手に握られた新聞記事とは

 翌朝、菜可乃なかのの御両親がコンビニで朝食を買ってきてくれた。リビングにある小さなテーブルをみんなで囲んで食べ終わると、再び、立華たちばな家で話が盛り上がって来た。


 俺は、なんとなく肩身が狭い。愛想笑い、相槌あいづち、時々、菜可乃なかのの小さな頃の話で本当に笑ったり。さすがにスマホをいじるのは悪いと思い、おとなしく話を聞いていた。


 お昼前、ご両親の提案で外食することになり、菜可乃なかのが公共交通機関では行けないところにある人気店をスマホで探し始めた。

 確かに、車を持っていない俺たちには重要なポイントだ。


 幸い、今日のバイトは夕方から、結局、道の駅にあるレストランという事になり、牛肉のひつまぶしバージョンをごちそうになった。

 甘く味付けされた牛肉とワサビって、こんなに合うものなのかと正直驚いた。醤油とワサビ、調味料としては万能すぎる。


 そしてアパートまで送ってもらうと、二人で車が見えなくなるまで見送った。


二海ふたみ、なんか、ごめんね」

「いいよ」

菜可乃なかの、大丈夫か?」


 やっぱり菜可乃なかのの様子がおかしい。家族と離れた途端、ぐったりとした表情をしている。

 生ぬるい風が頬を撫でた。日差しも強く、アスファルトの照り返しでさらに暑い。


 菜可乃なかのの肩を抱いて部屋に戻った。出かける時、エアコンは入れっぱなしにしておいたので涼しい。リビングに戻ると、菜可乃なかのはベッドに転がり込んだ。


「しよ。いつもみたいに優しくしなくていいから。いきなり挿れていいよ」

「それじゃ、菜可乃なかのが痛いだろう?」

「いいの。私を苦しめて。私、ひどい女だから」

「そんなことない」

「あるの」


 困った。それなりにお互い盛り上がっていく感が無いと、海綿体に血液が充填されない。


「じゃあ、キスはしていいか?」

「それもダメ。二海ふたみのキス、気持ちいいから」


 そんなから毎日、するにはしている。挿入前にかける時間は短くして、キスだけは俺が強く要望したら、フレンチキスならOKということになり、まあ、それなりに。

 俺は気持ち良かったが、菜可乃なかのはどうなんだろう?



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 夏休みも終わり、相変わらず元気のない菜可乃なかのを励まそうと、色々考えた結果、空手の技を教えることにした。

 以前、夏休み当初に行った海水浴で、発勁はっけいを教えた時に元気になったから。


 若干、涼しくなった風を受けながら、菜可乃なかののアパートから大学に向かって歩いている。空の色はまあまあ。薄曇りだ。


菜可乃なかの、今日、空手道部、俺も行っていいか?」

「うん、いいけど、どうして?」

発勁はっけい並みにすごいやつ、教える」

「え? ほんと?」


 菜可乃なかのは急に俺の方を見た。その勢いで前髪が分けられて、輝いた瞳が見える。やっぱりこいつは武道バカだ。まあ、俺もそうだが。


「他の人たちに見られると面倒だから、講義が終わったらすぐに武道場に行こう」

「ううん、お昼ご飯、急いで食べていくのはどう?」

「おお、それなら二人っきりでやれるな」

「もう、二海ふたみったら、『やれる』だなんて」

「おい」


 よかった。以前の菜可乃なかののように戻ってきた。


 午前の講義が終わり、一緒に急いで弁当を食べ終えると、俺達は武道場に向かった。武道場は体育施設の二階にある。予想通り、誰もいない。


「じゃあ、『抜重』を教える」

「なに?それ」

菜可乃なかのは、二発突きを放って、二発目をそのままひっこめずに相手の視界を妨げ、三発目で決めるのが得意だろ?」

「すごい、二海ふたみ、そんなに私のこと見ていてくれたの?」

「いや、まあ、高校生の時は、菜可乃なかのとして見ていたわけじゃないが」


 菜可乃なかのが唇の左側を上げた。不機嫌になる時の表情だ。


「もう、そこは美談にして、『あの時から、菜可乃なかののこと、ずっと見ていたんだ』って言ってよ」

「悪い」


 菜可乃なかのは笑った。久しぶりに普通に笑うのを見た。良かった。


「初速を上げる方法が、『抜重』ってやつ」

「どうやるの?」

「まず、普通に組み手の構えをする」


 菜可乃なかのと俺は、空手の組手の構え、お互い、左足を前、左手は型より少し下、右手は腹の前で構えた。


「ここで、一歩踏み出す時に、前足の力を抜いて、後ろ足の力で一気に踏み出す」


 俺は、菜可乃なかのの目の前でやって見せた。


「は、速い! なにそれ?」

「これは、なんというか、倒れ込む勢いを利用して素早く踏み出す技術。力が入る瞬間を見破られにくいから、さらに速く見える」

「うん、ちょっとやってみる。前足の力を抜くのね」


 菜可乃なかのは三十分ほど頑張った。


二海ふたみ、せっかく教えてくれたのに、ごめん、ちょっと足の負担が大きすぎる、これ」

「そうだな。でも、習得できたら、菜可乃なかのの得意技、決まる確率がぐっとあがるぞ」

「確かに、このスピードで一歩を踏み出せたら、相手の判断力を鈍らせられるわ」


 肩で息をする菜可乃なかの、まあ、三十分も全力で動いたらこうなるよな。


「そろそろ午後の講義が始まる。行こうか」

「うん。二海ふたみ、やっぱり二海ふたみ、すごいよ。空手道部に来てよ」

「それはゴメンだな。あの部長は気に入らないから。それに、バイトがある」

「そだね、無理言ってゴメン」


 あ、なんかちょっと小さな地雷を踏んだ気がする。


菜可乃なかの、大丈夫、大会とかでヘルプ要請があったら、ちゃんと行くから」

「うん、ありがと」


 菜可乃なかののおかげで、女心がそれなりにわかるようになってきた気がする。菜可乃なかのとの仲も、なんとかなる。きっと、なんとかなる。



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 夜、ショッピングモールのバイトから帰ってくると、菜可乃なかのは部屋の電気もつけずに小さなテーブルの前に座っていた。

 ドアに背を向けているので、何をしているかわからないが、姿勢から寝ていないことはわかる。


 パソコンをいじっているわけでもなく、スマホを見ているようでもない。


菜可乃なかの、なにかあったのか?」


 俺はリビングの電気をつけると、後ろから菜可乃なかのの肩に手を乗せた。手元を覗き込むと、クシャクシャになった新聞記事の切り抜きを握っていた。


「これ、私には読めないけど、二海ふたみだよね」

「そうだけど、どうして持っているんだ?」


 菜可乃なかのが手にしていたのは台湾の新聞記事だった。


「ごめん、二海ふたみの卒アルに挟んであったのを抜き取っちゃった」

「そっか」

「それで、捨てようと思って」

「うん」


「でも、ずっと捨てられなくて」

「捨ててもいいぞ」


 菜可乃なかのの肩が震えた。いや、さっきから震えている。


「私、二海ふたみが乱暴にしてくれないから、他の人としちゃった」

「そ、そうか……あ?」


 これは、まさか、あれか? 言葉が出ない。しかし、俺の心は割と落ち着いている。


「嫉妬しないの?」

「不思議としない」

「それが『恋がわからない』ってことかな」

「そうかも」


 確かに、なんというか、菜可乃なかのに対して独占欲みたいなものは感じない。それに、菜可乃なかのはそんなことしない。

 きっと、空手の乱取りをしたとか、そういうオチに違いない。


「ヘアードネーションのために髪を伸ばしていたんだね」

「そう。まあ、ちょっと目立ちたいってのもあったが」


「何かきっかけがあったの?」


「小学校の時、あ、台北の日本人学校だが、あこがれていたアニメキャラの髪が長くて、それを真似て伸ばしていたんだ」

「そっか、アニメキャラって髪の毛の長いキャラが多いよね」


「それでな、さすがに切ろうかと思った時に、長い髪だった隣の女の子が急にショートヘアになった」

「ふうん」


「その時にヘアードネーションのことを教えてもらったんだ」

「そっか」

「ネットで調べてみたら、結構、大変なんだなって思って、切るのを止めて。六年生の時にヘアードネーション」

二海ふたみがたくさん話をすると安心する」


 菜可乃なかの、少し元気が出てきたかな。


「じゃあ、もうちょっと話す。それで、結局、また伸ばして中三の時にもう一回、そして大学に入る前にヘアードネーションをしたんだ」

「三回も?」

「まあ、これからも許される限りは伸ばすつもり」


「うん」


 何か、明るくなるようなネタ、エピソード、無かったっけ? 思い出せ、何かを思い出せ!


「そうだ、クラスの男子がやたらと髪を触りたがるんだ」

「どうして?」

「本当は女子の髪を触りたいんだろうな。疑似体験ってやつかも」

「ふふふ」


 菜可乃なかのの笑い声が聞こえた。これは作り笑いじゃなくて本当に笑っている。


 しかし、そのまま沈黙が続いた。困った、ネタがない。バイト先のパートの人の話でも……いや、女性ネタだから地雷を踏む可能性があるかも。


「妹が先天性乏毛症だったの。それで、小さな頃、カツラを……」

「それって……」

「そう、二海ふたみのこの記事を見た時、読めなかったけどヘアードネーションなんだろうなって」

「でも、それ、俺の髪の毛じゃないぞ、絶対」

「うん。でも、二海ふたみみたいな人がいるから、妹はカツラを作ってもらえたんだと思う」


 ようやく菜可乃なかのはこっちを見た。泣いている。俺はポケットからバンダナを取り出して、涙と鼻水を拭いてやった。


 あれ? ちょっと待て、先天性乏毛症は、ほぼ治らないはず。さっき、過去形で言ったよな。これ以上は訊かない方がいいのかも。


二海ふたみ、いい勘しているね」

「俺、何も言ってないぞ」

「顔に書いてあるよ。二海ふたみ、真面目で正直だもん。半年も一緒に住んでいればわかるよ」

「そうか、なんかすまない」


「じゃあ、お願いを聞いてくれるかな」

「いいよ」

「なんでも?」

「できるやつなら」


 菜可乃なかののして欲しいこと? あと、何が残っている?


「別れて欲しい。二海ふたみの長い髪を見ているときついの」

「そっか。じゃあ、切ろうか?」

「それもダメ」

「わかった」


 肩が震えているのがわかる。力を込めて何かを抑え込もうとしている感じ。


「あとね、できたらさ、最後にもう一度しようよ。二海ふたみの限界まで」

「それはちょっと、なんか」

「某世界大会の選手村だって、負けた選手同士、お盛んらしいよ」


 そういえば、以前、ニュースで『ピーピーコンドーム』を何万個も配っているって放送していたな。


「確かに」


――ピッピッピッ


 菜可乃なかのは立ち上がり、壁にかけてあるリモコンを操作してエアコンの設定温度を下げた。


「私さ、今、妹のことを思い出しちゃって、寂しいの。隙間、埋めてくれないかな」

「そうか」


「私ね、妹にひどいこと言っちゃったことがあるの。恥ずかしくてさ」

「そんなことない」


「そのまま、謝る前にね、あのね、だからね……」

「うん」


 ダメだ、語彙力が追いつかない。


「だからね、ずっと後悔しているの」

「うん」


「私が嫌だと言っても続けて」

「うん」


「なんか、悪かったな」


「ううん、いいことをしているんだし、妹だって、二海ふたみみたいな人がいたからカツラを作ってもらえたんだよ。謝ることないよ」

「じゃあ、シャワー、あびてくる」

「待って。そのままでいいから」

「いや、汗をかいているし」

「それがいいの」


 菜可乃なかのは後ろから俺を抱きしめ、そのままセミダブルのベッドの方へ向きを変えた。そして二人でベッドに倒れこみ、四十分ほどで第一回戦、終了。

 やはり乱暴は好みじゃないので、丁寧にした。


「私ね、二海ふたみのこと、好きよ。この人なら絶対、間違いないって思っていた。でもね、二海ふたみに近づけば近づくほど、二海ふたみのことが怖いんだ」


「なぜ?」


二海ふたみが抱えているもの、私が一緒に抱えれるって全然思えない。二海ふたみはさ、何でも話してくれたよね。普通だったら絶対に話さないような恥ずかしいこととか黒歴史とか」

「まあ」


 そうだ。菜可乃なかのに聞かれたことは全部答えているし、特に菜可乃なかのが不安定になってからは、俺から昔話や話題のネタとかをなるべく話している。


 俺は菜可乃なかのにディープなキスをし、そのまま俺たちは第二回戦目に入った。ここからは菜可乃なかのの方も準備完了状態だ。


「ね、二海ふたみ、気が付いている? 絶対に話さなかったことがひとつだけある」


 そうだ。菜可乃なかのに話していないことがある。恐らく、俺が無口になったきっかけだ。


「もし、それを聞いたら、聞いてしまったら、自分が自分でなくなっちゃいそうで怖いんだ。二海ふたみはすごいよ。すごすぎるよ。どうして耐えられるの?」

「だから言葉数を減らしている。そうすれば、うっかり話してしまう可能性も減るし」

「そっか」


 そして、なんだかんだと順調に進み、第六回戦が終わった。ちょっと、次はきついかも。菜可乃なかのも眠そうだ。


「あのさ、私、たぶん二海ふたみのこと、あこがれているんだよ。二海ふたみみたいになりたいって。もし、二海ふたみが私のことを愛してくれていたら……変われたかもしれないけど」

「恋愛にうとくてすまない」

「でも、今はね、怖いの。本当の二海ふたみを知ることが。二海ふたみを支える自信もない」


 話すべきか……いや、墓場まで持っていくと決めたことだ。


「勝手な理由でごめん。お詫びに二海ふたみが私を欲しくなったらいつでも来ていいから。在学中は彼氏を作らない。私、二海ふたみを受け入れるから……」

「そんなことは……」


――ス~、ス~、ス~


 結局、俺の限界と共に、タイミングよく菜可乃なかのは寝てしまった。さすがに、あちこち痛い。


 ベッドから立ち上がり、エアコンの温度設定を戻すと、洗面所で人肌温度の濡れタオルを用意し、素っ裸で寝ている菜可乃なかのの身体を拭いた。


 そして薄い布団をかけ、俺はシャワーを浴びながら菜可乃なかののことを考えていた。菜可乃なかのと一緒に話をするのは楽しいが、終わりは突然やってくるものなんだな。


 菜可乃なかののおかげで、ちょっと恋愛感情が理解できた気がする。

 別れることになって、今、胸の下あたりに妙な脱力感を感じている。「胸にぽっかりと穴が開いた感じ」というのは、このことかもしれない。


 今週末は大学祭、気持ちを切り替えていこう。住むところも、また祖母ちゃんちに戻るだけだ。


 菜可乃なかのが眠っている横で、荷物をまとめ始めた。来た時と変わっていないから、数回で持ちだせるだろう。


――ぽたっ


 よくわからないが、涙が溢れ出てくる。心が成長したことにしておこう。




   ----------------




あとがき

数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。


ヘアードネーションは、髪の毛に不自由している子どもたちにカツラをプレゼントするために、伸ばした髪を寄付することです。「ヘアー・ドネーション」です。


団体に寄りますが、概ね、三十二センチ以上というところが多いようです。


もし、髪を伸ばしていたら、ぜひ、寄付してあげてくださいね。



おもしろいなって思っていただけたら、★で応援してくださると、転がって喜びます。

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それではまた!

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貧乏大学生の恋事情は②最後の夜に六回を記録 綿串天兵 @wtksis

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