言えばいいんだろう。

考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。


涙が止まらない。



4月11日 火曜日


翌朝、覚悟を決めて職員室に向かう。

顧問の山田先生は、いつもの笑顔で迎えてくれた。


「退部、ですか?」


先生の表情が曇る。


「どうしてですか?伊藤さんには才能がある」


私の気持ちは全く聞かずに、先生は一方的に話を続ける。


「事故の影響なら、それは時間が解決してくれます」

「でも...」


粘つく山田先生の口元から強烈な口臭。


「チームのみんなも心配してますよ。キャプテンだってあなたのために...」


否定する隙も与えず、先生の言葉が重くのしかかってくる。

だんだん近づいてくる先生の存在に、息苦しさを感じる。


「どうしてだ?お前には才能があるじゃないか。練習をサボったからそうなったのか?」


そっと私の手を握ってくる山田先生。

不快感が全身を襲う。


「違います。以前は上手く出来ていました。でも今は身体が思うように動きません。練習についていけない自分が情けなくて...」


私の言葉を遮って山田先生が口を開く。


「治ればまた上手く出来るさ。何度も言わせるな」


肩をさすって、顔が近距離に近づく。

荒く鼻で呼吸する山田先生。


「それでも無理なんです。他のみんなにも申し訳ないです。私がいると足を引っ張っちゃう...」


私が必死に伝えると、山田先生は不機嫌そうに黙り込む。


「伊藤、いい加減にしろ。お前は私が見込んだ選手だぞ」


腰とお尻のあたりを軽く叩きながらそっと擦られる。

強い口調で言われ、身体が竦んでしまう。


「考え...直します」


やっと絞り出した言葉。


「そうですか」


先生が満足げに笑う。

その表情が、気持ち悪くて。


「では明日の練習に来るように」


まるで命令するような口調。


「私からキャプテンにも伝えておきましょう」


職員室を飛び出す。

足がガクガクして、

廊下の壁に手をつかないと立っていられない。


吐き気がする。

トイレまで走る。

個室に駆け込んで、後ろの鍵を慌てて下ろす。


胸が苦しい。

息が上手く吸えない。

先生の息が、まだ近くにあるみたいで。


なんとか教室に戻る。


「大丈夫?顔色悪いよ?」


美咲が心配そうに寄ってくる。

胸の気持ち悪さが、まだ収まらない。


「保健室、行こうか」


優しく手を差し伸べる美咲。

でも、その声のトーンが、どこか上から目線。


「私ね、涼子と話してたんだ」


保健室に向かう廊下で、美咲が切り出す。


「やっぱり梨奈のこと、すっごく心配してて」


「...」


「私なら梨奈の気持ちわかるからって、涼子が特別に任せてくれたの」


誇らしげな美咲の声が、頭に響く。


「放課後の練習も、私が付きっきりでサポートするって」


そうやって、みんな勝手に決めていく。

私の気持ちは、誰も聞いてくれない。


「ねぇ、梨奈」


また、その上から目線の優しさ。


「私に任せてくれていいんだよ?」


保健室のベッドに横たわる。

カーテンの向こうで、美咲が養護教諭と話している。


『梨奈のこと、私が一番わかってるから』

『でも、最近本当に心配で』

『キャプテンにも相談してて』


一番わかってる。

その言葉が、やけに空々しく聞こえる。


『私、梨奈の親友だから』

『だから、みんなも私に任せてくれてて』


親友。

でも、今の美咲は私のことを心配しているというより、

周りに認められることに必死みたい。


『佐藤先輩なんかより、私の方が絶対梨奈のためになる』

『だって、ずっと一緒にいた親友だもん』


親友という言葉を、

まるでバッジのように使う美咲の声に、

疲れてしまう。


目を閉じる。

保健室の消毒液の匂いが、

やけに強く感じられた。

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