いきつけのバーに行くと、いつも千賀子さんは俺を隣に座らせる。

春風秋雄

店の外まで「Good night」の歌声が聞こえてきた

22時を過ぎた頃、俺はやっと会社を出た。この2年くらい、退社時刻はいつもこれくらいの時間になる。今日は金曜日なので、いつものカラオケ・バーに寄る。毎週金曜にここに寄るのが俺の唯一の息抜きだった。ドアを開けた瞬間に常連客の千賀子さんの歌声が響いてきた。福山雅治の“Good night”だ。千賀子さんはこの歌が好きで、一日に2回か3回は歌う。元彼との思い出の曲だと言っていた。千賀子さんはカウンターの一番端の席に座っていた。俺は二つ椅子をあけて座る。マスターが俺のウィスキーボトルを出してくれた。俺は夕食を食べていなかったので焼うどんを注文した。ママはボックス席のお客について、千賀子さんの歌など気にせず、大きな声で笑っている。

歌い終わった千賀子さんが俺に声をかけてきた。

「トロ山くーん!」

俺の名前が富山(トミヤマ)なので、会社では「トロ山」と呼ばれていると以前話したら、それ以来千賀子さんは俺のことを「トロ山くん」と呼ぶようになった。

「今会社帰り?今日も遅いんだね」

「いつものことですよ」

「早く辞めちゃいなよ、そんな会社」

「簡単にはやめられませんよ。生活があるのですから」

「ふーん?どこで働いても生活はできるのになあ」

俺は無視してマスターが作ってくれた水割りを飲む。


俺の名前は富山幸次。30歳の独身だ。俺はこの2年くらい会社を出るのが22時頃になっている。残業、残業のブラック企業かと言えば、そうとも言えない。他の社員は18時か19時には会社を出ている。今の支店長が来るまでは俺もそれくらいの時間には会社を出ていた。しかし、今の支店長は他の社員の雑務もすべて俺に押し付ける。それを全部処理すると、どうしてもこれくらいの時間になるということだ。テレビでコマーシャルもやっているこの会社は、小中学生を対象にした教育システムの販売を行う会社だ。就活の時の会社説明会では将来上場も視野に入れており、社員は自社株を持つことも可能だと言われた。少しずつ自社株を増やし、会社が上場した時は、結構なお金を手にすることが出来ると夢を見させてくれた。しかし、入社して8年になるが、一向に上場の動きはない。俺は入社時には商品開発の部署を希望していた。学生時代に家庭教師のアルバイトをしていたので、もっとわかりやすく教えることができる商品を開発したいと思っていたからだ。ところが、新入社員は全員営業を経験するというのがこの会社の方針で、1年間営業を経験してから正式な配属が決まる。そして、その1年間で、俺は同期の中でも上位の営業成績を収めてしまった。たまたま親戚に小中学生の子供が多かったので、新人研修で商品の良さに惚れこんだ俺は、親戚を回り、ことごとく契約をとってしまった。すると、会社は営業職としての適正が有ると判断し、そのまま営業部に配属させられてしまったというわけだ。しかし、親類縁者に小中学生が無限にいるわけではない。たちまち俺は契約が取れなくなった。毎月俺の成績は部内で最下位となった。上司からは毎月「今月のノルマはどうなっているんだ」と責められ、先輩からは「トロ山」と言われるようになった。年数が経ち、後輩がどんどん入ってくるが、その後輩たちにも成績は抜かされ、後輩にも「トロ山先輩」と言われるようになってしまった。部内で親しくしてくれる人もいなくなり、上司は早くやめてくれないかと思っているのが顔に出ている。そして入社4年目に福岡支店への転勤の辞令が出た。何で俺が福岡支店に?と思ったが、会社は転勤辞令を出せば辞めると思ったのかもしれない。俺は転勤に応じた。心機一転頑張ろうと思った。しかし、どこへ行っても営業力のない俺はまったく契約が取れなかった。どこから聞いたのか、福岡支店でも俺は「トロ山」と呼ばれるようになった。それでも前の支店長は優しかった。営業に同行して色々アドバイスしてくれたことも度々あった。しかし、その優しかった支店長は2年前に本社に転勤になった。代わりにやってきた支店長は、福岡支店で実績を残し、本社からの評価をもらって幹部として本社に戻ろうとしている人で、必然的に俺への風当たりは強くなった。支店長は個々の成績と同じように、チームでの成績も厳しく指導する。俺と同じチームになったメンバーからの圧力も厳しくなり、成績が上がらない分、営業終了後に行う顧客情報入力や、サンキューレターの印刷などの雑務を他の社員の分まで俺がやるようになった。

確かに今はしんどいけど、せっかく入った会社、そんなに簡単には辞められない。故郷の両親もテレビのCMで知っている会社に入ったことを、本当に喜んでくれていた。そんな会社を辞めるとは両親にも言えない。


酔っぱらった目で千賀子さんが話しかけてくる。

「ねえ、トロちゃん」

トロ山から、今度はトロちゃんになってしまった。

「そんな離れたところにいないで、こっちに座りなよ」

「いや、けっこうです」

「お姉さんの隣は嫌なの?」

千賀子さんは俺より3つ年上だと言っていた。

「今日は一人で飲みたい気分なので」

「一人で飲むなら家で飲めばいいじゃない。ここに来るということは、誰か相手をしてくれる人が欲しくて来たのでしょ?」

図星だった。だが、それはママやマスターのことで、あなたの事ではない、とは言えない。

「いいから、こっちに来なさい」

あまりにもしつこいので、仕方なく俺は席を移動する。

「トロちゃん、あんた、いまいくつ?」

「前にも言ったじゃないですか。30歳です」

「まだ若いのだから、いくらでもやり直しはできるよ。でも、何をやるにしても体が資本。今の生活を続けていたら、本当に体壊すよ」

言っていることは確かだ。それくらい俺だってわかっている。

「まあ、いいや。それより何か歌って」

千賀子さんはそう言ってカラオケのリモコンを俺によこした。

俺はサザンの「真夏の果実」を入れた。


翌週の金曜日にいつものカラオケ・バーに行くと、千賀子さんは来ていなかった。

「今日は千賀子さん来てないのですね」

俺がそう言うと、ママがからかうような笑顔で

「あら、寂しい?」

と聞いてきた。

「そんなんじゃないですけど、いつもいる人がいないと、どうしたのかなと思って」

「今日は出張だと言っていたよ。熊本に行くと言っていた」

「あの人は、何をやっている人なのですか?」

「何も聞いていないの?いつもあれだけ話しているのに」

そう言えば、いつも俺のことを色々言うくせに、千賀子さんは自分のことは何も話さない。俺が千賀子さんに関して知っていることは年齢が俺より3つ上ということと、名前が千賀子だということだけで、苗字すら知らない。

「あの子は九州の物産をネットショップで販売しているのよ」

「ネットショップですか」

「最初は梅ヶ枝餅から始めてね。それから徐々に品数を増やして、いまでは結構な商売になっているみたいよ」

梅ヶ枝餅は太宰府を中心に販売されている餅菓子だ。簡単に言えば餡子が入った焼き餅だが、上に梅の刻印がされている。商標登録されているお菓子で、販売するには組合に入って販売許可をとらなければならないと聞いたことがある。

「すごいですね。千賀子さんって、なかなかやり手なんですね」

「まあ、あの子はあの子なりに苦労してきたからね」

「そうなんですか?」

「何でもそうでしょう?一朝一夕で上手くいく仕事なんてないわよ。あの子が初めてここに来た時は、本当に疲れた顔をしていたわね。まあ、離婚してすぐだったということもあるけど」

「千賀子さんはバツイチだったのですか?」

「それも知らなかったの?小倉の由緒ある家に嫁いだけど、姑と折り合いが悪く、乳飲み子を残して追い出されたみたいだよ」

そうだったのか。辛い過去を持っている人だったんだ。

「ふらっと、この店に来た時は、これからどうやって生活して行こうかと沈んでいたけど、離婚した時に持たされたお金を元手に、コツコツと商売を始めて、ここに来る度に元気に明るくなってきたので、私は千賀子ちゃんと会うのが楽しみになったものよ」

ママが言うように、千賀子さんは千賀子さんなりの苦労をしてきたのだ。その苦労の末に今の能天気な明るい千賀子さんがいるのだ。


翌週カラオケ・バーに行くと、千賀子さんがいた。

「トロちゃん、熊本のお土産あげるよ」

千賀子さんがそう言って、袋を差し出した。

「お土産って、何ですか?お菓子ですか?」

「団子だよ」

「いきなり団子ですか」

「おー、何故わかった?熊本に詳しい?」

俺は何を言われているのかわからなかった。

「それは、“いきなり団子”というお菓子なんだよ。こんどうちの店で扱おうかと思ってね。とりあえず食べてみて」

これからお酒を飲もうかというときに団子とは、と思ったが、千賀子さんの仕事に関わることのようなので、俺は包装を解いて一つ食べてみた。モチモチの生地の中に、餡子とサツマイモが入っている。思ったほど甘くなく、美味しい。

「美味しいです」

「そう?よかった」

俺はお腹がすいていたこともあり、立て続けに2つ食べた。

「会社はもう辞めた?」

「何言っているんですか、簡単には辞められませんよ」

「会社を辞めるなんて、簡単だよ。退職願を出すだけなんだから。あんたのことだから、有給休暇はまるまる残っているだろうから、明日からは有給消化で来ませんと言って終わりじゃない」

「そんなことを言っているんじゃないですよ。辞めた後のことを言っているんです。仕事を辞めたら生活できないじゃないですか」

「そりゃぁ、次の仕事をみつけるまでの間は収入ないかもしれないけど、失業保険もあるし、多少の蓄えはあるのでしょ?」

「まあ、多少貯金はありますけど」

「だったら問題ないじゃない」

「転職すると言ったって、今より条件の良いところがある保証はないですから」

「今より条件の良いところ?今の会社が、本当に条件がいいと思っているの?」

「そりゃあ、それなりに給料はもらっていますから」

「トロちゃんは、どれだけ給料がほしいの?そして、その給料を何に使うつもりなの?まさか、老後の貯えとか言わないよね?」

「老後のことはまだ考えてないけど、お金はいくらあってもいいじゃない」

「トロちゃんは結婚もしていないし、彼女もいない。毎日22時に会社を出て、家に帰るのは22時半を過ぎている。土日は疲れて寝ているだけ。特にお金を使う趣味もない。それなのに、お金を稼ぐために体も心もボロボロになるような仕事をしている。何のために今の会社にしがみついているの?だったら、多少給料が下がっても、自分にあった仕事をして、自由に使える時間を作った方が幸せじゃない?」

「でも、せっかく名のある会社に入ったんだから、そこを辞めるとなると、親も悲しむと思うし」

「今のトロちゃんの姿を見た方が親は悲しむよ。親が望む子供の幸せって言うのは、元気で明るく生きてくれること。いい会社に勤めるとか、たくさん給料をもらうとか、親からしたら、そんなのはどうでもいいの。元気でちゃんと生活できていたら、それで安心するの。今のトロちゃんの姿を見たら、お母さんは泣くと思うよ」

俺が黙り込んだら、千賀子さんは、そっと1冊の雑誌を差し出した。それは求人広告雑誌だった。


その日の俺は、ちょっと飲みすぎた。睡眠不足も重なって、いつのまにか寝てしまったようだ。気が付くとベッドの中にいた。どうやって帰ったのか、まったく覚えていない。いや、違う。帰っていない。ここは俺の部屋ではない。部屋の景色が全く違う。ふと横をみると、誰かが寝ている。千賀子さんだ。俺は千賀子さんのベッドで寝ているのか?スーツとカッターシャツは脱がされているが、アンダーシャツとパンツは履いている。千賀子さんと何かがあったわけではなさそうだ。どうしようか。今から家に帰るか?

俺は、そっとベッドを抜け出そうとした。

「起きたの?」

千賀子さんがこちらを見て言った。

「起こしてしまいましたか。すみません。帰ります」

「明日は休みでしょ?今日はここに泊まりなさい」

「いや、でも、さすがにそう言うわけには」

「どうして?」

「一応、俺も男ですし」

「私の横で寝ていたら、したくなるということ?」

「そんな、ダイレクトに言われると・・・」

「でも、そういうことでしょ?」

「まあ、そういうことです」

「じゃあ、しよう」

「え?」

「してしまえば、そんなこと考えずにここに泊まれるでしょ?」

「でも・・・」

「嫌なの?」

「嫌じゃないです」

「じゃあ、しちゃいましょ」

千賀子さんはそう言って、俺に抱きついてきた。


「こんなことしたからといって、責任とろうとか、そんなこと考えなくていいからね」

さっきまで艶めかしい声を出していた千賀子さんが冷めた口調で言った。

「でも・・・」

「私も久しぶりにしたかったから、ちょうど良かっただけ。さあ、寝るよ」

千賀子さんはそう言って目をつむった。


翌日は昼前に目を覚ました。

「良く寝ていたね。コーヒー飲む?」

「いただきます」

ダイニングに行くと、トーストと目玉焼きが作ってあった。

「千賀子さんは離婚歴があるんですよね?」

「ママから聞いたの?」

「ママは俺が知っているものだと思って話したんです」

「べつにいいよ。隠すことでもないから。もう6年も前のことだし」

「それから今の事業を始めたのですよね?」

「とにかく食べていくために働かなければいけなかったからね。最初は梅ヶ枝餅を扱っているお店で売り子をやったの。県外から来たお客さんが美味しい美味しいって食べるから、これを何とか県外で販売出来ないかと思ってね。すでにネット販売している店もあったんだけど、私が働いていた店ではやっていなかったから、やらせてもらったの。SNSなんかを駆使して、色々宣伝していったら、結構売り上げが伸びてね。他の商品も扱ってみたくなって、梅ヶ枝餅に関してはその店と提携するという形で、独立してネットショップを立ち上げたってわけ」

「すごいですね」

「全然すごくないよ。私はとりあえず食べていければ良かったから、それほど儲けようとは思ってなかったしね。何より、やっていてとても楽しかった。結婚する前はOLをやっていたけど、こんなに楽しく仕事をしたことはなかったなって思った」

「仕事が楽しいですか?思ったことないなぁ」

「本当にお金が必要で、そのために好きでもない仕事をするのは仕方ないと思うけど、そうでなければ、仕事は楽しく、やりがいをもってやらないと続かないよ」

「そうですね」

「結婚するずっと前に、付き合っていた彼氏がいたの。福山の“Good night”が好きでね。私を車で家まで送ってくれるたびに、あの角ハンドル切れば君の家かって、いつも寂しそうに言っていた。その人、名前が和夫って言うんだけど、会社では“クズオ”って呼ばれていたらしくてね。トロちゃんと同じで営業の仕事だったんだけど、会社のお荷物だったらしいの。私は転職しなさいって、いつも言っていたのだけど、もうちょっと頑張ってみるって言って会社にしがみついていた。無理していたのだと思う。ある日、営業の帰りに車で山道を走っていてガードレールを突き破って、そのまま帰らぬ人になった。仕事の疲れがたまっていたのか、自分でガードレールに突っ込んだのかはわからないけど、どちらにしても、無理やりにでも会社を辞めさせておけば良かったって後悔した」

そんなことがあったから、しきりに俺に会社を辞めろといっていたのか。

「トロちゃんを見ていると、和夫のことを思い出して辛かった。トロちゃんには和夫と同じ道をたどってほしくないなと思ってね」

「ありがとうございます」

「転職のことは、真剣に考えた方がいいよ」

「わかりました。真剣に考えてみます」

千賀子さんが作ってくれた朝食を食べ終わり、俺は自分の部屋に帰ることにした。帰り際、千賀子さんが俺をからかうように言った。

「また私としたくなったら、いつでもおいで」

俺は自分の顔が赤くなるのがわかった。


俺はカラオケ・バーには2週間行かなかった。今度千賀子さんに会う時は、ちゃんとケジメをつけてから会おうと思ったからだ。

3週間ぶりにカラオケ・バーのドアを開けると、千賀子さんはカウンターの端に座っていた。俺は迷わず千賀子さんの隣に腰掛けた。

「トロちゃん、久しぶりじゃない」

「ちょっと色々忙しかったもので」

千賀子さんが怪訝そうな顔で俺を見た。

「実家に帰って来たんです」

「実家に?」

「両親に事情を話して会社を辞めると言いました」

「ご両親は何と言っていたの?」

「お袋は泣いていました。何でもっと早く辞めなかったんだって」

「それで、会社は辞めたの?」

「手続きだとか、引継ぎだとか、色々ありましたが、何とか退職届を受理してもらえました。今は有給消化中です」

「そうか、そうか。うん。よかった。じゃあ、トロちゃんのために1曲歌ってあげよう」

そう言って千賀子さんが入れた曲は、吉田拓郎の「人生を語らず」という曲だった。俺はこの曲を初めて聞いた。千賀子さんはどうしてこんな曲を知っているのだろう。これも和夫さんという元彼の影響なのだろうかと思ったら、少し嫉妬した。千賀子さんは怒鳴り散らすような歌声で「越えていけそこを 越えていけそれを」と歌い続けた。


カラオケ・バーを出て、千賀子さんと一緒に歩く。

「千賀子さんの部屋に行っていいですか?」

「あら?私としたくなった?」

「はい」

照れもせず、俺がはっきりと返事をしたので、千賀子さんが驚いた。

「そんな真剣な目で見つめられると、照れるんだけど」

千賀子さんが珍しく女らしい表情で照れた。

「俺が今住んでいる部屋は、転勤してきた際に会社で借り上げた社宅なんです。だから、もうすぐ出て行かなければいけないんです」

千賀子さんがチラッと俺を見た。

「新しい部屋が見つかるまで、私のところにくる?」

「そうしてもらえると助かります。そして、新しい部屋は千賀子さんと一緒に住める少し広い部屋を探そうと思っています」

千賀子さんはチラッと俺を見たが、何も言わなかった。

「私の仕事、ちょっと忙しくなってきたのだけど、トロちゃん、手伝ってくれる?」

「是非手伝わせてください」

千賀子さんのマンションが近づいてきた。すでに1回そういう関係になっているのに、俺の胸はドキドキしてきた。


ベッドで抱き合ったあと、千賀子さんがポツリポツリと話し出した。

「“Good night”という曲、私何年も歌ってなかったの。でもトロちゃんを見ていたら、歌わずにいられなくなったの。あの人とトロちゃんが重なったんだろうね。トロちゃんのこと放っておけないと思ったの。そしたらね、あの人への思いが蘇ってきたの。本当に好きだったから。忘れていたことや、心の奥底に封印していたことが湧き出すように蘇ってきた。そしたら、不思議なことに、トロちゃんとあの人は全然似てないのに、あの人への思いが、だんだんトロちゃんへ向いてきちゃったの。トロちゃんが辛そうな顔をして、あのバーのドアを開ける度に、胸が締め付けられるようだった。トロちゃんとあの人は違うんだからと、自分に言い聞かせるように、何度も思い出の曲“Good night”を歌うんだけど、もう気持ちは抑えられなかった。私はトロちゃんとはあの日の1度だけでいいと思っていた。でも、今日、トロちゃんはまた来たいと言ってくれた。本当にうれしかった」

俺は思わず千賀子さんを抱きしめた。

俺は千賀子さんにとって、あの人の代わりなのかもしれない。もしそうだとしても構わない。千賀子さんがずっと抱えていた後悔を、少しでも和らげてあげられたのならそれでいい。でも、間違いなく言えることは、俺は千賀子さんのことが好きだ。そして、千賀子さんは俺の命の恩人だということだ。

最愛の人を亡くし、その辛さからやっと立ち直って結婚した相手からは離縁された千賀子さん。この人の残りの人生を俺が精一杯、幸せにしてあげたいと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いきつけのバーに行くと、いつも千賀子さんは俺を隣に座らせる。 春風秋雄 @hk76617661

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ